(スタンダールではない)赤と黒
ブラジルにおける一匹の蝶の羽ばたきは、テキサスに竜巻を引き起こすか。
気象学者エドワード・N・ローレンツが投げかけたこの問いには、ジョークとして鼻で笑うことのできない切実さが含まれている。因果律の問題は様々にその姿を遷しながら、常に重要な関心の対象として我々の前に現れ続ける。
私はときどき思う。この世界は、そして我々の運命は、繊細で緻密な、あるいは脆弱で冗長な、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンの集合体なのではないか、と。
時として蝶の羽ばたきが長大な因果連鎖の始動因となり、複雑な幾何学模様を描きながら大陸を越え、彼方の地に竜巻を引き起こす。蝶はきらめく鱗粉を残して飛び去り、我々は束の間の夢を見る。
私は願う。この装置の機構ないし動作が――少なくとも時折は――なんらかの美しさを伴ったものであることを。
たとえこの巨大な装置が、目隠しをした神によって作られた、ナンセンスなガラクタだったとしても。
◆
混沌のマカオ、午前零時。欲望と喧噪が渦巻くカジノで、一台のルーレット・テーブルの周りには静かなざわめきが漂っていた。
現れたのは一人の男だった。男は決然とした足取りで近づいてくると、他の客を押しのけてテーブルに割って入り、褪せた革のボストンバッグを卓に載せた。バッグの重みでテーブルが揺れ、いぶかしげな視線が男に集まった。
齢は三十二、三。身なりは悪くなかったが、全体が汗と汚れでくたびれていた。彫りの深い整った顔には無精髭が散らばり、髪は乱れ、頬はこけ、窪んだ眼窩の奥の目は憔悴と焦燥で血走っていた。
男は肩で呼吸をしながら、ボストンバッグの中身を乱雑にテーブルに積んでいった。客たちは息を呑んだ。それは太い帯封でまとめられた、色鮮やかな香港ドルの札束だった。
空になったボストンバッグを床に投げ捨てると、男はジャケットの内ポケットに手をやり、最後の一束を取り出してテーブルに放った。男のジャケットに残っていた硝煙の匂いが、幽かに烟った。
ディーラーは表情のない目で男を見ていた。男はふうっと息を吐き、ディーラーに顔を向け、乾いた唇から低く掠れた声で言葉を押し出した。
「どうした? ゲームを始めろよ」
ディーラーはマネージャーに視線を送った。マネージャーは無言で頷きを返した。ディーラーはテーブルに向き直り、抑揚のない声でゲームの開始を告げた。
「ベットをどうぞ(プレイス・ユア・ベッツ)」
抑えた歓声が上がった。ディーラーは僅かな目の動きでテーブルを見渡した。誰も賭けようとはしなかった。誰もが好奇と期待の目で、男の挙動を注視していた。男は動かなかった。険しい表情で宙の一点を見つめていた。ディーラーはもう一度テーブルを見渡し、しばらく待ってからルーレットを回し、ボールを投げ入れた。
直径二十二ミリの象牙の球が、音をあげてトラックを駆ける。一周、二周、三周――。男はまだ賭けようとしない。ゆっくりと顔を動かし、緑色の羅紗に描かれた数字を、睨むように眺め回している。表情は険しいままだ。右手の人差指はテーブルの縁をとんとんと叩いている。
四周、五周、六周。男は小さく舌打ちをする。ディーラーは目の隅で男を見る。男は歯の隙間から息を吸い、眉間に皺を寄せながら目を閉じる。中年の観光客が何か声をかけようとして、妻にこづかれて言葉を止める。
七周、八周、九周。男はまだ賭けない。左足の踵が小刻みに上下している。男は回転する車輪の音に耳を澄ませ、瞼の裏に緑色の羅紗を見ている。三十六の数字、区切られたブロック、奇数と偶数、大と小、赤と黒。男の表情がさらに険しくなる。誰かがごくりと唾を飲む。
十周、十一周、十二周。ボールの回転が鈍くなる。男の瞼の裏で、可能性がひとつずつ消えていく。数字が消える。文字が消える。枠組みが消える。最後に残ったのは、二つの色彩だった。赤か、黒か。
ディーラーが口を開こうとしたとき、男の身体からふっと力が抜け、表情から険しさが消えた。男は鼻から息を吸い込み、静かに目を開け、ゆっくりと顔を上げ、目の前の札束を両手で前方に押しやった。
「全額を(オール)」男は穏やかな、透明な声で告げた。「赤だ(オン・レッド)」
客たちから嘆息が漏れた。男の表情は落ち着いていた。乾いた唇には微笑みさえ浮かんでいた。目は血走っていたが、瞳は澄んでいた。それは、未来に己の運命を投機した人間の瞳だった。
ディーラーは軽く頷き、左手をテーブルにかざした。
「そこまでです(ノー・モア・ベッツ)」
賭け時間は終わった。客たちの関心はボールの行方に集まった。赤か、黒か。ある者は囁きを交わし、ある者は身を乗り出し、ある者は祈るように両手を組み合わせた。男は穏やかな、どこか寂しそうな顔つきで、テーブルの上をぼんやりと眺めていた。グラスの氷が溶けて、からりと鳴った。
球はやがて遠心力を失い、重力に引かれて斜面を下り始めた。中心に向けて僅かに螺旋を描いた球は、斜面の突起にぶつかって、大きく跳ね上がった。後ろにいた若い女の客が、男の袖をぎゅっと掴む。
跳ね上がった球は澄んだ音を立てて弾み、もう一度弾み、赤と黒に塗り分けられた窪みを飛び越えて中央の傾斜部に乗り上げ、慣性の法則に従って弧を描きながら、ひとつの枠を目指して落ちていく。赤か、黒か。客たちの視線が白い球に集中して、プリズムのように交錯する。赤か、黒か、赤か、黒か――赤だ、赤に落ちるぞ!
そのときだった。シルクロードを遥か西へ向かったイタリアの地、ナポリにおいて、パスタ職人が大きなくしゃみをした! 飛び散るデュラム・セモリナ!
このくしゃみが蝶の羽ばたきとなって、世界中の因果連鎖に甚大な影響を及ぼした。それはまるで、熟練したフィリピンのビリヤード・プレイヤーが角度をつけて放ったブレイク・ショットのように、ラックシートのトップに置かれた1番ボールに激しい衝撃を加え、無数の運命をあらぬ方向へ勢いよく弾き飛ばした。運命は音を立ててぶつかり合い、不規則に回転しながら散らばって宇宙を走り、世界は秩序を失って混乱に陥った。
チベット高原では遊牧民の少女ユンチェンの初恋が破れ、ヴァラナシでは羊飼いの少年アトゥルが母なるガンガーに神の姿を見た。プラハではオルフィスムの青年画家フランツがパリ行きの航空券を市電に置き忘れ、コペンハーゲンでは三部リーグのヨハンセンが力強いペナルティ・キックをポストに当てた。マラケシュでは織物商の娘サミラが甘やかな性に目覚め、ムウェンゲではマコンデ族の彫刻師ングンディが霊感に導かれて最後の一刀を彫り抜いた。
ブエノスアイレスではタンゴ・ダンサーのラウラが飼い猫のプルートーに指を噛まれ、ニューヨークではセントラル・ハーレムのサニーが韻を踏み損ない、シドニーでは赤毛のキャサリンがタクシーからつまみ出され、東京では闇を駆けるニンジャが咥えていた機密文書を口からぽろりと落とした。――ニンジャが? そう、ニンジャだ。東京にはまだニンジャがいるのだ。神秘の国、日本!
そして、ナポリの厨房で飛び散ったデュラム・セモリナは、マカオのカジノにおいても運命の変転を引き起こしていた。
澄んだ音を立てて弾み、もう一度弾み、赤と黒に塗り分けられた窪みを飛び越えて中央の傾斜部に乗り上げ、慣性の法則に従って弧を描きながら、赤の7を目指して落ちてきた球は、窪みの縁に当たって跳ね、斜面を上がり、再びゆっくりと降りてきた。こん、こん、こん、からん。象牙の球は乾いた音を立てて、ひとつの枠に収まった。
――ゼロ。
ゼロ。それが、混乱した世界が出した答えだった。赤でもなく黒でもなく、ゼロ。緑のゼロだ。
ディーラーは抑揚のない声で結果を告げ、客たちは大きな溜息をついた。ある者は額に手を当てて天を仰ぎ、ある者は肩をすくめて首を振り、ある者は眉をひそめて頷き合った。男の表情は相変わらず落ち着いていたが、その瞳は澄みきったままで虚無を見つめていた。微笑みが張りついた男の唇の端が不随意に痙攣するのを、ディーラーは見逃さなかった。
ブレイク・ショットは終わった。蝶は新たな蜜を求めて飛び去った。混乱の一瞬は過ぎ去り、世界は新しい秩序のもとで動き始めようとしていた。キャサリンは運転手に悪態をついた。ニンジャはハラキリをした。パスタ職人は鼻をすすった。手玉はコーナーポケットに落ちた。
ディーラーは表情を変えずにマーカーをゼロに置き、何事もなかったように手早く札束を回収し、抑揚のない声で次のゲームの開始を告げた。
「ベットをどうぞ(プレイス・ユア・ベッツ)」
混沌のマカオ、午前零時五分。ルーレット・テーブルの周りには欲望と喧騒が戻ってきた。面白かったね、映画みたいだったね、と立ち去る客がおり、赤は三回続いていたからね、と結果を論評する客がおり、これで悪運も落ちただろうよ、と自らの勝負を再開する客がおり、俺たちもやってみるかね、とグラスを手に参加してくる客がいた。ディーラーは滑らかな手つきで、テーブルの動きを捌いていった。
あんた、ケツから魂が抜けちまってるぜ、と、ぽんと肩を叩かれ、止まっていた男の時間がようやく動き出した。男はびくっと振り返って曖昧な笑みを浮かべ、もごもごと不明瞭な言葉を返した。それからゆっくりとテーブルに顔を戻し、焦点の合わない視線を卓に彷徨わせ、救いを求めるようにディーラーを見上げた。ディーラーは静かに首を振り、作業を続けた。
男はぽかんと口を開け、虚ろな目で両手を見つめた。何の意味もない所作だった。男はもう一度ディーラーを見上げ、何かを呟いたが、その言葉は誰にも聞き取れなかった。やがて男はぎくしゃくと身体を動かし、空のボストンバッグを床に残して、がくがくとした足取りで出口に向かっていった。
ディーラーは表情のない目で男の後ろ姿を見ていた。それは何千回と網膜を通り過ぎてきた、敗北者の後ろ姿だった。




