私の家族を紹介します。
轟音。
空気が裂ける。
地面が爆ぜる。
爆風が二人の髪を吹き上げる。
次の瞬間、白い群れが宙を舞った。
数十体がまとめて吹き飛ぶ。
叩きつけられる。
瓦礫が崩れる。
粉塵が舞い上がる。
ベルが目を開く。
目の前の地面に――
巨大な槍。
鋼鉄の塊。
人の背丈をはるかに超える長さ。
分厚い刃が、瓦礫の山ごと白を貫いている。
地面に深く突き刺さり、震えている。
「……なに、これ」
遅れて、声が届く。
遠くから。
怒号。
雄叫び。
一つではない。
十。
百。
「押せえええええ!」
「隊列を崩すな!」
重い足音。
金属のぶつかる音。
白い軍勢の端で、土煙が上がる。
そこから白が次々に吹き飛ぶ。
何かが突入している。
一箇所。
いや、二箇所。
三箇所。
土煙が増える。
白い整然とした列が、乱れ始める。
「なにが……」
ミリイが震える声で呟く。
ベルも理解できない。
ただ、目の前で起きている。
整然としていた進軍が、崩れ始める。
白が弾かれる。
叩き割られる。
切り裂かれる。
土煙の中から現れたのは――
人影。
鎧を着た影。
槍を構えた影。
盾を掲げた影。
白とぶつかり、真正面から押し返している。
さっきまで一方的だった流れが、止まる。
白の幹部個体が顔を上げる。
「……新規勢力、確認」
冷たい声。
だがその直後、横合いから衝撃。
鋼鉄の槍を握った巨躯の男が、白をまとめて薙ぎ払う。
地面が揺れる。
さらに別の方向からも突撃。
白の隊列が左右から削られる。
「押し返せ!」
「今だ、畳みかけろ!」
怒号が重なる。
土煙が視界を覆う。
白の軍勢は数で上回る。
だが突入してきた人影たちは、退かない。
倒れながらも前に出る。
崩れた一点が、二点になる。
二点が、四点に増える。
交戦が広がる。
進軍は、完全に止まった。
包囲していた白の一部が応戦に回る。
ベルとミリイの目の前で、流れが変わる。
一方的な捕獲行動が、戦闘に。
戦争に。
「ベル様……」
ミリイが呆然と立ち尽くす。
ベルも、ただ息を呑む。
さっきまで迫っていた白の群れが、今は別方向を向いている。
目の前で、鋼と白がぶつかり合う。
午後の光の下。
土煙の向こうで。
何かが、こちらへ向かってくる。
巨大な影が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
土煙の向こう。
交戦の只中から、二つの影が飛び出した。
蹄の音が地面を打つ。
一直線にこちらへ向かってくる。
白を蹴散らしながら。
馬上の騎士が一体を両断する。
もう一騎は盾で白を弾き飛ばす。
進路をこじ開けるように、駆ける。
ベルは反射的に身構える。
「……味方?」
分からない。
だがその二騎は、一直線にこちらへ。
そして――
ベルとミリイの数歩手前で、同時に馬を止めた。
砂塵が舞い上がる。
馬から飛び降りる。
重い金属音。
一人は黄金。
全身を覆う金色の甲冑。
白地に青い装飾の入ったマントが翻る。
背には大剣。
左手にもすでに抜き身の剣。
もう一人は白銀。
無駄のない全身甲冑。
大盾を構え、右手に剣。
二人は無言で、白い群れの前に立つ。
壁のように。
「……あっ――」
ミリイの喉から、小さな声が漏れる。
震えていた足が、今度は別の意味で震える。
黄金の騎士が、ゆっくりとこちらを向く。
手を上げる。
兜の留め具に触れる。
白銀の騎士も、同時に。
金属の擦れる音。
面頬が上がる。
陽光がその素顔を照らす。
「ミリイ」
低く、しかし確かな声。
「会いたかった」
それは。
ミリイの父だった。
かつて剣聖と呼ばれた男。
鋭い眼差し。
白髪混じりの髪。
だがその瞳は、確かに優しい。
「……お父さま」
ミリイの声が、震える。
白銀の騎士も兜を開ける。
整えられた銀髪。
深い皺の刻まれた、静かな顔。
「お嬢様、ご無事で何より」
執事。
かつて騎士団長と謳われた男。
ベルは一瞬、言葉を失う。
さっきまでの絶望が、嘘のように揺らぐ。
だが白は止まらない。
幹部個体がこちらを見る。
「優先対象、接触確認」
黄金の騎士――父が、剣を構える。
その一振りで、空気が張り詰める。
「下がっていろ、ミリイ」
静かな命令。
だが次の瞬間。
白が一斉に跳ぶ。
父は踏み込む。
ただ一閃。
前列がまとめて断ち切られる。
衝撃波が走る。
白銀の執事が盾を掲げ、横合いから来た個体を弾き飛ばす。
「左から来ます」
「分かっている」
黄金が閃く。
白が崩れる。
ベルは呆然と立ち尽くす。
さっきまで追い詰められていた空間が、一瞬で押し返される。
遠くでは、なお土煙が上がり続けている。
交戦は拡大している。
だがこの一点だけは。
明確に、流れが変わった。
ミリイの父が、娘の前に立つ。
その背は、揺るがない。
次の瞬間。
激突。
白と鋼が真正面からぶつかる。
だが、それは拮抗ではなかった。
――殲滅。
黄金が、動く。
グラムの大剣が振るわれるたび、空間ごと裂ける。
一振りで十。
二振りでさらに十。
斬った、というより。
蹴散らした。
白の外殻が砕け、胴が断たれ、まとめて吹き飛ぶ。
土煙が爆ぜる。
その横に白銀。
トレントが一歩も退かず、盾で受け、剣で穿つ。
正確。
無駄がない。
迫る個体を弾き、崩れたところへ刃を差し込む。
流れるように、前へ。
黄金と白銀が並ぶ。
二本の刃が、戦場を切り開く。
白は数で押す。
波のように押し寄せる。
だが波は砕ける。
大剣の一閃で。
盾の一打で。
後方。
老兵たちが陣形を崩さない。
槍衾。
盾列。
一歩ずつ。
確実に。
前へ。
「右、三!」
「確認!」
短い声が飛ぶ。
連携。
白が横から飛び込む。
だが盾が弾く。
槍が貫く。
倒れた仲間の上を、次の者が踏み越える。
老いた膝。
だが揺るがない。
息は荒い。
汗が流れる。
それでも、退かない。
磨き抜かれた鎧が陽光を反射する。
傷だらけの剣が、なお鋭い。
白の軍勢は、まだ大半が残っている。
数では圧倒的。
それでも。
流れは、完全に変わった。
中央が割れている。
指揮の波が乱れている。
白の動きが鈍る。
幹部個体が指示を飛ばす。
だが。
黄金がそこへ突っ込む。
一直線。
進路上の白を、文字通り蹴散らす。
斬る。
払う。
吹き飛ばす。
「退くなァ!」
グラムの声が轟く。
その背に、三百が続く。
前進。
止まらない。
白の列が崩れ、崩壊の兆しが見える。
ベルは、ミリイの前に立ったまま、その光景を見ている。
さっきまで絶望だった空間。
今は。
圧倒。
まだ敵は多い。
まだ戦いは続く。
だが。
勝利は、もう決している。
そう思わせるほどに。
黄金の背は、揺るがなかった。
煙が晴れない。
聖鎖封環の余熱が、空間を歪ませている。
バロムが一歩前へ出る。
地面が割れる。
リックが目を閉じ、魔力感知を広げる。
「……地下反応。広場直下、三層。高密度、再構築型」
瓦礫が持ち上がる。
砕けた白い残骸が震える。
溶けるように、溶接されるように。
再結合。
アンジュの瞳が紅く細まる。
「往生際が悪いですわね」
地面が割れ、出現する。
改良型の“核体”。
三体。
だが先程のものとは違う。
鎖の残滓を内部に取り込み、強化している。
バロムが前に出る。
「俺が受ける」
巨大な腕が振り下ろされる。
衝撃。
広場の端が崩落。
バロムが真正面で受け止める。
足が沈む。
それでも、退かない。
リックが跳ぶ。
片目を閉じる。
「核出力、胸部中央。位相不安定。今なら――」
アンジュが再び銃を構える。
だが。
弾倉は空。
聖鎖封環は過熱。
最大出力は、今は撃てない。
彼女は笑う。
「なら、出力を落とせばよろしいだけですわ」
銃身を反転。
残留魔力を強制収束。
鎖が再び空間に展開する。
だが規模は小さい。
精密制圧。
改良型が跳ぶ。
バロムが真正面から殴り飛ばす。
一体の動きが止まる。
その瞬間。
アンジュが撃つ。
光弾が一点を穿つ。
核が露出。
リックが叫ぶ。
「今です!」
二射、三射。
核が砕ける。
一体崩壊。
残り二体が同時に突進。
広場中央で激突。
衝撃波が夜空を揺らす。
アンジュが歯を食いしばる。
「バロム!」
バロムが両腕で一体を拘束。
もう一体が背後から貫こうとする。
その瞬間。
リックが空中から落ちる。
短剣が核へ。
深く、突き刺さる。
爆裂。
リックが吹き飛ぶ。
アンジュが最後の一射。
至近距離。
核、完全破壊。
静寂。
広場に立つのは三人だけ。
白は、もう動かない。
リックが咳き込む。
「……地下反応、消失」
バロムがゆっくりと立ち上がる。
広場は半壊どころではない。
陥没し、中央は巨大な穴になっている。
アンジュは夜空を見る。
遠方の爆光も、徐々に減っている。
「中央は……終わりですわね」
だが彼女の足元が揺れる。
地盤沈下。
地下構造そのものが崩壊し始めている。
リックが呟く。
「街ごと、沈みます」
アンジュは一瞬だけ目を閉じる。
「教会隊、撤退命令。生存者優先」
彼女は背を向ける。
広場は完全崩落寸前。
戦闘は終わった。
だが街は、助からない。
戦争は、勝っても傷を残す。
中央戦線――終焉目前。
⸻
――第二都市・港湾倉庫街
海が赤く染まっている。
火災。
倒壊。
白い残骸が波に浮く。
副官が報告する。
「最終群、海上より接近!」
マリーナが振り向く。
沖合。
巨大な影。
白の最終母体。
今までの個体を生み出していた“発生源”。
警察隊が銃を構える。
だが弾が足りない。
魔力も限界。
マリーナは深く息を吸う。
「残弾、全隊集中。あれを落とす」
白い巨体が口を開く。
内部に光。
自爆型放出準備。
副官が叫ぶ。
「間に合いません!」
マリーナは迷わない。
前へ出る。
港の端。
一人で立つ。
両手を構える。
魔力を全解放。
彼女の足元に巨大な魔術陣。
警察隊がざわめく。
「隊長、それは――」
「黙って撃て」
沖合から光線が放たれる。
マリーナが正面で受ける。
海が蒸発。
蒸気爆発。
彼女の防壁が砕ける。
血が流れる。
それでも。
魔術陣が回転。
収束。
一点突破。
彼女が吼える。
「落ちろ!!」
極大魔力砲撃。
一直線。
白の母体を貫通。
内部で爆ぜる。
静止。
そして。
崩壊。
巨体が海へ沈む。
大爆発。
衝撃波が港を飲み込む。
倉庫街の残骸が吹き飛ぶ。
だが、白の増殖は止まる。
副官が震え声で報告する。
「……敵反応、全域で消失」
マリーナは膝をつく。
血が滴る。
遠く中央広場方向を見る。
爆光はもうない。
「終わりだ」
港は壊滅。
街も半壊。
だが。
白はいない。
第二戦線――終焉直前。
⸻
夜空は静かになりつつある。
まだ一箇所、激しい魔力が残っている。
だが。
他二都市は、ほぼ決着。
戦争は、終わりへ向かっている。
午後の陽射しが、砕けた石畳を白く照らしている。
崩れゆく白の群体。
沈黙していく反応。
行政塔の中腹。
人型の影が、わずかに揺らぐ。
「……中央、沈黙」
「港湾……消失」
応答なし。
「三戦線同時制圧が……崩れる、だと……?」
視線がゆっくりと地上へ落ちる。
瓦礫の向こう。
戦場を見つめる少女。
ミリイ。
何もしていない。
ただ、息を詰めて立っている。
祈るように、戦いを見守っているだけ。
幹部の思考が収束する。
「象徴個体……」
彼女の存在が兵の士気を繋いでいると、演算が導き出す。
「排除」
塔上部の装甲が開く。
内部機構がせり出す。
白い収束砲。
空気が震える。
光が集まる。
塔の影が長く伸び、ミリイの足元に届く。
周囲の兵が気づく。
「上だ――」
ミリイが顔を上げる。
眩い光。
音の消えた圧力。
塔上の影が、冷たく告げる。
「終わりだ」
白閃が放たれる。
一直線に。
ミリイへ。
白閃が落ちる。
一直線に、ミリイへ。
「いけない!」
ベルが叫ぶ。
足はもう動いている。
だが、理解している。
間に合わない。
あの出力は、防げない。
自分では、止められない。
姫神の気配は沈黙。
指輪は冷たい。
アカリも応じない。
「……無理」
喉が震える。
「私だけじゃ、無理……!」
光が迫る。
時間が引き延ばされる。
考えろ。
頭を使え。
視線が走る。
砕けた石畳。
崩れた外壁。
横倒しの柱。
煙。
粉塵。
――背後。
倒壊した建物。
崩れた瓦礫の奥。
黒く沈む空間。
光の届かない、隙間。
暗闇。
心臓が強く打つ。
「……ここなら」
賭けだ。
これで駄目なら、どうしようもない。
ベルが地を蹴る。
ミリイの身体を引き寄せる。
抱きしめる。
「え……?」
答えない。
そのまま背後へ跳ぶ。
瓦礫を踏み越え、崩れた壁をすり抜ける。
光の境界線を越える。
二人の身体が、暗がりへ滑り込む。
直後。
白閃が地面を穿つ。
爆音。
衝撃波。
石と空気が砕ける。
瓦礫が崩れ、入口を塞ぐ。
光が遮断される。
粉塵が落ちる。
闇。
外の轟音が遠ざかる。
ベルはミリイを抱きしめたまま、息を詰める。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、完全な暗闇だけがそこにある。
闇。
息が白くなるほど、冷たい。
ミリイの鼓動が、胸に伝わる。
その温もりを抱きしめたまま――
ベルの身体が、軋む。
光を失った瞬間。
境界が、反転する。
骨の奥が震える。
血が逆流するような感覚。
鼓動が、低く、重くなる。
腕の筋が、わずかに張る。
輪郭が変わる。
闇の中で、髪がほどける。
淡く浮かぶ、銀。
瞳が開く。
闇を射抜く、静かな光。
銀髪の少年。
――“魔王殺し”。
ミリイを抱く腕は、そのまま。
だが、その存在の重さだけが、別物になる。
「目標反応消失。再照射準備――」
外から響く機械的な声。
少年は、吐き捨てる。
「……遅ぇよ」
指輪が灼ける。
内側から、眩い核が膨れ上がる。
沈黙していた光が目を覚ます。
「アカリ」
闇が震える。
「アカリィッッッ!」
指輪が裂けるほどの熱。
光が生まれる。
「ありったけで――」
空間がひび割れる。
「ぶっとばせぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
爆ぜる。
暗闇の中心から、光の奔流。
細い一条が、瞬時に洪水へ。
瓦礫が内側から粉砕。
崩れた壁が蒸発。
闇が、吹き飛ぶ。
光は一直線に走る。
塔へ。
白い砲身が溶解。
装甲が蒸発。
制御核が露出。
「出力、観測不能――」
その声ごと、光が貫く。
塔を裂き、核を砕き、背後の空を割る。
雲が裂ける。
空が白に染まる。
白の軍勢が連鎖的に崩壊。
爆散。
沈黙。
奔流はさらに伸び、敵陣を焼き払い。
やがて。
光が、細くなる。
収束。
――その瞬間。
砕け散った瓦礫の向こうから、陽光が差し込む。
裂けた雲の隙間から、午後の太陽。
光が、少年の横顔に触れる。
境界が、揺らぐ。
銀の髪が、きらめき――
色が変わる。
輪郭が、ほどける。
筋肉の張りが、消える。
重心が軽くなる。
呼吸が浅くなる。
抱いていたミリイを支える腕が、細くなる。
瞳の色が、柔らかく揺れる。
そこに立っていたのは。
少女。
光を浴びたベル。
ふらり、と膝が折れかける。
「……あ、れ……?」
声が、違う。
高く、か細い。
だが、ミリイを抱く腕だけは離さない。
世界は、変わっていた。
塔はない。
白の軍勢もない。
焼け焦げた大地と、裂けた空。
午後の太陽が、何事もなかったかのように降り注いでいる。
遠くで、最後の爆発が小さく弾ける。
やがて。
完全な静寂。
風が吹く。
焦げた匂いが流れる。
少女は、ゆっくりと息を吐く。
指輪の熱は、もうない。
代わりに、全身を襲う倦怠。
視界が揺れる。
それでも。
ミリイの額に触れる。
「……終わった、よ」
小さく。
かすれた声で。
遠くで、歓声が上がる。
武器が下ろされる。
剣が収められる。
誰もが理解する。
戦争は、終わった。
それを終わらせたのは――
光を浴びて立つ、一人の少女。
午後の太陽の下で。
瓦礫の上に静寂が落ちる。
戦場を焼き尽くしていた光は消え、焦げた石と崩れた建物だけが残っている。
その中心。
少女が膝をつき、ミリイを抱きしめている。
銀の残光はもうない。
ただ、呼吸の乱れた一人の少女。
「……終わった、よ」
かすれた声。
その瞬間。
「ミリイ様!!」
鋭い声が、瓦礫を裂いて響く。
土煙を払いながら駆け込んでくる影。
白髪を後ろできっちり束ねた老紳士――トレント。
その数歩後ろ。
長身の女性が、静かに地面を踏みしめて現れる。
黒のメイド服。
だが――
両手には重厚な鉄甲付きグローブ。
両足にも同じく、鉄装甲のブーツ。
布地の優雅さと、金属の殺気が同居している。
パティ。
元殺し屋。
その歩幅は大きく、無駄がない。
彼女は一瞬で状況を把握する。
ミリイの体に外傷なし。
呼吸安定。
意識は失われているが、命に別状はない。
その確認が終わるまで、表情は一切変わらない。
「……ミリイ様」
低く、丁寧な声。
彼女は膝をつき、ミリイの頬に手を伸ばす。
だが鉄甲を外し、素手で触れる。
指先が額に触れる。
「体温正常。脈拍も安定しております」
静かな報告。
しかしその声の奥に、わずかな震えが混じる。
――攫われた。
――敵に連れ去られた。
その事実は、彼女の中でまだ鮮明だ。
トレントがゆっくりとミリイを抱き上げる。
「私が運びます」
「お願いします」
パティは即答する。
その視線が、ベルへ向く。
パティはベルを見つめる。
長身の身体が、静かに前へ傾く。
両手の鉄甲が、わずかに石畳を擦る。
ミリイが無事であることを確認し終えたその瞬間――
彼女は動いた。
迷いはない。
躊躇もない。
一歩下がるでもなく、言葉を重ねるでもなく。
そのまま――
膝をつく。
そして、ゆっくりと上体を倒した。
鉄甲を装着した両手を地面に置き、額をその上へ。
重い金属が石畳に触れ、低く硬質な音を立てる。
「……」
空気が止まる。
やがて――
額が、地面に触れた。
深い。
額が完全に地面へ押し付けられるほどの姿勢。
土下座。
形式だけではない。
感情を抑え込んだまま、ただ一つの謝意を示す姿。
彼女の背中が、静かに震える。
「ミリイ様を……守り切れなかったこと」
低く、絞り出す声。
「私の不徳の致すところです」
その声は冷静だ。
だが、悔恨が確実に滲んでいる。
「……あなたがいなければ、取り返しのつかない結果になっておりました」
額を地面につけたまま、続ける。
「救っていただいたこと――」
一拍。
「心より、感謝いたします」
石畳に触れた鉄甲が、小さく軋む。
それは誇り高い者の、最大級の礼。
しばらくその姿勢のまま。
誰も動かない。
やがてトレントが静かに口を開く。
「……立ちなさい」
パティはゆっくりと上体を起こす。
額には石の跡。
それでも表情は崩れていない。
ベルはその光景を、呆然と見ていた。
「……そこまで、しなくていいのに」
パティはまっすぐに視線を返す。
「いいえ」
即答。
「これは私の責任の清算です」
その声は、静かで強い。
そして――
彼女は再びミリイの側へ歩み寄る。
守る者として、立ち直るように。
パティがゆっくりと立ち上がる。
ミリイを抱えたトレントの横に並び、歩き出す。
長身の身体。
鉄甲付きのグローブとブーツが、瓦礫を踏みしめるたびに低く重い音を立てる。
その前方。
一人の男が立っていた。
崩れた建物の影ではない。
瓦礫の上。
背筋を真っ直ぐ伸ばし、静かに待っている。
黄金色の装飾が施された重鎧。
背には巨大な大剣。
――剣聖グラム。
ミリイの父。
パティは一瞬だけ足を止める。
だが視線は逸らさない。
グラムはゆっくりと歩み寄る。
鎧の足音は落ち着いているが、その内側にある感情は押し殺されている。
ミリイを抱えたトレントの前で立ち止まる。
視線は、娘へ。
そして。
そっと手を伸ばす。
鎧に覆われた手ではなく――
指先だけを、優しくミリイの頬へ触れさせた。
「……探していた」
低い声。
静かだが、奥底に震えがある。
「そう言うことさえ、今は弁解にならん」
指先が、ほんのわずかに震える。
「これだけ遅れてしまったことに……言い訳はない」
一拍。
呼吸。
「ただ――」
その手が、そっと頬から離れる。
「無事でよかった」
それだけだった。
余計な言葉はない。
過剰な謝罪もない。
父としての、最も真っ直ぐな一言。
グラムは静かに手を引く。
そして兜へ。
重厚な兜の前面。
静かに、ゆっくりと閉じる。
金属が噛み合う硬質な音。
顔は隠れる。
感情は見えなくなる。
だが――
その背中は、わずかに強くなった。
グラムはゆっくりと視線を上げる。
空。
午後の青。
裂けた雲の隙間から降りる陽光。
「……まだ終わりではない」
誰に言うでもなく、低く呟く。
その横でトレントがミリイを抱え直す。
パティは静かに一歩下がり、周囲を警戒する。
戦場は静まった。
だが、守る者たちは立っている。
父は空を見上げたまま、剣を背でわずかに揺らした。
次に来る戦いを、既に覚悟しているように。




