ー試験終了、こっちもやっと一安心ー
喉の奥が乾く。
鼻から伝う血を手の甲で乱暴に拭った。
赤い跡が残る。
「あと二、三発……余裕が欲しいところなんだけど」
小さく自嘲するように笑う。
だがすぐに表情が変わる。
目の奥に迷いはない。
残りの回数と敵の数をもう一度確認する。
四体。
五回。
勝負は成立している。
だが安全圏ではない。
「……やるしかない」
ベルは地面を強く踏み、
再び構えを取った。
浮遊ユニットが同時に動き出す。
包囲が縮まる。
残り五回。
残り四体。
ギリギリの均衡が、静かに揺れ始めた。
ベルは再び地面を蹴る。
だが――その一歩が、さっきより重い。
脚に力が入らない。
肺が焼けるように痛み、呼吸が浅く乱れる。
「は……っ、は……」
走るだけで息が上がる。
回避のために踏み込むたび、膝が震える。
能力を使うたびに、体の奥から何かが削られていく感覚。
指輪はまだ光っている。
だがその光に引きずられるように、体力が奪われている。
浮遊ユニットが軌道を変え、同時に二方向から迫る。
ベルは反射的に横へ跳ぶ。
爆風。
地面が砕け、破片が飛び散る。
着地。
その勢いのまま右手を構える。
「……貫いて!」
光線が走る。
一機の胴体を正確に捉え――貫通。
落下。
だが次の瞬間、別方向から雷撃が放たれる。
ベルは咄嗟に体をひねる。
回避。
間に合った。
しかし体勢は崩れる。
「くっ……」
呼吸を整える前に、再び照準を合わせる。
「アカリ……!」
光が集まりきる前に撃つ。
狙いがわずかにぶれる。
光線は機体の端をかすめ、致命傷には届かない。
爆ぜず、貫通も不十分。
機体は傷つきながらも動きを止めない。
ベルの歯が鳴る。
(……焦ってる)
自分でも分かる。
視界が揺れる。
狙いが定まらない。
指先の感覚が鈍い。
次の敵が急接近する。
距離が近すぎる。
「やっちゃって!」
掌を突き出す。
光弾が形成され、放たれる。
直撃。
だが発射の瞬間、身体が一瞬よろけた。
弾道がわずかに逸れる。
装甲を吹き飛ばすが、核心部までは届かない。
敵は爆炎の中から再び姿を現し、突進してくる。
ベルは反応が遅れ、横に飛び込む。
着地できず、地面を転がる。
肩を打つ。
痛みが走る。
息が詰まる。
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「……っ、まだ……」
残り三体。
残り使用回数は――
【4】
数字が視界の端で冷たく光る。
心臓の鼓動が耳の内側で暴れ、
視界が白く滲む。
撃つたびに体力が削られ、
回避するたびに限界が近づく。
それでもベルは地面を掴み、
震える身体を強引に起こした。
「……倒す」
かすれた声で呟き、
再び構えを取る。
ベルはできるだけ距離を取りながら、戦場を横に滑るように移動する。
敵の射線から外れ、攻撃の軌道を読む。
発射の予兆。
空気の震え。
光の収束。
「……そこ」
次の瞬間、爆発が起きる直前に身を翻す。
背後で炎が弾け、熱風が服の端を焼き切った。
布が焦げ、袖が裂ける。
肌に細かな裂傷が走る。
痛みが遅れて追いかけてくる。
ベルは歯を食いしばりながら、その衝撃を利用してさらに距離を取る。
「……っ」
呼吸を整える間もなく、
カウンター気味に右手を構える。
敵が攻撃姿勢に入った瞬間を狙う。
「――貫いて!」
真っ白な光線が、突っ込んでくる機体へ直撃する。
正確。
致命。
装甲の中心を穿ち、機能を止める。
一機、墜落。
だが同時に別方向から衝撃波が放たれる。
避ける。
横へ転がる。
地面を蹴る。
紙一重。
爆風が背中を押し、さらに服が吹き飛ぶ。
破れた布片が宙に舞う。
露出した腕や脚に新たな傷が刻まれる。
赤が滲む。
「ーーっ」
また鼻血が伝う。
視界の端がじわりと暗くなる。
頭が痛い。
心臓が強く打ちつける。
全身の骨が軋むように悲鳴を上げている。
それでも――止まれない。
止まるわけにはいかない。
(倒さなきゃ)
(早く終わらせて……ミリイを迎えにいかなきゃ)
その思考だけが、かろうじて意識を繋ぎ止める。
残る敵は三体。
一瞬、視界が揺れる。
立ちくらみ。
足が崩れそうになる。
その瞬間――
敵の一体が距離を詰め、至近距離から攻撃体勢に入る。
反射的にベルは叫ぶ。
「アカリ! 弾いて!」
小指の指輪が強く光る。
ベルの前方に瞬時に光の壁が形成される。
衝撃。
攻撃が盾にぶつかり、軌道を逸らされる。
爆ぜず。
砕けず。
ただ、力が外へ流れる。
ベルはその防御の余波を利用して後方へ跳び、体勢を立て直す。
呼吸は荒い。
膝は震えている。
視線の先。
まだ動いている敵は――三体。
ベルは血に濡れた唇を拭い、
残りの回数を意識する。
【3】
「……あと三回」
声は小さい。
だが、瞳はまだ死んでいない。
ベルは呼吸を荒くしながらも、残る三体へ視線を走らせる。
距離。
軌道。
動きの癖。
二体がほぼ並ぶ瞬間を待つ。
足を滑らせるように位置を調整し、敵が射線上に重なる一瞬を作る。
「……今」
右手を構え、
指輪へ意識を集中させる。
「アカリ――」
光が指先へ収束する。
密度が増し、
細く、
鋭く、
一本の刃のように圧縮される。
「貫いてっ!!」
放たれた白光が一直線に走る。
軌道上に並んでいた二体の中心を同時に貫通。
抵抗を押し分けるように内部へ入り込み、
核心部を静かに破壊する。
二機、同時に落下。
ベルは即座に次の敵へ視線を向ける。
残るは――一体。
残り使用回数。
ベルは地面を蹴り、最後の敵へ向かって踏み込む。
距離が縮まる。
敵も突進してくる。
衝突の瞬間。
「アカリ!」
再び右手を構える。
光が集まり始める。
だが――
突然、全身に強い痙攣が走った。
視界が白く弾ける。
心臓が強く跳ね、
喉の奥から熱いものが込み上げる。
「っ……が……」
立ち止まる。
反射的に口元を押さえる。
赤が――溢れた。
吐血。
足元にぽたりと落ちる。
光が収束途中で乱れる。
制御が一瞬途切れ、
形成しかけた光線が霧散する。
「……っ」
残っていた一回分。
使えない。
いや――
今は使えなかった。
敵がその隙を逃さず距離を詰める。
鋭い突撃。
ベルは咄嗟に横へ転がる。
しかし反応が遅い。
肩を掠められ、
地面に叩きつけられる。
激痛。
息が詰まる。
立ち上がろうとするが、手が震えて力が入らない。
視界の端に、残りの回数表示が点滅する。
【1】
ベルは血に濡れた唇を歪める。
「……はは」
小さく笑う。
「一回……無駄にした」
最後の敵がゆっくりと振り向く。
距離は近い。
時間は短い。
回数は一。
ベルはゆっくりと身体を起こし、
震える右手を再び構えた。
――ラストシューティング。
空気が静まり返る。
ベルは最後の敵を正面から見据える。
距離は近い。
突撃。
逃げる時間はもうない。
残り使用回数――【1】
深く息を吸う。
「……ここ」
敵の突進速度が頂点に達する瞬間を、目で捉える。
真正面。
全力の質量がぶつかってくる軌道。
ベルは右手を――地面へ向けた。
「アカリ!」
叫ぶ。
「弾いて!!」
指輪が強く光る。
瞬間、ベルの目前に薄く、しかし強固な光の面が展開される。
敵の突撃が直撃する。
衝撃。
だが光の壁は“止めない”。
受け止めるのではなく――角度を与える。
力を殺さず、
方向だけを変える。
敵の加速エネルギーが、ねじ曲げられた軌道で跳ね返る。
反射。
突撃してきた巨体が、制御を失ったまま自分の力で空中を回転する。
「……!」
敵が自らの質量に振り回され、
装甲が内側から軋む。
光の壁は一瞬で消える。
ベルはそれを見届ける。
反射されたエネルギーが核心部へ再衝突。
内部から亀裂が走る。
爆発ではない。
崩壊。
巨大な影が静かにバランスを失い、
地面へ崩れ落ちた。
砂煙が舞う。
ベルはその場に膝をつく。
肩が激しく上下する。
残り使用回数――【0】
「……終わった」
かすれた声。
倒れた敵を見つめたまま、しばらく動けない。
静寂が戦場を支配した。
砂煙がゆっくりと薄れていく。
地面には、動かなくなった兵器の残骸。
完全沈黙。
ベルは膝をついたまま、しばらくその光景を見つめていた。
肩が大きく上下する。
呼吸は荒い。
視界はまだ揺れている。
指輪の光は――もう消えている。
残り使用回数【0】
静寂の中、
空間の中央にルーファスのホログラムが再び浮かび上がる。
彼は崩れ落ちた戦場と、血に濡れたベルをゆっくりと見下ろした。
数秒の沈黙。
「……評価を修正いたします」
落ち着いた、整えられた声。
「追加試験――完遂」
視線は静かだが、その奥に確かな観察の色がある。
「回数制限十回」
「制約下での戦闘持続」
「想定外の運用」
「――合格です」
その言葉が落ちた瞬間、
ベルの胸の奥に、重かったものがふっと軽くなる感覚が走る。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
合格。
その二文字が、ぼやけた意識の中でゆっくりと染み込んでいく。
ルーファスは続ける。
「戦術評価――高」
「生存評価――極限値」
一拍。
「ただし」
穏やかな声にわずかな注意が混じる。
「無茶は控えた方がよろしい」
それだけ言い残し、ホログラムは静かに消えた。
空間に残されたのは、倒れた敵の残骸と、
息をするベルだけ。
そして――
遠く、医療区画へ続く通路の向こうから、
走る足音。
「ベルさん――!!」
ミリイの声。
ベルの心臓が、さっきまでの激しい鼓動とは違う理由で強く跳ねる。
通路の奥から、小さな身体が駆けてくる。
包帯を巻いたまま。
まだ完全には治っていない足で。
ベルはゆっくり顔を上げる。
視界がぼやける。
それでも――
その姿だけは、はっきり見えた。
ミリイが勢いよく飛び込んでくる。
ベルの前で立ち止まり、
そして――
「……無事、ですか?」
震える声。
ベルは微笑む。
血と汗で汚れた顔のまま。
「うん」
短い返事。
それだけで十分だった。
ミリイの目に涙が浮かぶ。
ベルはかすれた声で付け加える。
「私が迎えに行こうと思ってたのに」
静かな戦場の中で、
二人だけの時間が、確かにそこにあった。
マリーナはベルの肩に手を置いたまま、
その疲れ切った横顔をじっと見つめる。
呼吸は荒い。
血は流れている。
だが――
戦闘中のあの瞬間を思い返す。
光。
貫通。
反射。
軌道の読み。
そして何より――
“理から外れたようなあの一撃”。
(……)
マリーナの瞳がわずかに細くなる。
胸の奥に、小さな違和感が芽生えていた。
――あの能力。
――あの光。
初めて見たときから、どこか引っかかっていた。
魔力ではない。
術式でもない。
計測不能。
解析不能。
そして今日、確信に近い感覚が生まれた。
(似ている……)
(いや)
(同じ、か?)
『魔王殺し』が戦闘で見せたあの不可解な現象。
世界の法則から一瞬だけ逸脱する力。
それと――
今目の前にいるベルが放った光。
性質が酷似している。
偶然か?
それとも――
マリーナの視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
しかしすぐに表情を整えた。
ベルに気づかれてはいけない。
今は問いただす時ではない。
(まだ断定はできない)
(だが……)
この違和感は、必ずどこかで繋がる。
彼女は静かに息を吐き、
いつもの落ち着いた顔に戻る。
「……やはり」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「ただの少女ではないな」
その言葉は疑念。
だが同時に――
強い興味と、わずかな警戒を含んでいた。
マリーナはベルの肩から手を離し、
一歩だけ距離を取った。
表情は平静。
だが――
胸の奥に残った違和感は消えていない。
彼女は視線を横へ滑らせる。
「マークス」
低く、しかし確実に届く声。
マークスはすぐに反応し、姿勢を正した。
「ハイ、警部」
マリーナは周囲に聞こえない程度の声量で続ける。
「……先ほどの戦闘」
一拍置く。
「どう思った?」
マークスは一瞬考え込む。
だが彼もまた、ただの観戦者ではなかった。
「正直に言えば――」
視線をベルへ向ける。
「違和感、です」
マリーナの眉がわずかに動く。
「続けろ」
「はい」
マークスは声を落とす。
「能力の発動そのものは異質でした」
「ですが、それ以上に気になったのは――」
「“質”です」
マリーナは黙って聞く。
「あの光、あの貫通、あの反射」
「魔術でも兵器でもない」
「なのに、理屈を超えて“結果だけ”を叩き出していた」
マークスの表情がわずかに険しくなる。
「……正直に言えば」
「『魔王殺し』が戦場で見せた現象に近い」
その瞬間。
マリーナの瞳が静かに細まる。
「やはり、お前もそう感じたか」
マークスは小さく頷く。
「偶然とは思えません」
「性質が酷似しています」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
マリーナは腕を組み、
遠くで息を整えているベルをじっと見る
マリーナは腕を組み、
遠くで息を整えているベルをじっと見る。
「……断定はできん」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「だが――」
再びベルを見る。
「調査対象には入れておくべきだ」
マークスは静かに同意する。
「了解しました」
マリーナは小さく息を吐いた。
疑念。
しかしそれは敵意ではない。
むしろ――
真実へ近づこうとする、職務としての視線。
彼女は最後に一言、低く呟く。
「ベル……」
「お前は何者だ」
マークスがふと口を開く。
「……やはり2人にはただの知り合い以上の関係が?」
マリーナの眉がわずかに動く。
その問いは冗談ではなく、観察から導かれた純粋な疑問だった。
彼女は一瞬だけ言葉を止める。
「……どうだろうな」
曖昧な返答。
だがその視線は、確かにベルとミリイの距離感を静かに測っていた。
その問いは、まだ本人には届かない。
マリーナとマークスが静かにベルを見守るその同じ空間。
だが――
彼らとは別の座標で。
評価試験の中枢管理領域。
淡い光に満ちたデータ空間の奥で、
ルーファスは戦闘記録を静かに閲覧していた。
彼の前には、無数の数値と軌跡が立体表示されている。
「……」
指先を軽く動かすたびに、
ベルの動きが時系列で再生される。
回避。
発動。
反射。
消費回数。
表示されたデータを一瞥し、
ルーファスは小さく息を吐いた。
「想定値を超えましたね」
低く、しかし感情を抑えた声音。
モニターには“能力出力:解析不能領域”と表示されている。
彼の瞳がわずかに細くなる。
(世界の理から逸脱する性質)
(観測不能)
(だが――確かに作用している)
静かな沈思。
指を軽く弾くと、ベルの“反射”の瞬間が拡大表示される。
敵の突撃。
光の壁。
軌道の変換。
「……美しい」
思わず漏れた独白。
それは称賛でもあり、
同時に警戒でもある。
彼は視線を上げ、空間の奥――
まだデータ化されていない“未知領域”を見つめる。
「魔王殺しと同質……」
「あるいは、それ以上か」
短く呟き、
しかしすぐに表情を整える。
「評価は合格」
「だが監視は継続」
静かに宣言すると、
彼の周囲の光は再び収束し、
管理空間は元の沈黙へと戻った。
ルーファスは静かに管理空間の奥へと歩みを進める。
周囲に浮かぶデータが一度収束し、
別の階層――より上位の接続領域へとアクセスが開かれる。
薄暗い空間の中心に、
漆黒の円環がゆっくりと展開する。
そこは“上”への通信回線。
ルーファスは姿勢を正し、
静かに声を発した。
「追加評価報告」
一拍。
「対象――ベル」
「能力性質は依然として解析不能領域」
「だが戦闘結果は想定を上回っています」
通信の向こう側。
沈黙。
圧のある静寂が数秒流れる。
やがて――
低く、年齢も性別も曖昧な声が返る。
『継続観察』
『干渉は最小限に』
ルーファスは目を伏せる。
「承知いたしました」
通信が途切れる。
黒い円環が静かに消滅する。
だが――
彼はその場を去らない。
数秒間、何かを思案するように立ち尽くす。
そしてゆっくりと顔を上げる。
「……直接確認するのが最も早い」
次の瞬間。
彼の身体がデータ空間から分解され、
現実空間の試験場へと転送される。
――ベルの背後。
空気が微かに揺れ、
静かにルーファスが姿を現す。
彼は距離を保ったまま、
ベルの背中を見つめる。
「ベル様」
落ち着いた声で呼びかける。
「少し、時間を頂いても?」
突然の直接接触。
その場の空気が一瞬で張り詰めた。
マリーナの視線が鋭くなり、
マークスも無意識に一歩だけ前に出る。
ルーファスはそれを認識しながらも、
微動だにしない。
「我々は提携関係にあります」
穏やかな口調で続ける。
「敵対する意図はございません」
「ただ――」
一拍。
視線はまっすぐベルへ。
「追加確認事項があります」
「次段階の適性評価を、提案させていただきたい」
静かな宣告。
試験は終わったはずだった。
だが――
ここで“新たな局面”が始まろうとしている。
ルーファスの言葉が静かに落ちる。
「次段階の適性評価を、提案させていただきたい」
その瞬間――
マリーナの表情が一段と険しくなる。
「待て」
鋭い声。
一歩前へ。
「評価試験は先ほど終了したはずだ」
「追加だと?」
視線は冷たい。
「ベルは既に限界に近い」
ルーファスは落ち着いたまま答える。
「承知しています」
「だからこそ、今の状態でのデータ取得に価値があります」
マリーナの眉がぴくりと動く。
「データ?」
「貴様……彼女を実験対象としか見ていないのか」
空気がさらに張り詰める。
その横で――
ミリイが小さく息を吸う。
そして一歩前へ出た。
「……やめてください」
震えている。
だが目は逸らさない。
「ベルさん、もう十分戦いました」
「これ以上は……危険です」
その声には強い意志が宿っていた。
ルーファスはミリイへ一瞬だけ視線を向ける。
「安全基準は満たしています」
淡々とした返答。
しかし――
ミリイは一歩も引かない。
「基準とか、数値とかじゃありません」
「ベルさんの体は……もう限界です」
静かながらも、確かな拒絶。
マークスも隣で腕を組み、低く言う。
「ルーファス殿」
「提携関係とはいえ、強制権はないはずです」
三方向からの圧。
ルーファスはわずかに目を細める。
(……想定以上の反発)
だが――
その視線の先。
ベルがゆっくりと顔を上げた。
呼吸は荒い。
血の跡。
疲労。
それでも――
その瞳はまだ死んでいない。
ルーファスが口を開きかけた、その瞬間。
ベルが一歩前へ踏み出す。
そして――
「もうっ!」
小さく、しかしはっきりとした怒り混じりの声。
「さすがに」
「いいかげんにしてよね!」
肩で息をしながら、
ルーファスを真正面から睨む。
「試験? 評価? 追加?」
「こっちは今、命かけて戦ったばっかなんだけど!」
指でルーファスを軽く指差す。
「ちょっとは休ませなさいよ!」
声は荒い。
でも――
その中には“まだ倒れていない意地”がある。
空気が静まる。
マリーナもミリイも、
驚きながらも――どこか安心したような表情を浮かべる。
ルーファスは一瞬だけ沈黙し、
そして――
ほんの僅かに口元を緩めた。
ベルの怒声が響いたあと。
空気がわずかに緩む。
ルーファスは数秒、ベルをじっと見つめていた。
やがて――
「……いいでしょう」
あっさりと。
その声には敵意も執着もない。
ただ合理的な判断のみが存在している。
「今回の追加評価提案は撤回します」
マリーナの眉が跳ね上がる。
「何?」
ルーファスは静かに続けた。
「それでは――ここから先は」
一歩、横へ身体をずらす。
視線がベルの背後へと移る。
「彼にお願いします」
その言葉に、
マリーナの目が鋭く細まる。
「ちょっと待て」
低く、警戒を含んだ声。
「まさか貴様――」
ルーファスはわずかに首を傾ける。
そして淡々と答えた。
「ええ」
「“魔王殺し”本人と」
その単語が空気を震わせる。
マークスの表情が硬直する。
ミリイの指がベルの袖を強く握る。
ルーファスは続ける。
「元々、私が最初に協力関係を結び」
「提携を交わしたのは――彼です」
一拍。
「今や『魔王殺し』と呼ばれる存在と」
静かに告げる。
マリーナの思考が一瞬で回転する。
(……やはり)
(この男、すでに接触済み)
ルーファスはベルへ視線を戻す。
「つまり選択権は返します」
「続行するか」
「拒否するか」
その声は強制ではない。
だが――
逃げ道を与えつつ、中心へ引き戻す圧がある。
空気が再び張り詰めた。
ミリイは不安を抑えきれず、
「ベ……ベルさん……」
小さく声を震わせながら、
そのままベルへと駆け寄り、ぎゅっと抱きついた。
ベルの胸元に顔を埋めるようにして、
離れない。
ベルは一瞬だけ驚いた表情を浮かべるが、
すぐに目を細める。
そっと右手をミリイの頭へ置き、
優しく、ゆっくりと撫でた。
「大丈夫よ」
穏やかな声。
「心配しなくていい」
ミリイは抱きついたまま、顔を上げる。
涙が少しだけ滲んでいる。
ベルはその視線を真っ直ぐ受け止める。
そして――
「いいんじゃないかしら?」
少しだけ挑発するような、しかし確信を含んだ口調。
その言葉にマリーナの肩がピクリと震える。
ベルはミリイを撫でながら続けた。
「でも私、今日のことはアイツに言うからね?」
その瞬間。
マリーナの表情がわずかに強張る。
ベルの唇が、ほんの僅かに笑う。
「私の予想通りなら」
「今日の話を聞いたら、きっとむちゃくちゃ怒るわよ」
「知らないんだから」
静かな宣言。
それは冗談半分ではない。
“あの存在”がこの状況を知った時の反応を、
ベルは確信に近い感覚で理解している。
マリーナは短く息を吐く。
そして低く、静かに口を開いた。
「……私も」
「彼に初めて会った時、同じ理由で怒っていた」
視線はベルに向けられている。
あの時の記憶。
守ろうとした。
止めようとした。
だが結局――衝突した。
マリーナは続ける。
「おそらく」
「次はないと思う」
その言葉には警告が含まれている。
次に同じ事態が起きれば、
今度は本当に“線”が引かれる可能性。
空気が一瞬だけ重くなる。
だがベルはミリイを抱いたまま、
静かに頷いた。
「だからこそ」
「ちゃんと伝えるのよ」
その声には覚悟が混じっていた。
ベルが「ちゃんと伝える」と告げたその空気の中、
ルーファスは静かに目を細めた。
数秒――思案。
そして、軽く息を吐く。
「……交渉決裂ですね」
落ち着いた声。
怒りも、苛立ちもない。
ただ事実を受け入れる響き。
「ここは引きましょう」
マリーナの眉がわずかに動く。
「引く、だと?」
ルーファスは視線をベルへ向けたまま続ける。
「ええ」
「今回はこれ以上の干渉は控えます」
一拍。
「しかし――諦めたわけではありません」
その言葉に、空気が僅かに張り詰める。
マークスの目が鋭くなる。
ルーファスは穏やかな表情のまま、
ゆっくりと一歩下がった。
「私は私のやり方で」
静かに宣言する。
そして――
ベルへ向けて、丁寧に一礼した。
深すぎず、しかし形式的でもない。
敬意と観察と――
確かな“意志”を込めた礼。
「本日の評価、記録いたしました」
「次にお会いする時までに、より精度を高めておきます」
身体が薄く光に溶ける。
転送の兆し。
最後に一言。
「どうか――ご自愛を」
そしてルーファスの姿は静かに消えた。
残されたのは、
緊張が少しだけ緩んだ空気と、
まだ終わっていない物語の余韻。




