「砂を数える女は要らない」と婚約破棄されたので、海軍へ納める砂時計八百本は、どなたでも作れるそうですからお任せします
「砂を数える女は要らない。砂時計など、砂を詰めれば誰でも作れる」
アルマン様がそう告げられたのは、子爵家の工房の窓辺で、わたくしが秒振り子の糸を見上げ、千二百十四まで数えたところでした。
千二百十五。千二百十六。
口には出さず、数えるのはやめません。ここで止めれば、この一本はまた最初から返し直しになりますもの。
机の上では、硝子の胴の中を砂が細く落ちております。上の玉に残っているのは三分の一ほど。この一本が半刻を刻むかどうかは、あと六百振りで分かります。
「聞いているのか、クラリス」
「はい。千二百二十」
「数を言うな」
では、黙って数えます。
アルマン・デュフレーヌ様。デュフレーヌ子爵家のご嫡男で、わたくしの婚約者でいらした方です。いらした、と申し上げてよいのでしょう。たった今、そうおっしゃったのですから。
その隣には、薄紫のドレスの令嬢が立っておられました。硝子商ガルニエ家のヴィオレット様。工房の床にこぼれた砂を、靴の先で嫌そうに払っておいでです。
「三年も婚約していて、おまえがしたことといえば、砂を洗って、焼いて、窓辺で糸を眺めて数えることだけだ。砂遊びの女を子爵家の嫁にする理由がどこにある」
「うちの職人なら」とヴィオレット様が微笑まれます。「一日四十本は作れますわ。砂を詰めて、封をするだけですもの。二十日あれば八百本。ねえ、アルマン様」
「そういうことだ。海軍から新しい契約を取った。八百本、一本につき金貨二枚、総額金貨千六百枚だ。前金の四百枚はもう受け取っている」
千四百。千四百一。
「納期は六十日後。おまえの手では、六十日で八百本など到底無理だろう」
「おっしゃるとおりです。わたくしの手では、一本に半日かかります」
「半日!」アルマン様はお笑いになりました。「たかが砂を詰めるのに半日か」
「違約の取り決めは、いかがなっておりますか」
「前金の倍返しで金貨八百枚。それと王室御用の勅許の剥奪だ。どうせ起きないことだ、気にするな」
金貨八百枚。デュフレーヌ家の一年の収入が金貨六百枚であることは、帳場の方から伺っております。
気にするなと言われましても、わたくしのお金ではございませんので、たしかに気にする筋合いはございませんね。
千六百。千六百一。
わたくしは振り子から目を離さずに申し上げました。一度だけ。
「砂は、川砂を七度洗って三度焼きます。粗、中、細の篩を三枚通して粒を揃えます。それから一本ずつ秒振り子と並べて返し、千八百振りに合うまで砂を足し引きいたします。湿った日には封をいたしません」
「それを砂遊びと言うんだ」
「さようでございますか」
千七百九十八。千七百九十九。
上の玉の最後の一粒が、くびれを抜けました。
千八百。
ちょうどでした。わたくしは砂時計を返し、台座に小さく印をつけてから、ようやくお二人のほうを向きました。
「かしこまりました。詰めれば、たしかに砂時計にはなります」
「……分かればいい」
分かっておりますとも。砂時計には、なります。
時を刻むかどうかは、また別のお話でございますけれど。
「工房のものは子爵家のものだ。硝子も砂も、窯も振り子も置いていけ」
「承知いたしました。持ち出すのは、祖父の篩三枚だけにいたします。祖父がベルナール家の工房で使っていたもので、婚約の折にわたくしが持ち込んだ品でございますから」
「篩か。好きにしろ」
ヴィオレット様が、くすりと笑われました。
「篩なんて、うちの倉にいくらでもありますわ」
さようでございましょう。網の目を数えたことがおありなら、ですけれど。
その晩、わたくしは工房の棚を一つずつ片づけました。焼いた砂の壺は棚に、硝子の胴は木箱に、振り子は窓辺に。どれも元の場所へ戻しただけです。
工程を書いた紙は、もともと一枚もございません。祖父も書きませんでしたし、わたくしも書きませんでした。洗う回数も焼く回数も篩の順も、さきほど口で一度申し上げたきりです。
それ以上を求められてはおりませんもの。
婚約破棄の書面には、その日のうちに署名いたしました。この日が、零日目でございます。
翌朝、わたくしは篩三枚を麻布でくるみ、背負い袋の一番上に載せて、乗合馬車で港町へ向かいました。
門のところで、子爵様の馬車とすれ違いました。窓の向こうで子爵様は、王室御用の看板を見上げておいででした。金の縁取りの、門に掛かったあの看板です。
三年前、わたくしが初めてこの門をくぐった日にも、子爵様は同じように看板を見上げて、「これが我が家の体面だ」とおっしゃいました。
あの看板を支えていたのが二千四百本の砂時計であることを、子爵様はご存じだったのでしょうか。
ご存じだったとしても、もうわたくしには関わりのないことです。
工房を出るとき、窓辺の振り子は止まっておりました。糸を揺らす人が、もういなかったので。
◇
港町の東の外れに、祖父の工房がございます。
祖父が亡くなってから、網元のおかみのジャンヌさんが網小屋として使ってくださっていた建物で、戸を開けると干した網と潮の匂いがいたしました。
「なんだい、子爵家の若奥様になるんじゃなかったのかい」
「なりそこねました」
「そりゃあ、よかった」
ジャンヌさんはそう言って、網を片端から外へ運び出してくださいました。わたくしがお礼を申し上げると、手を振ってお笑いになります。
「礼はいいよ。そのかわり、うちの船団に砂時計を作っとくれ。網を入れてから揚げるまで、半刻を三つ計りたいんだ。今のは安物でね、船ごとに半刻がばらばらなもんだから、あっちはもう揚げた、こっちはまだだって、毎朝喧嘩さ」
「何本ご入用でしょう」
「船が十二艘で、一艘に三本。三十六本だね」
「六十日いただけますか」
「ずいぶんかかるねえ」
「湿った日がございますので」
ジャンヌさんは首を傾げましたが、それ以上はお聞きになりませんでした。
翌日から、川へ砂を汲みに参りました。
桶に砂を入れ、水を張ってかき回し、濁りを流す。一度目の水は泥の色、三度目で茶になり、五度目でようやく透けてまいります。七度目の水が底まで澄んだら、そこで終わりです。
洗った砂は、網元の干し場の窯を借りて焼きます。焼いて冷まし、また焼いて冷まし、三度目を焼いて冷ます。焼くたびに、指でつまんだ砂がさらさらと軽くなってまいります。
それから篩です。粗の篩で大きな粒を除き、中の篩に残ったものを取り、細の篩で粉を落とす。三枚を通った砂だけが胴に入ります。
ジャンヌさんは三日目に、篩の作業を覗きにいらっしゃいました。
「なんだい、同じ砂を三べんもふるうのかい」
「同じ砂ではございません。粗の篩を抜けた砂と、中の篩に残った砂は、もう別のものです。粒が揃っていないと、落ちる速さが日によって変わります」
「はあ。砂にも気分があるってのかい」
「気分ではなく、大きさでございます。お疑いなら、粒を指で並べてご覧くださいませ」
ジャンヌさんは本当に指先に砂を載せて、目を細めてしばらく眺めておいででした。
「……揃ってるねえ。気味が悪いくらい」
最後に振り子です。梁から糸を垂らして錘をつけ、長さを秒に合わせます。窓辺に硝子を置き、返して、数える。千八百で上の玉が空になれば良し。千七百九十なら砂を足し、千八百十なら砂を引く。一本に半日かかるのは、このためです。
五日目は朝から霧が出ました。
わたくしは胴に砂を入れたまま、封をせずに棚へ並べました。
「今日は休みかい」と、昼に顔を出したジャンヌさんがおっしゃいます。
「湿った日に封をしますと、中の砂が湿り気を抱いて、そのうち落ちが遅くなります」
「へえ。ほかの日と何が違うかなんて、あたしには分からないけどねえ」
「窓の硝子が曇っておりますでしょう」
「ああ、ほんとだ」
そういうことでございます。
◇
十四日目のことでした。
よく晴れた日で、わたくしは梁の振り子の横で、九本目の砂時計を数えておりました。八百二十あたりで、戸口に人影が差しました。
「失礼。こちらに、クラリス・ベルナール殿はおられるか」
海軍の紺の外套をお召しの、背の高い殿方でした。帽子を脇に抱えておいでです。
「八百二十四」
うっかり口に出してしまいました。
「……数えておられるのか」
「はい。わたくしがクラリスでございます。少々お待ちいただけますか。あと千ほどで終わります」
「待とう。中へ入っても、よろしいか」
わたくしは少し驚きました。戸はもう開いておりましたし、殿方というものは大抵、戸が開いていればお入りになります。
「どうぞ」
「ありがとう」
その方は戸口から三歩だけ入ったところで足を止め、壁際の木箱に腰を下ろされました。それから本当に、千と少しのあいだ、ひと言もおっしゃいませんでした。
千八百。上の玉が空になります。
わたくしは砂時計を返して印をつけ、ようやくそちらを向きました。
「お待たせいたしました」
「王立海軍、測量艦〈アルバトロス〉の艦長、エドモン・ラヴァルと申す」
ラヴァル艦長は外套の内から、一本の砂時計を取り出されました。見覚えのある胴の形でした。
「〈アルバトロス〉はこの三年、デュフレーヌの砂時計を使ってきた。測量には、半刻が半刻であることが要る。ほかの艦の砂時計では、同じ海を測っても線が合わなかった。うちの艦のものだけが、合った」
艦長は砂時計を逆さにして、木の台座の底を示されました。
針で引っかいたほどの小さな点が三つ、三角に並んでおります。
祖父の工房では、出来上がった一本の底に、作った者が点を打つ決まりでした。祖父は一つ、わたくしは三つ。子爵家ではどなたもお気づきにならなかったので、三年間、二千四百本すべてに打ってまいりました。
「工廠の記録を見た。この三年、デュフレーヌから納められた二千四百本のうち、受入検査で落ちたのは三本だけだ。子爵家の工房を訪ねると、この点を打つ者はもういない、港町へ行ったらしいと言われた」
「さようでございましたか」
「新しい八百本は、ガルニエの工房で作っているそうだ」
「わたくしには関わりのないことでございます」
「そうか」
艦長はそれ以上お尋ねになりませんでした。そのかわり、棚に並んだ封をしていない胴を眺めて、
「これは」
「昨日が霧でしたので」
「なるほど」
それだけで、お分かりになったようでした。
ラヴァル艦長はその後も、港に艦が入るたびに工房へお見えになりました。いつも戸口で「よろしいか」とお尋ねになり、わたくしが頷くまで敷居の外でお待ちになります。わたくしが数えているあいだは、決して口をおききになりません。
一度、どうして数えているあいだは黙っていらっしゃるのかと伺いました。
「艦で砂時計を返す水兵に、話しかける者はいない。数を落とすからだ」
「わたくしは水兵ではございませんけれど」
「数えている人間は、皆同じだ」
二十二日目には、艦長が砂を汲む桶を運ぶのを手伝おうとなさいました。手を伸ばしかけて、それから止めて、
「持ってもよろしいか」
「七度目の水を流したあとでしたら」
「では、待とう」
艦長は川べりの石に座って、わたくしが七度目の水を流すのを見ておいででした。底まで澄んだ水を見て、小さく頷かれます。
「艦でも、水樽の水はこのくらい澄ませる。濁った水は、腐るのが早い」
「砂も同じでございます。泥が残ると、焼いたときに固まります」
「なるほど。あなたの仕事は、海の仕事に似ている」
褒められたのかどうか、わたくしにはよく分かりませんでした。けれど、砂遊びと言われるよりは、ずっとよろしいように思いました。
三十日目に、ジャンヌさんが市場から噂を拾っていらっしゃいました。
「ガルニエの工房じゃ、砂を目分量で詰めてるんだってさ。升も使わずに、手ですくって。一日四十本、二十日で八百本、もう倉に積み上がってるって自慢してたよ」
「二十日で八百本。触れ込みどおりでございますね」
「あんたは三十日で十九本だろう。悔しくないのかい」
「いいえ。数が揃うことと、半刻が揃うことは、別のことでございますから」
手ですくった砂は、すくう手のその日の加減で量が変わります。焼いていない砂は、湿った日に固まります。
けれど、それをガルニエ家にお伝えする理由は、わたくしには一つもございません。
ジャンヌさんは、艦長が帰られるたびに戸口から顔を出して、にやにやなさいます。
「軍艦の旦那が、砂時計を買うでもなく黙って座ってくのかい。物好きだねえ」
「砂時計を、見にいらしているのです」
「そうかい、そうかい」
そうでございます。
◇
五十八日目に、三十六本目の封をいたしました。
六十日のうち、湿った日は十一日。その日はどれも封をせずに棚へ並べ、晴れるのを待ちました。
六十日目の朝、ジャンヌさんの船団に三十六本をお納めしました。十二艘の船長がめいめい三本ずつ受け取って、桟橋で一斉に返し、半刻後、一斉に「空いた」と声を上げられます。
「揃った!」とジャンヌさんが手を叩かれました。「十二艘、ぴったり揃ったよ。喧嘩の種がなくなっちまった」
桟橋の端でそれを見ていたラヴァル艦長が、わたくしのほうへ歩いてこられました。
「ベルナール殿。一つ、申し上げてもよろしいか」
「どうぞ」
「あの三つの点のかわりに、あなたの名を刻んではどうか。台座の底に。作り手の名があれば、使う者は誰が作ったかを知れる。あなたが嫌でなければ、だが」
わたくしは、手の中の受取書に目を落としました。三十六本、ジャンヌさんの大きな字で「確かに」とございます。
「……少し、考えさせてくださいませ」
「もちろん」
艦長はそれ以上何もおっしゃらず、帽子をかぶり直されました。それから、思い出したように振り向かれます。
「明日、工廠でデュフレーヌの八百本の受入検査がある。検査場は誰でも見られる。私は〈アルバトロス〉に積む分を受け取りに行く。ご一緒されるか。断ってくださってもいい」
わたくしは少し考えてから、頷きました。
どなたでも作れる砂時計がどんなふうに時を刻むのか、一度くらいは拝見してもよろしいでしょう。
口は出しません。見るだけです。
◇
六十一日目。王立海軍工廠の検査場は、天井の高い石造りの部屋でした。
長い机の上に秒振り子が三台。その前に、灰色の髭の老人が座っておられます。受入検査主任のボードワン検査官。机の端には書記が一人、帳面を開いて控えております。
わたくしと艦長は、壁際の見物の長椅子に座りました。
机の向こうには、アルマン様とヴィオレット様、それにヴィオレット様のお父上のガルニエ氏。八百本を詰めた木箱が、二十箱も積まれておりました。
アルマン様はわたくしに気づいて、眉をひそめられました。
「砂遊びの女が、なんの用だ」
「見物でございます」
それきり、わたくしは口を閉じました。
ボードワン検査官が、帳面も見ずに読み上げられます。
「受入検査の規則を申し上げる。一本につき三回返す。秒振り子にて、千七百八十二振りから千八百十八振りのうちに落ちきれば、その回は合格。三回とも許容内であれば、その一本を合格とする。誤差は百分の一。例外はない」
「たかが砂時計に、ずいぶん大げさだな」
「規則です」
一本目が、振り子の横に置かれました。書記と、助手の水兵が三人で数えます。
「千七百四十二。不合格」
「二本目。一回目、千八百六。二回目、千八百六十一。不合格」
「同じ一本で、なぜ五十五も違う」とアルマン様。
ボードワン検査官は胴を光にかざされました。
「くびれに砂が固まっている。焼きが足りないか、湿った日に封をしたか。理由は検査の外です。三本目」
三本目は千八百九十、四本目は千七百十五。五本目は三回とも許容に入って、書記の帳面に初めて丸がつきました。
「ほら見ろ。ちゃんと合うじゃないか」
「六本目。不合格」
昼を過ぎるころには、アルマン様は数を聞くたびに舌打ちをなさるようになりました。ガルニエ氏は腕を組んで黙り込み、ヴィオレット様は扇で顔をあおぎながら、窓の外ばかり眺めておいでです。
「百二十本目。一回目、千八百三。二回目、千八百十一。三回目、千八百四十」
「三回目だけだろう!」
「三回とも、と申し上げました。不合格」
ボードワン検査官は、一度も声の調子を変えられませんでした。合格の一本にも、不合格の一本にも、同じ平らな声で。
検査は朝から夕方まで続き、翌日も、その翌日も続きました。一本に三回、半刻ずつ。三台の振り子で、八百本を数えるのですから。
わたくしは三日とも、壁際の長椅子に座っておりました。艦長も隣に。どちらも、ひと言も口をききませんでした。数えている人の横では、話しかけないものですから。
六十三日目の夕方、最後の一本が落ちきりました。
ボードワン検査官は書記から帳面を受け取り、立ち上がって、平らな声で読み上げられました。
「デュフレーヌ子爵家納入、半刻砂時計八百本。合格六十一本。不合格七百三十九本」
部屋が静まり返りました。
「契約の定めにより、納入は不履行とする。前金の倍返しとして金貨八百枚を、子爵家に請求する。あわせて、王室御用勅許の剥奪を上申する。以上」
「待て」アルマン様が机に手をつかれました。「六十一本は合っているんだ。残りもほとんど合っているだろう。たかが数十振りの違いで――」
「許容は十八振りです。規則です」
検査官は帳面を閉じ、それで終わりでした。どちらの味方もなさいません。数えたとおりを、読み上げただけです。
ガルニエ氏が、ゆっくりとアルマン様のほうを向かれました。
「デュフレーヌ殿。うちの工賃が、まだ金貨三百二十枚、払われておりませんな」
「今、それどころでは――」
「うちは言われたとおり詰めただけだ。一日四十本でいい、量は目分量でいい、と決めたのはそちらでしょう。工廠の違約金はそちらのご契約。うちの三百二十枚は、それとは別に頂戴する」
「お父様のおっしゃるとおりですわ」ヴィオレット様が、扇の陰で小首を傾げられました。「わたくし、一日四十本作れると申し上げただけで、半刻になるとは一度も申し上げておりませんもの。半刻になさるのは、アルマン様のお仕事でしょう?」
「ヴィオレット、おまえ……!」
まあ。たしかにそのとおりでございますね。詰めれば、砂時計にはなります。
わたくしは艦長と一緒に、検査場を後にしました。〈アルバトロス〉に積まれるはずだった十二本は、一本も来ないことになりましたので。
◇
六十四日目の昼。
わたくしは工房の梁の振り子の横で、ジャンヌさんの船団の替えの一本を数えておりました。
艦長は戸口でいつものように「よろしいか」とお尋ねになり、壁際の木箱に座っておられます。
六百十二のところで、戸が乱暴に開きました。
「クラリス!」
アルマン様でした。外套の裾に泥をつけて、肩で息をなさっています。馬車ではなく、乗合でいらしたのでしょう。
六百十三。六百十四。
「作り直せ。十日で七百三十九本だ。十日で揃えれば、父上が工廠に頭を下げて取りなしてくださる。勅許も戻るかもしれん」
六百二十。
「元は婚約者だろう。おまえが三年いた家だぞ。見捨てるのか」
見捨てたのは、どちらでしたかしら。
わたくしは振り子から目を離さず、数えるのもやめずに申し上げました。
「アルマン様。わたくしの手では、一本に半日かかると申し上げました。十日では二十本でございます。七百三十九本でしたら、休まず作って三百七十日ほど。それも、湿った日を数えずにでございます」
「だから、詰め方だけでいい。おまえが量って、職人に詰めさせれば――」
「詰めれば、砂時計にはなります」
六百五十。
上の玉の砂が、細く、絶えず落ちております。
「けれど砂は、数えなければ時になりません。わたくしの数える時間は、もうあなたのためにはございません」
アルマン様の口が、何か言いかけて止まりました。
六百五十八。
それから、顔を赤くして一歩踏み出されます。
「砂遊びの女が、偉そうに――誰でもできることだろうが!」
「でしたら、どなたかにお頼みくださいませ」
わたくしが言い終えるまで、艦長は木箱から動かれませんでした。
言い終えたのを確かめてから、ようやく立ち上がられます。
「ベルナール殿。この方を、外へお送りしてもよろしいか」
「お願いいたします」
艦長はアルマン様の前に立ち、戸口を手で示されました。
「お帰りを。扉はこちらだ」
「海軍が口を出すことか」
「口は出していない。この工房の主が、送れと言った」
アルマン様はわたくしを睨み、艦長を睨み、それから、背の高い紺の外套の前で、すごすごと敷居をまたがれました。
「誰でも作れるはずだったんだ。たかが砂時計だぞ」
戸の外で、そんな声が聞こえました。
最後まで、そうお思いなのでしょう。それで結構でございます。
艦長が戸を閉め、また木箱に戻られました。
千七百九十九。千八百。
上の玉が空になりました。数は、一つも落としておりませんでした。
◇
六十六日目。検査から五日後の官報に、短い記事が載りました。
ジャンヌさんが市場から買ってきて、工房の机に広げてくださいます。
――王立海軍工廠受入検査。デュフレーヌ子爵家納入、半刻砂時計八百本。合格六十一本、不合格七百三十九本。合格率およそ七・六%。契約不履行により違約金金貨八百枚。王室御用勅許、剥奪。
「七・六%ってのは、百本に八本も当たらないってことかい」
「そういうことでございます」
それから先のことは、港町にも噂で届きました。
違約金の金貨八百枚は、子爵家の年収の一・三年分にあたります。子爵様は体面を何よりも大切になさる方でしたが、それを払うために、お屋敷の東翼と馬車二台をお売りになりました。工房の門に掛かっていた王室御用の看板も、下ろされたそうです。
東翼は商人の手に渡り、子爵家の方々は西の棟だけでお暮らしになるそうです。馬車が一台きりになったので、子爵様は夜会へのお出かけを半分になさったとか。王室御用の看板がない家に、招待状がどれほど届くのかは存じませんけれど。
ガルニエ家への工賃の未払い金貨三百二十枚は、また別に請求されております。違約金の八百枚と合わせれば、千百二十枚。前金の四百枚は、とうに職人の工賃と硝子の代金に消えておりました。アルマン様とヴィオレット様のご婚約のお話は、検査の翌週には立ち消えになりました。
どなたかが子爵家を助けた、というお話は、とうとう一つも聞きませんでした。
アルマン様は今も、あれは誰でも作れるはずだったと、方々でおっしゃっているそうです。
さようでございますか。
わたくしの知ったことではございません。
同じ日の夕方、工廠から一通の書状が届きました。ボードワン検査官の署名がございます。
――クラリス・ベルナール殿。王立海軍は、半刻砂時計の直接の納入を打診する。年四百本。刻印は作り手本人の名とする。
書状を持ってきてくださったのは、ラヴァル艦長でした。
「工廠には、この三年の記録がある。二千四百本で、落ちたのは三本。ボードワン殿は、数を見て決めただけだ。私は何も口添えしていない」
「存じております。あの方は、どちらの味方もなさいませんもの」
「受けるかどうかは、あなたが決めてくれ」
艦長は書状を机に置き、手を離されました。
「受けても、断っても、私は待つ。刻印のことも、ほかのことも」
ほかのこと、とおっしゃいました。
わたくしは書状と、台座の底の三つの点を見比べました。三年間、どなたにも気づかれなかった印。気づいてくださったのは、この方だけでした。
「お受けいたします。刻印は、C.ベルナールと」
祖父の名でも、子爵家の名でもなく。
わたくしの名で、時を刻みます。
「わかった。工廠にそう伝えよう」
艦長は頷き、それから、少しだけ言い淀まれました。
「ベルナール殿。手を、差し出してもよろしいか」
この方は、戸口でも、刻印のことでも、いつも先に尋ねて、答えを待ってくださいました。
初めてお会いした日から今日まで、一度も、待たずに決めたことはございませんでした。
「まずは、半刻ずつ」
わたくしは自分から手を伸ばして、差し出されかけたその手を取りました。
「半刻ずつ、でございます。急ぎませんので」
「……ああ。急がない」
艦長の手は、思っていたよりも温かく、少しだけ固くなっておりました。
机の上には、今日封をしたばかりの一本がございます。わたくしは空いているほうの手で、それを返しました。
梁の振り子が揺れ、砂が細く落ち始めます。
「一」と、わたくしが申しました。
「二」と、艦長が続けられました。
三。四。五。
二人で数える声が、潮の匂いのする工房に、一つずつ落ちてまいります。
千八百まで、まだずいぶんございます。
けれど、数えれば、必ず時になりますもの。
最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。クラリスが数えた砂の一粒ぶんでも心に残るものがありましたら、下の★で評価していただけますと、次の一本を書く大きな励みになります。作者ページには完結済みの長編『「無能な君との婚約は破棄する」と笑われたので、「かしこまりました」と領地の全収入を持って出て行きました』もございますので、よろしければそちらもどうぞ。
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