ー『魔王殺しベル・ジット』
朝の静けさに包まれた王都の通りは、まだ活気づく前の穏やかな空気を漂わせていた。
ミリィがまだ宿屋の部屋で眠っている間、ベルは一人で静かに身支度を整えて部屋を出た。首に巻いたスカーフと腰のベルト以外、身に纏う旅装は全身を黒で統一した、どこか男装のようにも見える落ち着いた出で立ちだった。
(……魔王殺し)
昨夜、ルーファスから突きつけられた異名。そして、それが今どれほどの規模で広まっているのか。その実態をこの目で確かめるため、ベルは王都の情報が集まる場所へと足を向けた。
目的地は冒険者ギルド。
通りを歩く市民たちはまだ日常モードのままで、道行く誰もが「魔王殺し」の名を大声で口にしているわけではない。しかし、その足取りの先にある木と石で造られた重厚な建物の中からは、すでに早朝特有のざわめきが漏れ聞こえていた。
ベルはギルドの扉の前に立ち止まり、軽く息を整える。
(ここで情報を確認する。噂の広がり方を直接見るのよ)
扉を押し開けて中へ入ると、掲示板の前で依頼を確認する冒険者たちの姿や、カウンターで手続きに追われる職員たちの忙しない様子が飛び込んできた。
何人かの視線がふとベルの方へ向く。
「……新人か?」
「へぇ、綺麗な子だな」
「冒険者なのか?」
だが、誰もそこに異常な存在を見出す者はいない。ただの「目を引く旅の少女」として見られているだけだ。ベルは周囲の視線を適度にいなしながら、真っ直ぐ受付へと歩み寄った。
カウンターの向こうで顔を上げた受付職員は、一瞬だけ目を丸くした。
(かわいい……それに、かなり華奢だな。最近はこういう若い冒険者も増えたものだけど……)
そう内心で思いつつも、職員はプロの笑みを浮かべて声をかけた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
ベルは静かに、しかしはっきりとした口調で切り出す。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
職員の表情がわずかに引き締まる。情報関連の相談だと察したのだろう。
「最近、『魔王殺し』っていう名前……有名なの?」
その問いに、職員は少しだけ迷うように視線を動かして指し示した。
「その件でしたら……あちらをご覧ください」
ベルが視線を向けた先には、ギルド内の壁一面に貼り出された情報共有用の大きな掲示板があった。
「ありがと」
小さく礼を言い、ベルは足早にその掲示板の前へと歩み寄る。
そして──そこに貼られたばかりの、真新しい一枚の紙に目が釘付けになった。
大きく書かれた文字。
WANTED
その下に記されている名。
『魔王殺し』
ベル・ジット
ベルの表情が一瞬で凍りつく。さらにその下には、特徴的な銀髪をなびかせた少年の似顔絵がハッキリと描かれていた。
ベルの目が驚きで見開かれる。
周囲にいた冒険者たちも、その掲示に釣られるようにざわめき始めた。視線が手配書へと集中する。
ベルは掲示板の前に立ったまま、じっともう1人の自分の姿を見つめ、やがて小さく息を吐き出した。
「もうこんなことになっちゃってるんだ……はぁ」
小さくため息をつきながら、額に手を当てる。
「ちょっとこれ、どーすんのよ……」
「今朝早く、上層から正式に発行されたものです」
背後から近づいてきた受付職員が、静かに説明を加える。
「対象は危険度特級。接触時は即座に報告する義務が定められています」
ベルは振り返らず、低い声で呟く。
「……へぇ」
王都の壁に、自分がよく知る人物の似顔絵が堂々と晒されている。情報は明確に“敵”として一般に公開されていた。
さらに下へ目を凝らすと、そこには賞金額が記されていた。
10万G
「……へぇ」
思わず小さな声が漏れる。
(10万G……そんなに価値がついてるの?)
少しだけ眉を寄せ、困ったような笑みを浮かべる。恐怖というよりは、あまりのスケールの大きさに現実感を失っているような反応だった。
その背後から、見知らぬ男の冒険者が声をかけてきた。
「なぁ」
ベルが振り返ると、男は手配書を指差しながら続ける。
「これ、出たばっかなんだよ。お前も見に来たのか?」
「うん、ちょっと気になって」
男は手配書を見つめ、腕を組みながら首を傾げる。
「魔王殺しってさ、もっとこう、化け物みたいな奴かと思ってたけど……」
視線が一瞬だけ目の前の少女に向き、すぐに戻る。
「絵を見る限り、意外と……普通っぽいな」
その言葉に、ベルは思わず目をパチクリとさせた。
(え? 普通……?)
褒められているのか貶されているのか判断に迷いつつも、男に悪意がないことは伝わってきた。ベルは軽く肩をすくめて笑ってみせる。
「それって、いい意味?」
「さあな。でも、1000Gの賞金目当てで変に近づく奴は絶対出るぞ。気をつけろよ」
「ありがと」
男に礼を言い、ベルはもう一度手配書へと視線を戻した。
壁に貼られた、銀髪の少年という“別の姿”。自分自身であるはずなのに、どこか遠い他人のように見える。
(ほんとに……狙われる立場になっちゃったんだ)
胸の奥に、かすかな緊張のざわめきが生まれた。
その時、先ほどの受付職員が声をかけてきた。
「ベルさん、少しお話があります」
名前を呼ばれ、ベルは振り返る。
「はい?」
職員は掲示板を一瞥してから、静かに促した。
「こちらへどうぞ」
嫌がる様子も見せず、怖がることもなく、ただ状況が動いたことを理解した顔で、ベルは職員の背中について歩き出した。
◇
ギルドの奥にある個室。
重い扉が静かに閉じられると、外の喧騒はすっきりと遮断された。部屋の中には簡素な机と椅子が一組あるだけで、外部の目を完全に避けるには十分な空間だった。
ベルは椅子に腰を下ろすと、小さく息を吐いた。
「それで……話ってなに?」
職員は誰も近づいていないことを確認すると、机の引き出しから一枚の公式文書を取り出して差し出した。
「先ほどの手配書の件です。これは上層から正式に共有された内容の控えです」
ベルは紙を受け取り、そこに書かれた文字を目で追う。
『魔王殺し』
危険度:特級
接触時は即報告・単独接触禁止推奨
事務的で冷徹な文字の羅列。
ベルは小さく眉をひそめた。
「本気で、完全に敵扱いなんだね……」
職員は淡々と説明を続ける。
「表向きは危険な警戒対象ですが、実質的には監視対象に近い扱いです。そして現在、あなたはその『関係者』として見なされています」
ベルは顔を上げた。
「……関係者?」
職員は頷き、今度は机の上に周辺地域の地図を広げた。そこには赤い印がいくつも付けられている。
「銀髪の個体が観測された地点と、あなたが移動してきた経路が一致しています。つまり、ギルド上層の判断では、あなたは魔神殺し本人ではないものの──」
一拍置き、職員ははっきりと言った。
「魔王殺しと行動を共にしている、あるいは非常に近い立場にある人物、そう認識されています」
一瞬固まった後、ベルは仕方のなさそうに肩をすくめた。
「へぇ……関係者ね」
外から見れば、黒髪の少女は「魔王殺しの仲間」ということになる。本人そのものではないというその微妙な距離感が、今は奇跡的に彼女の身を守る防壁になっていた。
「だからこそ、あなたを通して魔神殺しへ接触しようとする勢力が必ず出てきます」
職員の言葉に、ベルの目が細くなる。
「私を利用して、あいつに近づこうとするってこと?」
「はい。あなたが現在、最も近い『窓口』ですから」
部屋の空気がわずかに重くなる。しかしベルは椅子の背もたれに体を預け、面倒臭そうにため息をついた。
「ほんと、めんどくさいなぁ……」
その声に怯えの色はない。職員はさらに一枚の紙を差し出した。
「これが追加の裏情報です。王都内で動く不審な資金の流れ、怪しい商人たち、そして貴族との接触記録。魔神殺しの名を利用して裏で動く影の痕跡があります」
ベルはその資料をじっと見つめる。
(私の名前や噂を利用して、誰かが裏で勝手なことやってるんだ……)
無意識に拳がわずかに握りしめられるが、すぐに力を抜いた。
「……まあ、いいわ」
ベルは資料から視線を離し、静かに言い放った。
「向こうが利用する気なら、こっちも逆に利用してやるまでよ」
職員はわずかに目を見開いた。少女の纏う雰囲気に、静かだが確かな強さが宿っているのを感じたからだ。
外から見ればただの“関係者”。だが、ベルはその立場すらも自分の戦略へと変えるつもりだった。
机の上の資料を見つめていたベルは、やがて顔を上げると、まっすぐな目で職員を見据えた。
「でも──これだけは言わせて」
職員が視線を向ける。
「何の根拠も証拠もないけどさ。私はそんな『魔神殺し』なんて知らない。見たことも、聞いたことも、ましてや会ったこともないわ」
言葉は滑らかで、迷いは一切ない。
だが、それは完璧に構築された嘘だった。本人だからこそ、矛盾なく言える完璧な否定工作。
職員はその言葉を静かに受け止め、小さく頷いた。
「……記録しておきます。現時点では、あなたが『魔神殺し』本人と直接接触した事実は確認されていない、と」
明確な表現。黒髪の少女と、手配書の銀髪の少年は別行動として扱われている。
ベルは内心で小さく胸をなで下ろした。
(よし……今のところ、ちゃんと線は引かれてる)
「しかし、接触の可能性がある人物として監視対象から外れることはありません。今後、あなたへ接触を試みる者が増えるはずです。その際は即座にギルドへ報告を」
「わかった」
短い返事だが、王都の中で何かが確実に動き始めていることを、ベルの肌はヒリヒリと感じ取っていた。
資料をまとめかけていた職員が、ふと動きを止めた。そして、少しだけ探るような目を向けて口を開く。
「個人的に……ひとつお伺いしてもよろしいですか?」
「いいわよ、何でも聞いて」
職員は静かに問いかけた。
「あなたと『魔王殺し』……どちらも『ベル・ジット』という名前ですが、これは偶然ですか?」
空間の温度がわずかに下がったような気がした。
ベルの表情は一切崩れない。口元も、目線も、完璧に制御されていた。
だが、心臓は激しく跳ね上がっていた。
(やばっ……なんでそこ突いてくるのよ……!)
鼓動の音が耳の奥でやけに大きく響く。
(聞こえてないよね? このドキドキ、バレてない……?)
喉の奥がカラカラに乾く。一瞬でも言葉に詰まればすべてが終わりだ。
ベルはゆっくりと息を吸い込み、何事もないかのように答えた。
「もちろん、偶然よ」
声はどこまでも落ち着いていて、不自然な揺れはない。
だが、それは真っ赤な嘘だ。名前が同じなのは、彼女自身がその本人だからに他ならない。しかし、その真実をここで明かすわけにはいかない。
職員はベルの顔をじっと観察し、嘘の兆候を探るように数秒間沈黙した。
やがて、納得したように小さく頷く。
「……承知しました」
それ以上深くは追及しなかった。だが、職員の心の中には“完全な偶然ではないかもしれない”という疑念の種が静かに植え付けられた。
ベルは内心で冷や汗を拭いながら、平静を装う。
(……危なかった。いきなり普通に核心ついてくるじゃない……)
それでも表情を崩さず、軽口を叩いてみせる。
「他に何か気になることでもあった?」
「いえ、確認です」
その瞬間、部屋のドアが控えめにノックされた。
ベルの背筋がわずかに強張る。職員が扉に視線を向け、「はい」と声を返す。
外から返ってきたのは、低く落ち着いた男の声だった。
「緊急ではないが、確認したい件がある」
職員が扉を開けると、そこに立っていたのはギルド職員ではなく、上質な旅装に身を包んだ一人の男だった。ただ者ではない立ち振る舞いから、一目で一般の冒険者ではないことがわかる。
男は部屋の中を一瞥し、ベルの姿をとらえて足を止めた。
「……こちらが、魔王殺しの『関係者』か」
(来た……)
ベルの胸がわずかに跳ねる。
職員が間に入るように告げる。
「彼女は現在、事情聴取の最中です」
男は頷き、淡々と用件を切り出した。
「上層からの指示だ。接触希望者として私が来た」
ベルはわずかに目を細める。
「接触……?」
男は一歩、部屋の中へ足を踏み入ると、重い口を開いた。
「魔王殺し本人への直接接触は極めて困難な可能性を考慮してー、あなたを経由してやりとりさせて欲しい」
その言葉の持つ意味は重かった。彼女は明確に「利用価値のある窓口」として見られている。
ベルはゆっくりと立ち上がり、表情を崩さずに問いかけた。
「私を通して、何をするつもり?」
男は静かに答える。
「提案だ。あの男に伝えてほしい。王国と敵対する意思がないのなら、条件付きで接触の場を設ける、と」
(接触の場? 罠か、それとも本格的な交渉の打診?)
即答を避け、ベルはゆっくり息を吸うと、あえて曖昧に返した。
「……考えておくわ」
男はその返答に不満の色を見せず、小さく頷いた。
「返答期限は明日までだ。以上だ」
それだけ言い残すと、男は背を向けて部屋を去っていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
ベルはその場に立ったまま、小さく息を吐き出した。
(……とうとう、外から直接アプローチが来たか)
状況は単なる“疑い”の段階を抜け出し、本格的な“交渉”のフェンスへと移行していた。彼女の立場は、単なる関係者から政治の駆け引きの駒へと変わりつつある。
男が去った後、ベルはふと思い出したように口を開いた。
「ねぇ」
「はい?」
「さっきのルーファスって人、あの人と何か関係あるの?」
職員の表情がわずかに強張る。
「ルーファス……どのルーファスでしょうか?」
「貴族っぽい感じの人。ギルドにも出入りしてるって聞いたけど」
職員は数秒考え、慎重に言葉を選んで答えた。
「おそらく、今回の接触提案を出した側とは別の立場と思われます」
「別?どういうこと?」
「ええ。彼は王国上層と貴族派の間をうまく調整する立場にいます。今回の接触者とは、利害が一致していても完全な同一陣営ではありません」
(つまり……王都の中ですら、いくつもの派閥や思惑が割れてるってことね)
職員はさらに言葉を重ねる。
「ルーファスは魔神殺しを『政治的に管理可能なカード』として扱おうとしています。敵にも味方にも転ばせられる存在として、ですね」
自分の存在が、巨大な権力闘争のカードになっている。悪い気はしないが、いい気もしない。完全に誰かの掌の上で踊るつもりなど毛頭なかった。
ベルは少し考え、職員に視線を向けた。
「じゃあさ。もし私がそのルーファスと直接話したら、どうなると思う?」
「あなたの立場はさらに明確になります。『関係者』から、『実際の交渉主体』へと昇格するでしょう」
一段階上の危険な領域へ踏み込むことになる。同時に、責任も重くなる。
だが、ベルはふっと不敵に笑った。
「面白そうじゃん」
(利用されるくらいなら、こっちも存分に利用してやるわ)
彼女の中で、次の手はほぼ固まりつつあった。
ルーファス。そして先ほど個室を訪れた別の男。二つの存在を頭の中で切り分け、ベルははっきりと告げたね。
「ねぇ」
「何でしょうか?」
「さっきノックして入ってきたあの男……もう一回、機会を作ってよ」
職員の眉がわずかに動く。
「接触希望者との再面談ですね」
「そう。彼とちゃんと話がしたい」
ルーファスではなく、あの場で独自の「提案」を持ってきた側の人物。別陣営の意図を直接探るためだ。
職員は手元の資料を確認しながら頷いた。
「分かりました。正式な申請を行えば、こちらから連絡を取ることは可能です」
「じゃーそれで、お願い」
迷いはなかった。
職員は紙にペンを走らせながら言う。
「相手側へ、『関係者が再面談を希望している』と伝達します」
「よろしくお願いします」
ベルは小さく息を吐いた。
あの男は魔王殺しを交渉の道具にしようとしている。ならば直接対話して、その裏にある本当の意図と条件を引き出してやればいい。
「日時は向こうの都合次第になりますがよろしいですか?」
「構わないわ。来るなら受けて立つ」
職員は最後に確認するように告げた。
「当日はギルドから最低限の護衛を付けますが──」
ベルは即座に首を横に振った。
「いらないわ」
職員が目を細める。
「危険ですよ?」
ベルは軽く肩をすくめて笑った。
「私が一番危険かもしれない人物なんでしょ?[
冗談めかした口調だったが、そこには揺るぎない自信があった。職員はしばらく迷った末に、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりました。ただし、何か異常があれば即座に撤退を」
「わかってる」
◇
数時間後。
個室で待機していたベルの元へ、受付職員が再び戻ってきた。その手には一枚の封書が握られている。
「連絡が来ました」
「早いじゃん」
職員が封筒を開け、中の手紙を取り出す。そこには簡潔な文字でこう記されていた。
* 再面談を承諾する。
* 日時:明日・正午。
* 場所:王都南区・旧倉庫街。
ベルはその指定された場所を目にして、わずかに目を細めた。、
「倉庫街……?」
「人目が極めて少ない区域です。王都の警備監視網も届きにくい場所ですね」
職員の補足を聞き、ベルは紙を指で軽く叩いた。
「ふーん。隠れてこっそり密談するつもりってわけだ」
「相手は非常に慎重です。同時に……あなたの度胸や立場を試している可能性もありますね」
ベルは楽しそうに片口角を上げた。
「いいわよ。試されるなら、喜んで受けて立つわ」
迷いはない。むしろ、自分の“関係者”としての立ち位置がどこまで通用するのか、相手の真意はどこにあるのかを直接確かめられるまたとない機会だった。
「当日は気を付けてください」
職員の忠告を背に受けながら、ベルは明日へ向けて静かに闘志を燃やす。
王都の水面下でうごめく複数の思惑。その中心で、少女は自らの意思で一歩を踏み出そうとしていた。




