ー私が奴隷になったわけー
「……気がついたら、知らない場所にいて」
淡々と。
「屋敷とは違うところで……」
指先が膝の上で小さく握られる。
「奴隷商人に、売られそうになりました」
その単語が落ちた瞬間。
パティの指が、テーブルの縁をわずかに強く押さえた。
だが、表情は崩れない。
ミリイは続ける。
「そのとき、助けてくれたのが……」
視線を横へ向ける。
「さっき昼間一緒だった女性のベルさんと」
ベルが片眉を上げる。
ミリイは淡く微笑む。
「……こちらのベルさんです」
パティの視線が、二人を静かに往復する。
しかし何も言わない。
ミリイは続ける。
「それから、二人と一緒に旅をして」
「いろんな場所で……いろんな事件に巻き込まれて」
少しだけ目が輝く。
「魔物から逃げたり」
「知らない人に追われたり」
「大きな町で騒ぎに巻き込まれたり」
語る声には、恐怖と同じくらい小さな興奮も混じっている。
「怖いこともたくさんありました」
「でも」
ふっと笑う。
「楽しいことも、同じくらいありました」
ベルが横で静かに聞いている。
ミリイは最後に、まっすぐ言った。
「今も……一緒にいます」
そこで言葉を区切る。
テーブルの向かい。
パティは――
表情を一切変えない。
長い沈黙のあと。
低く、静かな声が落ちた。
「……よく」
一拍。
「ご無事で」
それだけだった。
だが、その声音の奥には、押し殺した感情が確かに沈んでいた。
ミリイの話が終わる。
店内の喧騒が、やけに遠く感じられた。
ベルは何も言わず、静かにコップを持ち上げる。
パティは――
ゆっくりと。
静かに。
席を立った。
椅子が小さく音を立てる。
まっすぐベルの前へ歩み寄る。
ミリイの目が追う。
「……パティ?」
呼びかけに答えない。
パティはベルの前で足を止めた。
そして――
躊躇なく。
深く、深く。
腰を折る。
そのまま膝を床につけた。
周囲の客が、ちらりと視線を向ける。
だがパティは気にしない。
さらに上体を倒す。
額が床に触れそうなほど。
だがその所作は乱れない。
まるで完成された礼儀。
美しく、無駄がない。
ミリイの顔が青ざめる。
「……パ、パティ?」
声が震える。
ベルも一瞬、目を細めた。
パティはそのままの姿勢で口を開く。
「改めて」
静かな声。
「先程の私の迂闊な応対に対する謝罪と」
一拍。
さらに深く。
「そして――」
額が、ついに床へと触れる。
音はほとんど立たない。
だが重みだけが確かにそこにある。
「お嬢様を無事ここまで連れてきていただきましたことへの、感謝を」
言葉が落ちる。
完全な土下座。
それでも威圧ではない。
ただ誠意だけが、空気を満たしていた。
ミリイは慌てて立ち上がりかける。
「や、やめて……! パティ……!」
ベルは――
黙ってその姿を見下ろしていた。
パティが地に額をつけたまま静止する。
店内の空気が一瞬、張り詰める。
ベルはしばらくその姿を見下ろしていたが――
やがて、ふっと肩の力を抜いた。
「俺達がやりたくてやっただけさ」
軽い声。
「気にすんな」
パティの背中は動かない。
ベルは続ける。
「俺たちもミリイにはすっげぇ助けてもらってるし」
ちらりとミリイを見る。
「お互い様だろ」
そして視線を戻す。
「……あんた、本当にミリイが大切なんだな」
言いながら、軽く笑う。
そのまま、パティの肩へ手を伸ばした。
――瞬間。
「私に触れるな‼︎」
鋭い声。
言葉より早く。
パティの手刀が空を裂いた。
ベルの伸ばした手を、正確に弾き飛ばす。
バシン、と乾いた音。
周囲の客が一瞬振り向く。
だがパティは姿勢を崩さない。
そのまま顔も上げずに、冷静に構えを解く。
ベルは――
動じない。
弾かれた手を、もう片方の手で軽く押さえる。
「いってー」
小さく笑いながら呟く。
手首を回し、痛みを確認する仕草。
パティはゆっくりと立ち上がる。
黒い瞳がまっすぐベルを射抜く。
「許可なく触れる行為は無礼にあたります」
静かな警告。
ベルは苦笑する。
「反射速すぎだろ」
ミリイは椅子から立ちかけたまま固まっていた。
「パ、パティ……!」
パティは視線だけをミリイへ向ける。
「申し訳ございません。身体が先に反応いたしました」
淡々。
だがその立ち姿は、再び揺るぎない護衛の姿勢へと戻っていた。
ベルは弾かれた手を軽く振りながら笑った。
「悪かったな! 今度から触りたい時には声かけるぜ!」
軽口。
悪意はない。
パティは静かに息を整える。
「御恩のある方に対して失礼とは思いますが」
一拍。
「殿方には私に触れていただきたくはなく……」
ベルが片眉を上げる。
パティは続ける。
「けれども、どうしてもと仰るのでしたら……」
ミリイの視線が一気にパティへ向く。
「お嬢様に対する……御恩を返すということで……」
店内の空気が、わずかに止まる。
パティは真顔のまま言い切った。
「一晩だけであれば……」
ベルが一瞬固まり――
次の瞬間、腹を抱えて笑い出す。
「はっ――!」
「お前、ほんと真顔で何言ってんだよ!」
カラカラと笑う声が店内に響く。
ミリイは顔を真っ赤にして立ち上がる。
「パ、パティ!? な、何を言って……!」
パティは首を傾げる。
「冗談ではありません」
平然。
「条件付きでの提案です」
ベルは涙目で笑いながら手を振る。
「いやいやいや、冗談が通じんのか通じるのか分かんねぇやつだなー!」
笑い続ける。
パティは静かに言い返す。
「私は常に本気です」
その一言で、さらにベルが笑う。
ミリイは二人を見比べて、頭を抱えた。
「も、もう……!」
騒がしい店内の中、三人だけが妙に際立っていた。
やがて、皿の上はすっかり空になった。
デザートも平らげ、満足感がテーブルに静かに広がる。
ベルが大きく伸びをした。
「食った食った」
ミリイも小さく息を吐く。
「……おいしかったです」
ふと、ミリイが周囲を見回す。
「これから……どうしようか」
ベルが顎に手を当てる。
「この街、しばらく拠点にするか?」
「うん……でも、宿を探さないと」
ミリイが少し不安そうに言う。
「寝る場所、決めておかないと……」
ベルが肩をすくめる。
「まぁ、適当に安いとこでも――」
そこまで言ったとき。
パティが静かに口を開いた。
「でしたら」
二人の視線が向く。
「よろしければ、私の自宅へお越しください」
一瞬、時間が止まる。
ミリイが目を丸くする。
「え……?」
パティは淡々と続ける。
「現在、この街における私の拠点がございます」
「客室も確保しております」
ベルが片眉を上げる。
「いいのか?」
「問題ありません」
即答。
「お嬢様を外の宿に泊めるより、安全性が高い」
ミリイは少し戸惑いながらパティを見る。
「でも……迷惑じゃ……」
パティはまっすぐ見返す。
「迷惑ではありません」
一拍。
「むしろ」
ほんのわずか、目が柔らぐ。
「お傍にいられる機会を、私が逃すはずがありません」
ミリイの胸が、きゅっと温かくなる。
ベルは小さく笑った。
「じゃあ決まりだな」
立ち上がる。
「案内頼むわ」
パティは静かに頷き、席を離れた。
「こちらです」
夜の街へ――
三人は新たな拠点へと歩き出した。
翌朝。
まだ街は薄い霧に包まれている。
パティの自宅は静まり返り、客間の扉の向こうでミリイとベルはそれぞれ別の部屋で眠っていた。
廊下から、かすかな調理の音。
鍋が触れ合う音。
包丁がまな板を打つ規則的な響き。
パティはすでに起きていた。
――メイド服。
昔と同じ形。
だが今は、足には金属プレートのついたブーツ。
両手には鉄甲。
首元には静かに鎖が揺れている。
その姿で、淡々と朝食を準備する。
火加減を確かめ、皿を並べ、手際は一切乱れない。
やがて――
ミリイの客間の前で立ち止まる。
ノックはしない。
そっと扉を開けた。
薄暗い部屋。
ベッドの上で、小さな寝息。
パティは静かに歩み寄る。
そして、昔と同じ動きで――
ベッドの傍に膝をついた。
「お嬢様」
低く、しかし優しい声。
肩にそっと手を置く。
「朝でございます」
少し間を置き、もう一度。
「起床のお時間です」
ミリイのまつ毛が、かすかに揺れる。
パティは昔と同じように、静かに続ける。
「今日は良い天気です」
「散策にも適した気温でございます」
首の鎖が、小さく音を立てた。
その音が、記憶を呼び起こすように部屋に落ちる。
――昔。
屋敷で毎朝、こうして起こしてくれた存在。
今、その姿は変わった。
だが声は、変わらない。
ミリイの瞼が、ゆっくりと開いた。
ミリイのまぶたが、ゆっくりと開く。
視界に入ったのは――
黒いメイド服。
首に揺れる鎖。
両手の鉄甲。
足元の重いブーツ。
そして、その奥にある、変わらない瞳。
「……パティ……?」
声はまだ眠気を帯びている。
だが次の瞬間。
記憶が重なる。
幼い頃。
同じようにベッドの傍らに膝をつき、優しく声をかけてくれた姿。
毎朝、同じ声。
同じ距離。
同じ温度。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
ミリイの目に――涙が滲んだ。
「……っ」
こぼれる前に止められない。
ぽろ、と頬を伝う。
パティの表情がわずかに揺れる。
すぐに迷いなく動いた。
ミリイをそっと抱き寄せる。
鎖が小さく鳴る。
だが腕は、硬さを感じさせない。
包み込むように。
昔と同じ抱き方で。
「……よく、頑張りましたね」
低く、落ち着いた声。
ミリイはパティの胸に顔を埋める。
「……パティ……」
嗚咽混じり。
パティはその背をゆっくりと撫でる。
手甲をつけたまま、しかし力加減は繊細だ。
「大丈夫です」
「ここにおります」
小さな子供をあやすように。
昔、屋敷で何度も繰り返した動き。
パティは静かに子守唄を口ずさみ始める。
声は低い。
メロディは古い。
ミリイが幼い頃、怖い夢を見たときに聞いた音。
部屋の空気が、ゆっくりと落ち着いていく。
ミリイの呼吸が、少しずつ整う。
涙が止まり。
すすり泣きが小さくなり。
やがて――
「……落ち着きましたか?」
問いかける。
ミリイは小さく頷いた。
パティは静かに腕を解く。
そして、指でミリイの目元をそっと拭う。
「朝食の時間です」
いつもの声。
「リビングへ参りましょう」
自然な動きで立ち上がる。
先ほどまで抱きしめていた温度は消えないまま。
二人は廊下へ。
そして――
朝の光が差し込むリビングへと歩いていく。
テーブルには、すでに整えられた朝食。
そこにはベルが、欠伸をしながら座っていた。




