やさしい世界
深いふかい森の奥。
今日も、あの子は泣いている。
*
薄暗い森の中、大樹にもたれて空を仰ぐ。
涼やかな風が吹いて、葉末を揺らしてゆく。
その音に耳を傾けていると、はるか遠くから声が聞こえた。胸を締めつけるような、押し殺した泣き声。けれど、方角が分からない。必死に神経を研ぎ澄ます。
そのとき、僕の指先につぐみが下り立ち、美しい声でささやいた。
『リラが来たみたいだよ。早く行ってあげて』
つぐみがすいっと飛び立ち、ぱたぱたと羽をはばたかせて僕を誘導してくれる。
「ありがとう」
僕は礼を言って、つぐみの案内にしたがった。
リラはすぐに見つかった。森の中にひっそりとたたずむ湖、そのほとりに座り込んで泣いていた。薄汚れた金色の髪が、降りそそぐやわらかな光を反射している。
僕はリラの隣にひざをつき、小さな体躯を抱き寄せた。そっと背中を撫でながら、さとすように言う。
「大丈夫だよ、リラ。悲しいことなんて、何もない」
リラは僕の声など聞こえていないかのように、押し殺した声で泣きつづける。細い腕で、精一杯の力で僕の身体にしがみつく。
僕はリラに届くまで、同じ言葉を繰り返し、その背中を撫でつづけた。
ようやくリラが泣きやんだ。ほっとして、抱きしめていた腕をほどき、僕はたずねる。
「今日はどこに行くの?」
リラは目じりに溜まった涙を拭って、声を弾ませた。
「川。たんぽぽがたくさん咲いていて、とてもきれいなの。……それから、いつもの場所」
「そっか、楽しみだな」
「うん。早く行こ!」
嬉しそうに笑って、リラが僕の手を取る。僕はその手をぎゅっと握り返した。
リラの言葉どおり、そこはとてもきれいな場所だった。
黄色い絨毯を敷き詰めたみたいに、一面に咲いたたんぽぽが、風が吹くたびいっせいに揺れて、ふわふわと白い綿毛を舞わせる。底がよく見える透明な川は、太陽の光をはね返して輝いている。たぶん、僕たちのひざ下くらいまでの深さだろう。
僕の手を掴んだまま、リラは一目散に川の方へ向かってゆく。そして、ためらいなく飛び込んだ。
ぱしゃんと飛沫が跳ね上がり、粒子がきらめく。冷たい水を浴び、二人とも服がびしょ濡れになった。
リラが声を上げて笑い転げる。
それが嬉しくて、僕も一緒になって笑った。
*
僕とリラは、よく遊んだ。
野原をかけ回ったり、紅葉やどんぐりを拾い集めたり、一緒に大きな雪だるまを作ったり。
リラが白詰草で花かんむりをつくってくれたこともあった。
雨上がりの虹を、二人で眺めたこともあった。
僕はリラの笑顔が好きだった。
それさえあれば、他に求めるものなんて何もなかった。
*
『今日は大樹の下にいるわ』
金糸雀が僕にそう教えてくれた。僕は礼を言って、その場所に向かう。
ざわざわと、大樹の葉が擦れる音。そして腕の中で、リラの泣きじゃくる声。
「また、濡らしちゃった……ごめんね」
涙で服が濡れたことを気にして――いつも泣いてばかりいることを気にして、震える声で、リラが申し訳なさそうに謝る。
「そんなこと、気にしなくていいよ」
僕は笑って、ぽんぽんとリラの頭を撫でる。リラはくすぐったそうに身じろぎをして、やっと笑顔を見せてくれた。
「今日はどこに行く?」
「いつもの場所。追いかけっこするの」
「よし。じゃあ、行こう」
立ち上がり、どちらからともなく手を繋いだ。
金糸雀のおしゃべりを楽しみながら、しばらく森をゆくと、視界がひらけた。
抜けるような青空の下。広がる大地。白、薄紫、桃色……あたり一面に咲きほこる、色取りどりのライラック。
僕たちは色んなところに行ったけれど、どこに行ったときでも、最後にたどり着く場所は決まってここだった。リラにとってここは、きっと特別な場所なのだろう。
「わたし、逃げる方がいいな」
「じゃあ僕が追いかけるね。十、数えるよ」
「はーい!」
リラが楽しそうに声を上げ、それから走り去ってゆく。
僕はゆっくりと十秒数えて、リラのことを追いかけた。
僕の方が足は速い。
だけど、たくさんのライラックのせいで視界が悪く、油断するとすぐにリラの姿を見失ってしまう。背の低いライラックの陰に隠れられると、小さなリラの姿はなかなか見つけることができない。だから、僕は手を抜いたりしない。お互い真剣勝負だ。
どれくらいそうして遊んでいただろう。二人ともくたくたになったので、いったん休憩を取ることにした。
真っ白なライラックの下に、僕たちは並んで腰を下ろした。
風が吹いて、花をやさしく揺らしてゆく。甘やかな香りが鼻先をかすめる。
リラは頭上にあるライラックの花を仰ぎ、それから僕に向かって微笑んだ。
「わたしの名前、このお花から取ったんだって。おかあさんが教えてくれたの」
ここに来たとき、リラはいつもそう語る。
その顔はとても幸せそうで、僕は胸がいっぱいになる。