ー怒りの魔王殺しー
大陸警察――王国支部。
日が暮れたばかりの廊下を、
ベルは一人、足早に歩いていた。
肩で風を切るように。
だがその歩みは乱れていない。
迷いもない。
踏み出す一歩一歩に、
静かな怒りが込められている。
天井の照明と、
窓から差し込む月明かり。
その光を受けて――
銀色の髪がほのかに輝く。
揺れるたびに、冷たい光が廊下に線を描く。
その顔。
その目。
その口元。
普段は少年らしい表情を崩さないが、
今は違う。
眉はわずかに寄り、
瞳の奥には抑えきれない感情が燃えている。
怒り。
そして――
守る者の覚悟。
「許さなねぇ...」
小さく呟く声は低い。
あれを――
そのままにしておくつもりはない。
廊下に響く足音が、
静かな決意を証明する。
ベルは拳を軽く握りしめる。
銀髪が再び月光を反射する。
怒りはある。
だがそれ以上に、
揺るがない意志がそこにあった。
まだ日が暮れたばかりの時間。
廊下には警察関係者、警備の人間、施設で働く職員たちが行き交っている。
だが――
誰も声をかけない。
銀髪の少年が放つ空気が、
あまりにも鋭く、
あまりにも真っ直ぐだったからだ。
視線。
歩幅。
呼吸。
そのすべてに「止まるな」と書かれているかのような圧。
すれ違う者たちは無意識に道を開ける。
ひそひそとした会話さえ、自然と止まる。
誰かが小さく呟く。
「……あれ、誰だ?」
しかし答える者はいない。
ベルは周囲の反応を気にしない。
足を止めない。
視線は一点だけを見据えている。
――会議室。
そこへ向かう。
怒りをぶつけるためではない。
誤解を正すため。
そして、はっきりと線を引くため。
廊下の先、
目的の扉がゆっくりと近づいてくる。
ベルは拳を握ったまま、
まっすぐ歩み続けた。
会議室の前。
ベルが足を止める。
重厚な扉の前に――
一人の影。
マリーナが立っていた。
すでに眼鏡は外れている。
金色の髪は背中へ流れ、
腕を組んだまま静かにベルを待っていた。
気配で分かっていたかのように、
振り向かずに口を開く。
「来たか」
低い声。
振り返る動きはゆっくり。
そして――
真正面から銀髪の少年を見据える。
その視線は逃げない。
驚きもない。
むしろ、
“待っていた”という色が強い。
ベルは一歩前へ出る。
距離が縮まる。
廊下の照明が二人の間に細い影を落とす。
緊張。
静寂。
誰も口を挟まない空間。
マリーナは淡々と続ける。
「話は中で聞こうと思っていたが」
「その顔を見る限り――」
一拍。
「私に言いたいことがあるようだな」
挑発ではない。
確認。
逃げ場を与えない問い。
ベルの拳が、
わずかに強く握られる。
ベルは足を止めない。
真正面からマリーナへ歩み寄る。
「……あんたに会いに来たわけじゃないが――」
一瞬、言葉を区切る。
視線は逸らさない。
「そういや、あんたにも聞きたいことがあったんだった」
そのまま会議室の扉へ近づく。
マリーナの前を通り過ぎる距離。
空気が張り詰める。
マリーナの身体がわずかに――
ほんのわずかに――
身構える。
反射。
戦闘ではない。
だが、いつでも動ける姿勢。
しかしベルはその反応を気にしない。
止まらない。
距離がさらに縮まる。
一歩。
また一歩。
まるで圧をかけ返すように、
真正面から迫る。
マリーナは目を細める。
「……何だ」
低く問う。
ベルはついにマリーナのすぐ目前で足を止めた。
顔と顔の距離は近い。
逃げ場はない。
ベルは歩み寄る勢いを止めない。
そのまま――
マリーナへ肉迫する。
マリーナの瞳がわずかに揺れる。
だが退かない。
ベルは右手を伸ばし、
マリーナの背後にある会議室の扉へ――
拳ではなく、腕ごと強く打ち付けた。
ドン、と鈍い音が廊下に響く。
扉と壁に挟まれるように、
マリーナの背後を封じる形になる。
距離が――
一気にゼロに近づく。
ベルの顔が、
マリーナの鼻先すれすれまで迫る。
視線は真正面。
逃げ場はない。
完全な“壁ドン”の体勢。
マリーナは一瞬だけ息を止める。
至近距離。
互いの呼吸さえ感じ取れる距離。
だがベルは視線を逸らさない。
「……話がある」
低い声。
怒りを含みながらも、
どこか冷静さを保った声音。
マリーナの金色の瞳がゆっくりと細められる。
圧。
しかし――
怯みはない。
ベルはマリーナを壁に押し付けたまま、低く言い放つ。
「昼間のこと――ミリイに聞いたぞ」
普段の彼からは想像できない強い圧。
怒りを隠す気もない。
真っ直ぐな視線がマリーナを射抜く。
マリーナは至近距離でその圧を受け、
思わず言葉が詰まる。
「昼間のこと……あの、その、あれは……」
しどろもどろ。
ベルは一歩も引かない。
「あんたのこと、俺なりに信じてたんだぞ!」
マリーナの瞳が揺れる。
「私を信じて……?」
一瞬だけ表情が和らぐ。
「うん、嬉しい」
だがベルの怒りは止まらない。
「初めて会った夜にも俺は言ったよな!?」
マリーナは目を瞬かせる。
「初めて……初めての夜?」
「そんな……これから? まだ心の準備が……」
完全に方向がズレている。
ベルは構わず続ける。
「評価試験だかなんだか知らねぇが!」
「お前らよってたかってアイツやミリイをいじめやがって……」
マリーナは即座に首を振る。
「評価なんてしない!」
「試験なんてない!」
そして――
少し胸を張りながら、はっきりと告げる。
「あなたは……私の中ではいつでも大・合・格♡」
ベルの怒りが一瞬だけ止まる。
「覚悟はできてんだろうな!?」
問い詰める声。
マリーナは一瞬きょとんとしてから、
頬をほんのり赤くしながら頷く。
「覚悟……!?」
「……ん、うん……」
そして――
固く目を閉じ、
そっと唇を突き出す。
完全に“何かを待っている”体勢。
ベルは苛立ちを隠さず声を荒げる。
「お前、人の話聞いてんのか!?」
だが――
目を閉じたまま、
何かを待つように唇を突き出しているマリーナには、
その怒声は届いていない。
初めて味わう状況への緊張。
期待。
ほんの少しの怖さ。
感情が入り混じり、
外界の音を遮断しているかのようだ。
ベルはその様子を見て、
大きく息を吐いた。
(……もういい)
「まぁいいや」
「アンタは後回しだ」
言い捨てるようにそう告げると、
マリーナをその場に残したまま、
背後の会議室の扉へ向き直る。
迷いはない。
一歩踏み込み――
手をかける。
そして力任せに、
扉を押し破った。
轟音。
木材が軋み、
衝撃音が室内へと響き渡る。
開かれた扉の向こうへ向かって、
ベルは怒号を放つ。
「――出てこい!」
「ルーファス!」
その声は廊下だけでなく、
会議室の奥深くまで突き刺さる。
空気が一瞬で張り詰める。
ついに――
標的が名指しされた。
扉が破壊されると同時に、
会議室の中が騒然となる。
椅子が倒れ、
書類が宙に舞い、
警備にあたっていた人間たちが一斉に立ち上がる。
「侵入者だ!」
「止めろ!」
複数の足音。
剣の抜かれる音。
魔力の気配。
だが――
その反応よりも早く、
銀髪の少年が踏み込んでいた。
ベルは躊躇しない。
駆け寄ってきた警備の一人を、
肩で受け流すように弾き飛ばす。
続けて別の人間の腕を掴み、
勢いを利用して床へ叩きつける。
「っ……!」
悲鳴。
しかし止まらない。
近づく者から順に、
掴み、
投げ、
崩し、
空間から排除していく。
千切っては投げ。
千切っては投げ。
数秒の間に、
会議室の前方はほぼ制圧状態になる。
圧倒的な身体能力と反応速度。
誰も追いつけない。
ベルの視線は――
ただ一つの存在を探している。
だが。
その場に――
ルーファスの姿はない。
椅子の影。
机の後ろ。
壁際。
どこにも――いない。
ベルは乱戦の中心で足を止め、
鋭く周囲を見回す。
「……いねぇ」
怒りは消えない。
むしろ増幅する。
逃げたのか。
それとも――
最初からここにはいなかったのか。
会議室は騒然としたまま。
だが標的の姿だけが、
そこに存在していなかった。
会議室の中。
倒れた警備員たちの間に立つベル。
荒い呼吸。
だが視線は鋭いまま、
標的の姿を探し続ける。
――いない。
「……くそ」
低く吐き捨てたその瞬間。
静寂を破るように、
室内の通信端末が突然起動する。
ピ、と短い起動音。
天井近くのスピーカーから、
落ち着いた男の声が響いた。
「ご機嫌よう」
ベルの眉がぴくりと動く。
その声。
ルーファスだ。
だが姿はない。
声だけが空間に広がる。
「わざわざ私を探しに来てくださるとは」
「光栄ですね」
通信越しの余裕。
ベルは即座に端末へ視線を向ける。
「逃げてんじゃねぇよ」
吐き捨てるように言う。
スピーカー越しに、
ルーファスは小さく笑う気配を見せた。
「逃げる?」
「いいえ、私は常に最適な位置へ移動しているだけです」
淡々とした声。
「この場に直接姿を現す価値がないと判断したまで」
挑発ではなく、
合理。
「あなたが怒りに任せて突入するのは想定内でした」
「ですが――」
一拍。
声のトーンがわずかに低くなる。
「ここで暴れても、目的は達成できませんよ」
ベルの拳が強く握られる。
通信越しでも分かる。
あの男は――
状況を完全に把握している。
どこか別の場所から、
この混乱を観測している。
会議室には、
スピーカーから流れる声だけが残響していた。
通信越しの声に、
ベルの怒りが一気に爆発する。
「ルーファス!」
「てめぇ、この卑怯者め!」
声が会議室中に響き渡る。
倒れた机を蹴り飛ばし、
散乱した書類を踏みつけながら叫ぶ。
「評価試験だ!?」
「貴族だ!?」
「王族だ!?」
「提携だ!?」
「協力関係だ!?」
一歩踏み出すたび、
破壊音が重なる。
「そんなもん知るかぁーーーっ!」
拳が壁を打ち抜き、
衝撃でひびが走る。
「お前が!」
「お前達が!」
「俺の仲間にしたことは――」
視線が天井のスピーカーを射抜く。
「絶対に許さねぇ!」
叫びと同時に、
近くの机を掴み上げ、
床へ叩きつける。
粉塵が舞う。
「もうやめだ!」
「ぜんぶやめだやめだ!」
破壊。
制御を捨てた力が空間を蹂躙する。
「ぶっ壊してやる!」
「ぜんぶまとめてぶっ壊してやるから――」
「覚悟しやがれ!」
拳に魔力が収束する。
銀髪が逆立つように揺れる。
ベルは天井へ向かって吠える。
「『魔王殺し』上等だぜ!」
「期待に応えてやるよ!」
「朝までの数時間――」
足を踏み鳴らす。
「楽しい鬼ごっことかくれんぼの始まりだ!」
会議室の中をさらに破壊しながら、
最後に叫ぶ。
「夜は始まったばかりだ!」
「今夜は朝まで遊ぼうぜ‼︎」
轟音。
衝撃。
怒りを燃料にした戦闘宣言が、
支部全体へ響き渡る。




