壊れた世界
「ここが好き。悲しいことが、何もないから」
怒鳴り声が聞こえることもない。痛い思いをすることもない。
それが嬉しいとリラは言う。
そして、僕に微笑みかける。
僕は声を失くしたみたいに、何も言えなくなってしまう。
*
いつもの場所。薄紫色の花びらを揺らすライラックの下で、リラがふと歩みを止め、視線を上方に移した。
「わたし、今日はこの色が好き」
「今日は?」
鸚鵡返しする僕に、リラは照れくさそうに笑った。
「えっとね、日によって変わるの。この間はあの色が好きだった」
そう言って、近くにある白いライラックを指差す。そっか、と答えて、僕はリラに笑いかける。
「じゃあ、今日はここで休もうか」
「うん!」
リラは大きくうなずいて、弾けるような笑顔を見せてくれた。
薄紫色のライラックの木陰に、いつものように二人並んで腰を下ろした。
風が吹き抜けるたび、あたり一面に香るライラックがはらりと花弁を散らす。さざ波のように、葉の擦れる音がひびく。
他愛のないおしゃべりをしていたリラは、段々言葉少なになり、まもなく口をつぐんでしまった。小さくあくびをして、そっと僕の肩に頭を預けてくる。
「眠いの?」
たずねると、あわてて身体を起こし、こくんとうなずいた。
「気にしないで、眠っていいよ」
「……うん」
リラは眠たそうに目をこすり、再び身体を預けてきた。触れ合っているところから、服越しにじわりと温もりが伝わってくる。金色の髪がさらりと僕の肩口にこぼれ、さわると、そのくすんだ髪はやわらかく指先に絡んだ。
すっかり眠ってしまったらしく、リラは微動だにしなかった。
近頃、リラは眠っている時間が長くなった。
以前は僕とあちこちをかけ回ったり、おしゃべりをしたりしていたのに、最近はここに来てすぐ眠りに落ちてしまう。
きっと疲れているのだろう。この世界にいるときだけでも、ゆっくりと休ませてあげたかった。
一緒に遊べなくても、おしゃべりができなくてもいい。
ただ隣にいてくれれば、それだけでいい。
リラが向こうの世界に帰る瞬間まで、僕はあどけない寝顔を見つめていた。
*
ずっと、ここにいればいい。
何度そう思っただろう。
だけど、リラのいるべき場所はここじゃない。
どれほど向こうの世界が辛くても、
どれほどこの世界が安らぎに満ちていても、
リラは必ず帰らなければならない。
だから、せめてここでの時間が、ほんのわずかでも救いになるようにと。
そう願わずにはいられなかった。
*
夢を見た。
それは向こうの世界で起こっていることなのだと、僕はこれまでの経験から理解していた。
けれど、今日はいつもと違う。
泣きわめくリラの声が聞こえる。
たとえ何をされても、あのひとの前では絶対に泣かなかったのに。
不安がひしひしと押し寄せて、心臓が早鐘を打ち始める。
視界がぼやけているせいで、何が起こっているのか分からない。
耳を澄ませると、リラの言葉が輪郭を帯びてきた。
おかあさん、やめて、お願い。
悲痛な声でそう訴えている。
けれどあのひとは、リラの言葉に耳を貸すつもりなど、きっと欠片もない。
それまではっきりとしなかった視界が、霧が晴れたみたいに鮮明になる。
そして、僕ははっとする。胸がつかえて、息が出来なくなる。
あのひとの手元に目が釘付けになる。
……ノートだ。
鍵をかけた机の引き出しに、しまっていたノート。
あのひとが、持っているノートを力任せに引き裂く。
リラが悲鳴を上げる。それを取り戻そうと、細い腕を伸ばして必死にあのひとにすがりつく。
突き飛ばされて、リラは机に頭を打ちつけた。そのまま床に倒れこみ、痛みに顔を歪めている。
二つに引き裂いただけでは飽きたらず、あのひとは、今度はページを一枚一枚破いてゆく。紙片が床に散乱する。
リラは逆らう気力を失ったのか、身動きもせずそれを見つめている。
僕は堪えかねて、叫んだ。
どうか、それだけはやめて。リラの世界を壊さないで――
だけど、違う世界にいるあのひとに、僕の声なんて届くはずもない。
やっと満足したらしく、あのひとは勝ち誇ったように笑い、そして去ってゆく。
たったひとり部屋に残されたリラは、しばらく呆然とその場に座り込んでいた。やがて我に返ったように、びりびりに破かれたノートを拾い上げる。中を見て、求めているものが一枚も残っていないことを認めたのだろう、すぐ傍らに置いた。
それから、紙片を手でかき集める。繋ぎ合わせる。あれほど細かく破られた紙が、元通りになることは決してない。それでも、がむしゃらに手を動かす。何かに憑かれたように、一心に。
突然、その手が止まった。
光を失った青い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれて床に落ちてゆく。
一面のたんぽぽ、草原、森、紅葉、降りしきる雪、そしてライラックの花。
辛くて苦しくて心が壊れそうなとき、小さな一冊のノートの中に、リラは自分だけの世界をつくった。色鉛筆で描かれた、温かくてやさしい世界。
その中に生きる自分を夢想して、心を慰めた。
けれど、その世界は壊れてしまって、もう戻らない。
リラはそれを知ってしまったのだろう。
いまや原型を留めていない、つぎはぎだらけのライラックの絵。
涙を拭うこともせずに、リラはいつまでもそれを見つめていた。