WOLF 1
彼女が町はずれの丘に行こうと言った。
「星をみましょう」と笑った。
とても綺麗だった。
町はずれといっても丘はそんなに遠いわけじゃない。自転車を使えばどうってことはなかったから、僕も別に反対はしなかった。それよりもむしろ、彼女が自分からどこかへ行きたいと言ったことがこの上なく嬉しかった。いつも僕が聞いたって彼女は、「どこでもいい」とか「あなたの好きに」としか言わないのだ。良く受け取ればそれは僕といられればそれだけで満たされているということだが、悪く言えばどうでもいいということで、僕は後者ではないかと自信を無くしていたのだ。
「なんていうのかしら、あの星は。」
そう言って広い空の一点を指差す彼女に、「ペテルギウスだよ」と僕は教えた。
「赤く光っている…」心に染み込ませるように彼女は呟く。この星々をけっして忘れないと、そう誓うように。
「忘れないわ、きっと私は」笑ってそういえる《彼女》は、きっとこの世界で一番強い女の子だ。僕なんかには、到底マネなんてできない。きっとそんなこと、泣けてしまってできない。
僕たちの夜は、今日で最後。
少なくとも今ここにいる僕たちは、明日にはアトカタも無くなる。
それでも僕は《彼女》を、二度と離さないと決めたのだ。
それは覚悟であり呪いで。きっとこの決意は僕を苦しめ、そして君を苦しめて、結局だれも幸せにはならないんだろう。
「じゃあどうして?」星から視線を外して、《彼女》がこちらを見ながら呟く。
「分かってるなら何故?なぜ私を捨てないの?」そんな哀しいことを、彼女笑いながら、まるで何でもないように言う。《彼女》が時折みせる、自虐的な笑顔。
「いいんだよ、もう決めたことなんだ。」
嘘を吐いた。本心でないことを言った。《彼女》に嘘を吐くという、それはもうとっくに覚悟できていたはずだったけど、それでも僕は多分、自分の心の中で蠢く、真っ黒な後ろめたさを隠しきれなかった。
其の時僕は、うまく笑えたろうか。答えはノーだ。
「僕は君と一緒に死ぬよ。」
俺は夢をみていた
遠い過去のことだ
中学生のガキにとって、好きな女の子が死ぬっていうのは、とても衝撃的なできごとだったろうって思う。それこそ一生ついて回る、心の傷にぐらいなるものだと、当時の俺は覚悟を決めていた。もう二度と恋なんてしないとか、誰かに心を許すことはもうできないとか、そういう類の「覚悟」を。でも思えばそんなものなんて、結局俺自身の自己満足の域を超えることなんてなくて、結果として俺はあっさり彼女のことを忘れてしまったし、人並みに恋愛もしてきた。つまり過去は過去だ。それ以外にもそれ以上にもなれないし、実質的な意味も所有していない。過去とはただそこにあったというだけで、今はゼロ。跡形もなく、存在しない。観測者がいなければそれは、ただの記録に過ぎない。この場合の観測者とは俺一人だけなのだから、彼女の死は一人の少女の死以上の価値は生み出さなかったということになる。あの夜彼女は自殺した。校舎の屋上。俺の目の前で星空の中に身を投げた。落ちる前に、彼女は振り返って僕を見た。
「ついてきてね。」そう言って微笑んだ。俺は死ななかった。
彼女の身体が、地面に叩きつけられた音で目が覚めた。
地平線上に日が昇る。
小さな窓から真横に差す日光が俺の眼を瞼越しに焼いた。
「あっつ」自然と眼が覚めて、俺はまだ鳴っていないアラームを切ろうとベッド脇に手を伸ばす。
手探りでそれを見つけてスイッチを切りつつ針に目をやると、ちょうど6時になるかならないかというところだった。
「…今日はオフなのに。」予定としては午後にカウンセリングがあるだけだ。こんなに早起きしてもすることなんてありゃしない。寝る前にカーテンをしっかり閉めておかなかったことを今更後悔しながら、一度足元に追いやった毛布をもう一度胸元に手繰り寄せて眼をつむってみるけれど、もうしばらく眠気は来てはくれないようだった。「くっそ」俺は諦めて跳ね起きると、ジャケットのポケットに煙草とライターを突っ込んで羽織り、そそくさと部屋を出た。
部屋の出口に近づくと、カーボンの灰色の扉が横にスライドして開く。
白い樹脂素材でできた宿舎は室内温度、湿度が一定に保たれ、シリアのような昼夜の温度差が30度近い砂漠地帯でもその機能は十分に果たされている。外に出るとそれが身に染みて良く感じられた。
肌にへばりつくような暑さは故郷のそれとは少し異質なものと感じられて、砂漠の丘が幾重にも重なる彼方には、風に漂う無数の砂粒越しに黄色い太陽が佇んでいる。
朝のシリアは黄色い。太陽も空も、足元に踏みしめる土さえも。ましてここは俺たちの基地以外には何もないから。人間どころか動物や植物の気配さえも今は皆無だ。
煙草に火をつける。シリアの少年から買ったものだ。ここにはよくそういった物売りがやってくる。あまりの渋さに思わずえづいてしまうような代物だが、慣れればそれもまた味だと思えたし、そもそも俺が煙草を始めたのはこっちにきてからで、もしかしたら世の中の煙草は全部こんな味なのかもしれないとも考えられる。
「煙草以外は入ってないだろうな?」俺がそう聞いた時の少年の困った顔は少し俺を不安にもさせたが、今となってはそれももうどうでも良いことだった。
明日死ぬかもしれない人間が、一体何を怖がれというのか。
銃で撃たれて死ぬよりは。飢えてのたれ死ぬよりは。異物混入の煙草で死ぬっていうのは、感覚としてはとても愉快ではないだろうか。その愉快さを、あるいは人間性と言い換えてもいいかもしれない。ありとあらゆる死の可能性が、シリアとこの煙草には蔓延している。俺が思うに、紫煙と砂漠を漂う空気にはどこか似た感じがある。
その匂い、きな臭さがどろどろと咽に絡むこの国この大地の乾いた空気。そして不健康で非論理的で雑然としている。そして決して日本にはない。東京にはない。彼らの肌には合わないし受け付けられない。
かつて俺もそれら潔癖症どもの一員だった。
でも今はその複雑さと混沌を、むしろ自然だとそう思えている。喉を焼くような乾いた空気も、頭を抱えたくなるような猥雑な雰囲気も、それでいいんだと、ただそうであるだけなのだと。
だからそう。俺が煙草を好きになったのもきっとそういうことだろうし、人を殺すことを躊躇わなくなったのも、毎日食事に盛られているドラッグのせいだけではないんだろう。なにより俺は、それを知ってて毎日あそこのハンバーガーを食べているわけだから、
背中が凍るような現実も、平然と受け入れる、受容する。今の俺にはそれができる。
この果てのない砂漠が、あるいはその無表情な地平線が、どこか俺の感覚的なところを触っているのかもしれない。そういう確信があった。
煙草で頭を真っ白にする。その作業にはちょっと時間がかかる。
6時を回ったころ、俺は基地に戻り、その足で食堂に向かった。食器が重なる音が重なって聞こえてきて、自分が少々出遅れたことを悟った。胸板の厚い男共でわいわいと賑わう声とともに、気色悪い湿気た空気が鼻の頭を掠める。案の定、食堂はすでに、まるでスペアリブを重ねたように胸板の厚い大男たちでごったがえしていた。その圧倒的な光景に、ため息しかでない俺に、
「コウ!」
奥の机で、小さく縮こまりながら声をかける男がいる。相良だとすぐに分かった。
逃げるように彼のもとへ滑り込むと、彼の机には俺の分のハンバーガーと椅子がそろえられていた。
「どこにいってたんだ。探したんだぜ」
「外に出てた。煙草をやりにね」
「大丈夫なのか、お前今日午後からカウンセリングだろ、可哀想にさ」
それに関してはまったく不運としか言えないのだが、はにかんで俺を茶化す相良は俺よりもずっと顔色が悪いとみえた。
「お前こそどうしたその顔は?」
聞きながらしかし、俺はその原因をよく知っている。なにせ同室だ。いやでもわかる。
「なあに、」
知ってか知らずか。相良の口元はまだはにかんだままだった。
「ハンバーガーがまずくってよ」
「何時ものことだろ、それは」
「そうだった?」
これでバレないと、本気で思っているのか。俺は鼻を鳴らして、目の前のハンバーガーに噛り付いた。
立ち入るなと。相良の態度はつまりそういうことだと解釈できる。だからそれ以上は俺も問いつめたりはしない。俺はそこまでできた人間じゃないし、自分が彼の立場だったとしてもやはり干渉してほしくないだろうと思う。ハンバーガーを食べる彼は、やはり前よりやつれている。くぼんだ目が、どこか目の前をさまよっていると感じられた。その姿が、記憶の中の誰かの影に重なって見える。
俺は黙ってハンバーガーを食べ続けた。とてもまずかった。