ライラックの下に眠る
つぐみや金糸雀の姿を見かけなくなった。
美しいさえずりさえも、聞こえなくなった。
空が灰色に澱んでいる。
湖の水が濁っている。
みずみずしかった木々の葉は、ほとんどが枯れ落ちてしまった。
積み重なる数々の異変。
この世界が壊れてゆくのを、僕はなすすべもなく、ただ、見ていた。
*
遠くから、かすかにリラの泣き声が聞こえた。
僕はじっと耳を澄ませ、その方向へひたすら足を進める。枯れ葉に埋もれた森は、裸の枝があちこちに張り出していて、ひどく歩きづらかった。泥が絡んだように足が重くて、何度も立ち止まりそうになった。
僕を案内してくれるつぐみや金糸雀は、もういない。それが、ひどく悲しかった。
ややあって枯れ木の密集した道が途切れ、視界がひらけた。
たどりついたのはいつもの場所だった。
ライラックが青々とした葉を風に揺らし、色取りどりのきれいな花を咲かせている。澄んだ色をした空が、果てもなく広がっている。
いつもと変わらない、色鮮やかな情景。
そんな見慣れたはずの情景を、いまは心から愛しいと思う。
大丈夫だ。そう自分に言い聞かせる。まだ、すべてが壊れてしまったわけじゃない。
立ち止まり、ぐるりとあたりを見渡す。
リラはすぐに見つかった。白いライラックの下で、地面に座り込み泣きじゃくっていた。
僕はリラのそばに歩み寄る。
「泣かないで、リラ。大丈夫だよ」
隣に座り、震える身体を抱きしめた。このまま消えてしまわないようにと、強く。
「大丈夫。悲しいことなんて、何もない」
繰り返し、ささやく。やさしく背中をさする。
このまま終わってほしくない。
けれど、懸命に嗚咽を堪えようとするリラの姿は、あまりに小さくて弱々しかった。
永遠とも思える時間の後。やっと心が静まったのか、リラはゆっくりと顔を上げた。
涙はいまだ涸れていなかった。まばたきをするたび、濡れた目から溢れて頬を伝ってゆく。
それでも、リラはまっすぐに僕を見つめてくる。ライラックの葉が白い頬に斑の影を落としていた。
「たくさん、泣いたね」
僕はリラの頬に触れ、指先でそっと涙を拭った。笑って、いつもの調子で問いかける。
「今日はどこに行く?」
けれど、リラはなにも答えなかった。うつむいて、ゆるゆるとかぶりを振る。
「ごめんね。わたし……疲れた」
ただひと言、掠れた声を絞り出して呟く。それから倒れ込むようにして、再びその身体を預けてきた。
僕は両の腕でそれを受け止める。
込み上げてくる思いを飲み込んで、応えた。
「いいよ、眠っても。僕はずっとここにいるから」
腕の中で、こくん、とリラが小さくうなずく。
そのとき、白い花びらが一枚、ふわりとリラの肩に舞い落ちた。
僕は反射的に顔を上げ、息を飲んだ。
近くにある薄紫色のライラックが、急速にその花を散らし始めていた。
それを皮切りにしたように、周辺のライラックも風に揺られ、次々と花びらを散らしてゆく。
流れる風にさらわれて、舞い上がって、さまざまな色が入り乱れる。
いよいよか、と僕はさとる。
じきに、この場所も壊れてしまうだろう。
そしてこの場所が壊れたとき、僕も一緒に消えてしまう。
それなのに――
目の前に広がる光景は、ひどく幻想的で、美しかった。
頭上から、白い花びらが舞い落ちてきた。
いつか二人で見た雪のように、それはひらひらと宙を踊り、僕とリラの身体に降り積もる。
だけど、雪と違って、ライラックの花びらが消えることはない。
「リラ」
金色の髪を指で梳きながら、呼びかける。
しかし、もう眠りに落ちてしまったらしく、リラの声が返ってくることはなかった。
僕はすこしだけ腕を緩めて、眠っているリラの顔を見る。
そして、思わず微笑んだ。
返事なんて、なくてもかまわない。
その寝顔はとても穏やかで、満ち足りていて、
そのことが、ただ嬉しかった。
「……きみのことが、大好きだよ」
徐々に視界が歪み始めた。色が消えて、風景がモノクロになる。
葉擦れの音が聞こえなくなり、辺りが静寂に閉ざされる。
もうすぐ、僕はこの世界から消えてしまうだろう。
けれど、リラの笑顔は僕の脳裏に焼きついている。
最期のときまで、僕の身体はリラの体温を、鼓動を、感じていられる。
それだけで、僕は幸せだった。
こんなお話を書いておいて何ですが、実はわたし、ライラックを見たことがありません。なので、描写は完全に写真とイメージ頼り……ちゃんと伝わる文章になっているのか不安です;
ライラック、一度実際に見てみたいなぁ。
それでは。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。