#30
「ねぇ、楠さんってどこ中だったの?」
「…………中」
「部活とか、なにかやってた? どっか入る予定ある?」
「………………にゃい」
「ど、どうしてしばらく休んでたの? なにか……病気とか?」
「……………………」
「そ、そっかごめん。言いたくないことって、あるもんね」
「………………………………んが」
会話になっていなかった。
口下手にもほどがある。
クラスの一部の果敢な女子たちは、なんとか楠さんとコミュニケーションをとろうとがんばっていた。しかし、当の楠さんがあの調子では、仲良くなる以前の問題だ。
胸が痛かった。
どうにも他人事に思えない。
かといって、俺が話しかけるような理由もない。
それに、俺だって人のことは言えないのだ。同じクラスとはいえよく知らない女子生徒のことを心配するより、自分が男子の輪に加わることを目指すべきだ。実際、いくつかに別れた男子グループも、すでに楠さんのことは興味の範疇にないようで、それぞれの話題に興じている。
ぽつん、と楠さんは自分の席でうつむいている。
すこしだけ気の毒だった。
だが俺がそうであるように、これは本人の問題だ。
まあ女子は男子に比べて結束意識が高いから、そのうちなんとかなるだろう。
俺は彼女の観察を意識的に断ち切り、教室を出た。
その日の昼休み、めずらしく弁当がなかった俺は、購買へと足を運んでいた。
惣菜パンと飲み物を手に教室に戻ろうとしていたとき。
ガタン、と物音がした。
通りかかった部屋からだった。
扉の上のプレートを見上げると、『第一小講義室』と書かれていた。
記憶をたどる。たしか以前、少人数授業を行うための教室だと説明された。だがいまのところ俺のクラスでは使ったことがない。校舎の端っこのほうにあるので、そういえばこんな部屋もあったな、という程度の認識だった。
俺はなにげなく、扉に手をかけた。
当然、だれもいなかった。
なかは普通の教室の半分程度の広さだった。ゆったりとした感覚で机が並んでいる。
だが、そのうちのひとつの椅子が倒れていた。
「……?」
続いて俺は、ベランダへの扉がわずかに開いていることに気づく。
どうしてそこで引き返さなかったのか。おそらくわずかな好奇心に動かされた俺は近づき、ベランダへ出る扉を開けてしまった。
足元に、女子生徒が座っていた。
小さな弁当箱と箸を手に、こちらを愕然とした表情で見上げている。
そしてそれはあの、楠千亜だった。
状況が、すぐには理解できなかった。
弁当を手にしているのだから、つまり昼食なのだろう。それはわかる。
でもなぜこんなところで?
ほかにだれかいるのか、そう思った。けれど他の女子の姿も気配もない。そこまで理解してようやく俺は悟った。
見てはいけないものを、見た。
「し、失礼……」
俺はなにも見なかったことにして、そそくさとその場から立ち去ろうとした。
だが――
なにかに引っ張られた。
ぎょっとした。
おそるおそる振り返ると、楠さんが俺の制服のすそをちんまりとつかんでいた。
驚異的なすばやさ。妖怪かなにかか。
正直、こわい。
だがその握力は、ひどく弱々しい。
「…………にん」
「は、はい?」
どんよりしたオーラをまとった楠さんが、なにかつぶやいた。
俺は逃げたい一心だったが、得体の知れない恐怖から、楠さんの言葉に耳を傾けた。
「…………責任、とって」
「……は?」
いったいなにを要求されるのか、俺は戦慄していた。
*
言われるまま、俺は彼女を保健室まで送った。
「これで、いい?」
こくり。
楠さんが無言でうなずいた。
なんなんだろう、いったい――
どうやらさきほどの責任とは、楠さんを保健室まで連れてくることで果たされたらしい。
安心したというか、拍子抜けしたというか。
楠さんは俺にべつだん礼を言うこともなく、静かに保健室に入っていく。
体調が悪かったのだろうか。
とりあえず、これで役目は果たした。
扉の前でほっとしていると、中の会話がもれ聞こえてきた。
(――どうしたの? なんだか、すごく落ち込んでるみたいだけど……)
(…………とある男子に、見られて)
(見られた、って……?)
沈黙。
楠さんが、小さくえずく。
それはとてもかよわく、痛々しい泣き声だった。
(だれにも見せたくなかったところを……勝手に、無理やり……それで……)
(まあ……)
(心の傷……トラウマ……PTSD……。一生……きえない)
(……!! 大丈夫よ。安心して、先生が付いてるわ)
じわり、と背中に大量の冷や汗が浮かんだ。
(う、うぅ……せん、せ)
(かわいそうに……。ねぇ、もしあなたが耐えられるなら、その卑劣で外道な男子生徒の名前を先生に教え――)
俺はあわてて保健室の扉を開けた。
「あ、あのぅ!? ちょっっといいですかね!?」
「なにあなた。いまは彼女の診断中よ」
楠さんの手を握った保健室の先生にきつくにらまれる。
「いや、すみません……。た、ただ、どうもその彼女と自分のあいだに、大きな誤解があるようで……」
ひきつった笑顔を作りながら、楠さんに近づいた。
「……おい」
「ひっ」
楠さんが怯える。
ますます焦りを感じ、俺は強攻策に出ることにした。
「楠さん、よ、よかったらちょっと、お話ししませんか? の、飲み物とかなにか、奢りますので……」
俺の必死の説得に、楠さんはこくり、とうなずいた。
約束どおり、中庭にある自販機で楠さんに紙パックのイチゴ牛乳を買ってあげた。
楠さんはそれをちまちまちとすすっている。
「あのさ、その、さっきの言い方だと、まるで俺がなんかしたみたいな……」
「で、でも、事実……」
「いや事実じゃないでしょ!?」
「うぅ、大声……攻撃、ひどい」
「攻撃って……」
なんなんだ、こいつ。
こんなに気が弱いのに、言動はわりとクズっぽい。
すくなくとも、俺の人生ではじめて出会うタイプの人間だった。
わからない。
なぜ俺は、まだ会って間もない女子生徒にこうも振り回されているのだろうか?
くいくい、と楠さんが俺の袖をひっぱった。
その顔はなぜか絶望に歪んでいた。
「……今度は、なに」
「…………すとろー…………ちた」
ストロー? それがどうしたのか。
楠さんは俺のほうに、紙パックを持ち上げて見せた。
どうやら差込口のなかに、ストローが落ちてしまったらしい。
なんというドジか。
楠さんは涙ぐみ、この世の終わりのような顔をしている。
「…………」
俺はまだ飲んでいなかった自分の飲み物からストローを取り外し、彼女に手渡した。
なんだろう。
自分を見ているような気がする。
あるいは、妹か。実際の妹(詩歩)が俺とは真反対に優秀なので、遺伝子の奇跡が起きていなければ、本来はこういう妹がいたのかもしれない。だからといって親しみがわくということでもなかったが。
「遠野くん?」
横から声をかけられ振り向く。
そこにいたのは、伊予森さんだった。
伊予森さんが天使に見えた。いや、いつも天使のように美人だが、助かった、と俺は心底安堵した。
「なにしてるの? あ、楠……さん?」
伊予森さんがいつの間にか俺のうしろに隠れていた楠さんを見つけた。
楠さんは伊予森さんを見て、びびっている。
見詰め合う、対照的なふたり。
メスライオンに見つかった小ウサギ、といった感じの構図だった。
学校社会のなかの力関係という意味では、あながちまちがっていないかもしれない。
「遠野くんって、楠さんと知り合いだったの?」
「いや……そんなことないよ」
「? あ、ごめんね楠さん。中学、同じだよね?」
「…………ん」
「同じクラスになったことなかったら話したことなかったけど……。でも、今日から一緒だし、よろしくね」
そうだったのか。知らなかった。
「でも、どうして遠野くんが、楠さんと?」
「それが……」
どこからどう説明したものか。
「なんていうか、楠さんって、ちょっとあれっぽくて……」
「あれ?」
俺はことの経緯を説明した。
話を聞きながら、伊予森さんはなにかをじっと思案していた。
「――なるほどねぇ。つまり、楠さんは、遠野くんをより悪化させた症状を持っていると」
「まあ……うん」
なんだかその言い方だと、俺=病気のようにも聞こえるが……。
ともかく、俺には手が余る。
こういうのは、クラスの中心にいる伊予森さんのような上位種の人間にこそ預けられるべき問題だ。決してコミュ力底辺の俺が対処することではない。
状況を理解し、伊予森さんは改めて楠さんに近づいた。
「じゃあさ、わたしと友達になろっ?」
「………………はぅっ」
楠さんはなにかダメージを受けたようにあえぎ、不審そうに伊予森さんから目をそらした。
その反応に伊予森さんは戸惑っていた。なぜ拒絶されるのか、自分がなにか気に障る言い方をしたのか不安そうな目だ。
まあ、気持ちはわからないでもない。
伊予森さんにそのつもりないだろうが、明らかに自分よりも“強い”人間からいくら好意的に接されたとしても、気後れするし、警戒してしまうのだ。それは弱者の本能とでもいうべきか。
「えっと……」
伊予森さんが困ったように俺を見た。
俺は適当に思いついたことを口にする。
「……なにか、誘ってあげたりしたら、いいんじゃないかな」
「っていっても、わたし部活もとくに入ってないし……」
俺も同じだ。
こういうとき、自分の役立たなさを自覚する。
だがしばらくして、伊予森さんがぱっと表情を明るくした。その弾んだ様子に、俺は首をかしげる。
「ふっふーん、いいこと思いちゃった」
「?」
伊予森さんは楠さんの手をとり、
「――楠さん、ゲームって好き?」
策士の笑みを浮かべながら、そう言った。




