ー私のためにマリーナさんがー
3日後 警察支部マリーナの自室(仮)
書類の山が机の端に積まれている。
窓の外では、訓練の掛け声と靴音が遠く響いていた。
マリーナは眼鏡を指で押し上げながら、別件の報告書に目を通している。
その時――
「警部」
扉の前で控えめなノック。
「入れ」
短い一言。
部下の一人が静かに入室する。
両手には封筒。
厚みのある、正式な調査報告書。
「例の件、まとめが上がりました」
マリーナの動きが一瞬止まる。
「……ミリイの家族の件?」
「はい」
部下は机の上へ資料を置く。
重い音が響く。
マリーナは小さく息を吐き――
「ありがとう」
静かに礼を言い、書類を手に取った。
封を切る。
ページをめくる音が静かに部屋へ落ちる。
視線が一行ずつ情報を追う。
父の所在。
母の現状。
執事の移籍記録。
メイドの失踪扱い。
そして――
資金流動の不自然な痕跡。
マリーナの眉が、わずかに寄る。
指が紙の上で止まった。
一度、目を閉じる。
情報を整理するように。
状況を組み直すように。
しばし逡巡。
やがて――
ゆっくりと立ち上がり、窓へ歩み寄る。
窓の外。
訓練中の隊員たち。
街を行き交う人影。
静かだが、確実に動いている世界。
マリーナはその景色を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
「……彼らは」
低い独り言。
「このことを知っているのだろうか」
報告書に記された父と母。
移籍した執事。
記録上“失踪”のメイド。
マリーナの指先が、静かに窓枠を押さえる。
視線を落とし――
やがて、静かに言葉を置いた。
「……言わないわけにはいくまい」
低く。
決意を含んだ声。
事実を握り潰すこともできる。
だがそれは選ばない。
知る権利があるなら、伝える。
その判断を胸に留め――
マリーナは報告書を机に置き、静かに腕を組んだ。
眉間には、まだ消えない思案の色。
ページをめくる指が、一瞬だけ止まる。
「……違和感がある」
低い声。
資金流動。
家系の分散。
だが――
それだけでは説明できない“履歴の厚み”。
報告書の隅に記された経歴欄。
一部が曖昧に伏せられている。
通常の没落貴族なら、ここまで記録が残ることはない。
しかしこの家は――
妙に“空白”が整理されている。
マリーナの目が細くなる。
(単なる地方貴族ではない……?)
だが確証はない。
まだ断定する材料は足りない。
その思考を一旦脇へ置き――
扉がノックされた。
「警部」
「入れ」
マークスが入室する。
背筋を伸ばし、無駄のない動きで立つ。
マリーナは彼を真っ直ぐ見た。
「新しい命令だ」
報告書を軽く持ち上げる。
「ミリイの家族」
「ミリイやベルに報告する前に、こちらから接触を図れ」
マークスの表情がわずかに変わる。
マリーナは続ける。
「父、母、執事――可能ならメイドの痕跡も含めて」
「状況確認と、本人の意思確認を優先」
一拍。
視線が鋭くなる。
「状況が状況だ。無理はするな」
静かながら、現実的な配慮。
マークスは即座に敬礼した。
「了解しました」
マリーナは小さく頷く。
「動け」
マークスは踵を返し、静かに部屋を出る。
扉が閉まる音。
マリーナは再び窓へ視線を向けた。
――先に手を打つ。
守るためなら、前に出る。
その判断は揺れない。
昼を少し過ぎた頃。
商人区の喧騒は、午前よりも落ち着いていた。
露店の客足もまばらになり、石畳の上には柔らかな陽光が差している。
ベルとミリイは通りの端を並んで歩いていた。
特に目的地があるわけではない。
ただ――街を知るための散策。
ベルは露店に並ぶ小物を何気なく覗き込む。
「これ、可愛いね」
木彫りの小さな動物の飾り。
ミリイは横からそれを見て、少しだけ首を傾げる。
「昔……屋敷の庭にも似た彫刻がありました」
「庭師の方が作ってくれて」
ベルは振り向く。
「へぇ」
「じゃあミリイ、こういうの好き?」
ミリイは一瞬迷う。
正直に答えていいのか考えるような間。
やがて――
「……嫌いでは、ありません」
小さな本音。
ベルはにこっと笑う。
「じゃあ買おう」
ミリイが慌てる。
「い、いえ! そこまでしていただかなくても――」
ベルはすでに店主に値段を聞いている。
「これください」
あっさり購入。
小さな木彫りを受け取ると――
ベルはそれを、ミリイの手にそっと置いた。
「はい」
ミリイの目が大きくなる。
「……私に?」
「うん」
「今日の記念」
ミリイは木彫りを両手で包み込む。
指先が震える。
こんな“些細な贈り物”が、今はとても大きい。
「……ありがとうございます」
声が少しだけかすれる。
ベルは隣で伸びをしながら笑う。
「こういう普通の時間」
「もっと増やしたいね」
ミリイはその言葉を静かに聞く。
普通。
失われていたもの。
今、隣にあるもの。
ミリイは小さく頷いた。
「……はい」
午後の光の中。
二人は再び歩き出す。
通りを少し歩いたところで、ベルがふと足を止めた。
「……ねぇ」
ミリイが振り返る。
「はい」
ベルは自分のお腹を軽く押さえた。
「お腹、空いたかも」
少し照れたように笑う。
ミリイは一瞬きょとんとして――
すぐに小さく頷いた。
「……私も、です」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に、少しだけ笑った。
「じゃあ」
ベルが通りの奥を見渡す。
「どこかいいお店、あるかな?」
ミリイは周囲をゆっくり見回す。
でも――
首を横に振った。
「……詳しくは、ありません」
「この街にいた頃も、決まった場所しか行っていませんでした」
少し申し訳なさそうな声。
ベルはすぐに首を振る。
「いいよ、それ」
「知らないなら、一緒に探せばいいじゃん」
あっさり言い切る。
ミリイの目が少しだけ丸くなる。
ベルは歩き出しながら続ける。
「匂いとか」
「人が並んでるところとか」
「あと、なんか美味しそうな声が聞こえるところ」
「そういうの頼りにしよ」
ミリイは小さく笑う。
「……野生ですね」
ベルは振り返る。
「失礼な〜」
軽く頬を膨らませる仕草。
ミリイの緊張が、少しだけ解ける。
二人は通りをゆっくり歩きながら――
人が多い店。
香ばしい匂いが漂う屋台。
ガラス越しに料理が見える小さな食堂。
ひとつひとつを覗いていく。
ベルが立ち止まり、店の中を見て言う。
「ここ、どう?」
ミリイは中を確認して――
静かに答える。
「……静かで、良さそうです」
ベルはにこっと笑う。
「決定」
そう言って、店の扉を押した。
ベルが扉を押し開ける。
木製のドアが静かに音を立てた。
店内には香ばしい匂いと、煮込み料理の湯気。
昼を少し過ぎた時間帯で、客はまばらだ。
「ここ、どう?」
ベルが振り返る。
ミリイは店内をゆっくり見渡し、小さく頷いた。
「……静かで、良さそうです」
ベルはにこっと笑う。
「決定」
二人は奥の席へ向かい、腰を下ろす。
メニューを広げ、何にするかを相談し始める。
その少し後――
店の扉が、再び静かに開いた。
足音は軽い。
目立たない動き。
黒い外套。
帽子のつばが視線を曖昧に隠す。
店内を一度だけ、ゆっくりと見渡す。
視線の先に――
ミリイの姿。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
空気が止まる。
だがすぐに目線を逸らし、何事もなかったように別の席へ移動する。
席に座る動きは自然。
店員へ向ける態度も落ち着いている。
しかし――
ミリイを見たあの一瞬だけ。
視線の奥に、微かな揺れがあった。
懐かしさ。
確認。
そして警戒。
ベルとミリイはまだ気づいていない。
メニューを覗き込みながら、静かに会話を続けている。
店内に溶け込むようでいて。
ほんのわずか。
異質な気配が混ざっていた。
に“異質な存在”が混じり込んでいた。
二人はテーブルに向かい合って座る。
ベルはメニューを両手で持ち上げ、ぱらぱらとページをめくった。
「うわ、結構あるね」
目がきらっと動く。
ミリイも隣からそっと覗き込む。
「煮込み料理が人気みたいです」
「あと、パンとスープのセットも……」
ベルはにこっと笑う。
「いいじゃん、セットでいこ」
即決。
ミリイは少しだけ戸惑いながらも、口元が緩む。
「……では、同じものを」
ベルは軽く肩を揺らす。
「え〜、真似っこ?」
「ミリイもちゃんと自分で選んでいいのに」
ミリイは少し考えて――
真剣な顔でメニューを見直す。
やがて小さく指を差した。
「……じゃあ、こちらで」
ベルは嬉しそうに頷く。
「よし、決まり!」
注文を呼ぼうとしたその時――
店の奥。
黒い外套の人物が、ふと二人の席を見る。
ベルの笑い声。
ミリイの柔らかい表情。
その光景に――
ほんの一瞬、視線が止まる。
手元のカップを持つ指がわずかに強くなる。
(……あの顔)
胸の奥で、静かな波が揺れる。
だがすぐに表情を整え、何事もなかったように視線を逸らす。
注文を待つふりを続ける。
一方――
ベルは追跡者の存在にまだ気づかない。
ミリイと顔を見合わせて、くすっと笑う。
「こうやって選ぶの、楽しいね」
ミリイも小さく頷いた。
「……はい」
「少し、昔を思い出します」
穏やかな時間。
外から見ればただの女子会。
しかし店内の一角では――
静かな観察者が、その笑顔を逃さず見守っていた。
やがて――
店員が料理を運んでくる。
湯気を立てる煮込み料理。
焼きたてのパン。
香草の香りがふわっと広がった。
ベルの目がぱっと輝く。
「うわ……美味しそう!」
ミリイも思わず身を乗り出す。
「……本当に、良い匂いですね」
二人同時に手を合わせる。
「いただきます」
スプーンが器に触れる音。
ベルが一口食べて――
「ん〜〜!」
頬を少し膨らませる。
「これ当たりだよ!」
ミリイも小さく口に運び、ゆっくり味わう。
一瞬だけ目を閉じて――
静かに微笑んだ。
「……優しい味です」
その言葉が、今日いちばん自然に出た笑顔だった。
ベルは嬉しそうに笑う。
「よかった」
「こういうの、ちゃんと楽しめるのって大事だよね」
ミリイは少し考えてから、ふと口を開く。
「……もし」
「しばらくこの街に滞在するなら」
ベルが顔を上げる。
「うん?」
ミリイは少しだけ恥ずかしそうに続ける。
「観光、してみたいです」
「昔行った場所……まだあるか分かりませんが」
ベルの目がきらっと光る。
「いいねそれ!」
すぐに乗る。
「どこ行きたい?」
ミリイは少し記憶を探るように視線を上に向ける。
「……高台の公園」
「あと、噴水広場」
「夜になると灯りが綺麗だった場所も」
ベルは指を折りながらメモする仕草。
「よし、全部行こ」
「観光プラン決定〜」
軽いノリ。
ミリイはくすっと笑う。
その様子を――
少し離れた席で。
黒い外套の人物が静かに見ている。
料理を口に運ぶ動きはある。
だが視線は。
二人の会話。
笑顔。
未来の予定を楽しそうに語る姿。
それらに――
ほんのわずかに。
指先が止まる。
(……変わった)
心の奥で、静かな実感。
しかしそれ以上は動かない。
ただ観察する。
その空気はまだ――
壊れていない。
ミリイの足が、ほんの少しだけ遅れる。
視線が――
石造りの古い建物へ向いたまま止まる。
その路地。
その角。
かつて小さな自分が走り回っていた場所。
記憶が、静かに浮かび上がる。
ベルは何も知らず、前を歩きながら振り返る。
「……どうしたの?」
心配というより、純粋な疑問。
ミリイは一瞬だけ迷い――
そして小さく微笑んだ。
「ここ」
「昔、よく通りました」
ベルは周囲を見渡す。
ただの古い路地にしか見えない。
「へぇ」
「じゃあミリイの“地元”ってこと?」
軽い言い方。
ミリイは頷く。
「……はい」
その瞬間。
背後の影が、わずかに足を止める。
ミリイがこの場所に反応したことを――
静かに観察する。
表情。
呼吸。
視線の向き。
(……覚えている)
影の中で、わずかな確信。
だがまだ動かない。
距離を保つ。
ベルはそんな緊張の変化を一切感じ取っていない。
「じゃあさ」
ベルは楽しそうに笑う。
「案内してよ」
「昔のミリイの思い出ツアーじゃん」
ミリイの胸に、じんわりと温かいものが広がる。
でも――
同時に。
背中に、静かな視線を感じる。
気のせいかもしれない。
けれど。
確かに“誰か”がいる。
ミリイは小さく息を吸い――
何も気づいていないふりをする。
「……はい」
ベルの隣に並び直し、歩き出す。
追跡者は、また一歩。
影の奥で――
静かに距離を詰めた。
ミリイは少し歩みを緩めながら、周囲を見渡す。
「ここは……屋台が多い場所です」
ベルの目がすぐに輝く。
「え、最高じゃん」
通り沿いには軽食屋や焼き菓子の屋台。
香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
ベルは迷いなく近づいた。
「これください!」
串焼き。
焼き菓子。
甘い果実を煮詰めた飲み物。
ミリイも少し遅れて注文する。
二人は並んで歩きながら――
買ったものをその場で少しずつ食べ始めた。
ベルが串焼きを一口。
「ん〜!」
「これ美味しすぎ!」
ミリイも小さく頷く。
「……街の味、です」
その“街”という言葉に、ほんのわずかな感情が乗る。
二人が笑う。
その様子を――
少し離れた距離から。
追跡者は静かに見ている。
ベルとミリイが楽しそうに食べ歩くたび。
ミリイの横顔が緩むたび。
視線が――
ほんの少し強くなる。
(……変わらない)
(いや、少し違う)
記憶の中の少女と。
今隣にいる少女。
重なる部分と、違う部分。
観察は深くなる。
距離は一定。
だが感情の揺れは増していく。
ベルは相変わらず気づかない。
「ミリイ、これ食べる?」
「一口あげよっか?」
ミリイは少し照れながら――
「……では、少しだけ」
そう言って受け取る。
その瞬間。
追跡者の指先が、わずかに動いた。
(……距離が近い)
(守られている)
(それとも――)
思考が一瞬だけ揺れる。
だが踏み出さない。
まだ。
まだ様子を見る。
二人は食べ歩きを続ける。
楽しそうに。
軽やかに。
そして追跡者の視線は――
少しずつ。
少しずつ。
熱を帯びていく。
ミリイは屋台で買った焼き菓子を両手で持ちながら、ふと足を止めた。
ベルが振り返る。
「どうしたの?」
ミリイは通りの景色を見つめる。
懐かしそうに。
「……ここ」
「よく、来ました」
ベルが目を丸くする。
「ほんと?」
ミリイは小さく頷く。
「メイドの人と」
その名前を口にするとき、声が少しだけ柔らかくなる。
「よく屋敷を抜け出して」
「こうして、食べ歩きをしました」
ベルはにやっと笑う。
「やんちゃじゃん」
ミリイは恥ずかしそうに視線を逸らす。
「怒られましたけど……」
「でも、止められなくて」
一口、焼き菓子をかじる。
甘さが広がる。
その味に――
記憶が重なる。
「その人」
ミリイはゆっくり続ける。
「食べるのが好きな人でした」
「いつも、私より先に新しいお店を見つけて」
「“これ美味しいよ”って笑って」
一瞬だけ。
目元が熱を帯びる。
「……一緒に食べる時間が」
「好きでした」
言い終えたあと。
ミリイは静かに空を見上げる。
その言葉は、ただの思い出ではなく。
まだどこかで生きているかもしれない存在への――
小さな祈りだった。
その会話を。
少し離れた位置で。
追跡者は聞いていた。
“メイド”
その単語。
その記憶。
胸の奥で、強く波打つ。
(……覚えている)
(食べ歩き)
(抜け出したあの日も――)
指先が無意識に握られる。
視線が一瞬だけ揺れる。
距離は保ったまま。
だが感情の強度は、確実に上がった。
ベルはそんな変化に気づかない。
「いいね」
「その人、絶対ミリイのこと大事にしてたよ」
ミリイは小さく微笑む。
「……はい」
その笑顔は――
追跡者の視界に、まっすぐ届いた。
「……パティ」
ミリイは焼き菓子を持ったまま、ぽつりと名前をこぼした。
ベルが首を傾げる。
「その人?」
「はい」
ミリイは少し照れたように笑う。
「パラスウェット・センス」
「通称、パティ」
通りの景色を見つめながら、ゆっくり思い出を辿る。
「昔は黒髪のボブで」
「私より少し背が高いくらいで」
「おてんばで……」
くす、と小さく笑う。
「私のこと“ミリイ”って呼んでいました」
ベルが楽しそうに聞いている。
「食べるのが好きで」
「よく、ここに連れ出してくれて」
「怒られても、二人で逃げて」
「……強い人でした」
一瞬だけ、声が静かに落ちる。
「すごく」
その言葉が落ちた瞬間。
通りの向こう。
人の流れの切れ目に。
黒いコートを羽織った長身の人物が立っている。
襟元から覗く太い三つ編み。
整えられた前髪。
紫に見える瞳。
視線は、ただ静かにミリイへ。
動かない。
呼ばない。
表情も変わらない。
ミリイは気づかないまま、空を見上げる。
「会えたら……」
「また一緒に食べたいです」
その言葉に。
コートの裾が、ほんのわずかに揺れた。
それだけ。
何も起きない。
ただ距離だけが、少しだけ縮まっている。
ベルは串を振りながら笑う。
「会えるよ、きっと」
ミリイは微笑む。
その笑顔を。
コートの人物は、黙って見つめている。
まだ、名乗らない。
まだ、近づかない。
ただ。
離れない。
通りの熱が、少しずつ冷めていく。
人の波がほどけ、足音がまばらになる。
屋台の灯りが灯りはじめる頃。
ミリイが角を曲がった瞬間、小さな子供が勢いよく飛び出してきた。
「わっ――」
菓子袋が宙に浮く。
その前に。
黒いコートの裾が揺れた。
次の瞬間、袋は落ちることなく受け止められている。
無言で差し出されるそれ。
ミリイは驚いた顔で受け取る。
「……ありがとうございます」
軽く会釈する長身の人物。
声はない。
すぐに一歩引く。
距離が戻る。
何も起きなかったかのように。
けれど。
ミリイはほんの一瞬、視線を追った。
「……?」
懐かしいような、錯覚のような。
だが呼び止めはしない。
⸻
見失う
夕焼けが濃くなる。
人影が伸びる。
屋台の煙が流れる。
視界が一瞬だけ白く滲む。
その刹那。
黒いコートの姿は、どこにもなかった。
完全に。
まるで最初からいなかったように。
ミリイは気づかない。
ベルも気づかない。
ただ、空だけが赤く染まっていく。
⸻




