最初で最期の姫神ー
夜。
静かな部屋に、銀髪の少年が入ってくる。
いつも通り、何かを言っている。
動きは大きく、表情もよく変わる。
けれど、今日は——
その声を聞く余裕がない。
体に力が入らない。
指一本、うまく動かせない。
視界がぼやける。
思考も定まらない。
それでも、胸の奥には一つだけ、はっきりと残っているものがある。
生きたい。
死にたくない。
その二つだけが、何度も何度も繰り返される。
言葉にはならない。
それでも、頭の中で強く響いている。
やがて、少年がベッドのそばに来る。
声をかけてくる。
けれど、何を言っているのかは分からない。
それでもいい。
伝えられなくてもいい。
ただ——
誰かに聞いてほしい。
最後に、自分が何を思っているのかを。
少女はわずかに手を動かす。
震える指先が、少年の服の裾を掴んだ。
力は弱い。
それでも、確かに掴んでいる。
「……死にたく、ない」
かすれた声が、ようやく形になる。
少年が、はっとして少女を見る。
目が合う。
「……もっと……生きたい……」
言葉が途切れながら、続く。
「……時間が……欲しい……」
頬を、涙が静かに伝っていく。
少年は、真剣な表情でその言葉を受け止めている。
何を言っているのかは、分からないかもしれない。
それでも。
この気持ちは、きっと届いていると信じて。
少女はただ、掴んだ手を離さなかった。
少年の手が、少女の手をそっと握り返す。
強くもなく、弱くもなく、しっかりと。
その温もりが、指先からじわりと伝わってくる。
暖かい。
人の手は、こんなにも暖かいのか。
冷え切っていた体の中に、その感覚だけが静かに残る。
言葉は通じていない。
伝わったのかどうかも分からない。
けれど——
それはもう、どうでもよかった。
ただ。
この気持ちを、誰かに伝えられた。
それだけで、十分だった。
少女はゆっくりと目を閉じる。
少年の手の温もりを感じながら、意識が静かに沈んでいく。
安らぎに包まれながら、少女は眠りに落ちた。
少年が少女の手を強く握り、何かを必死に伝えようとしている。
その表情は真剣で、切実で、必死だった。
言葉は分からない。
何を言っているのか、まったく理解できない。
それでも——
その顔から伝わってくるものがあった。
ごめんね。
わからない。
でも。
それでも、何かが伝わってくる。
少女は小さく、コクリと頷いた。
それを見た少年の表情が、一瞬でほどける。
安堵したように、やわらかく笑った。
その笑顔を見た、その瞬間——
視界が、強い光に包まれた。
すべてが、白く染まっていく。
部屋に入った少年は、すぐに気づいた。
少女の呼吸が、もう弱い。
目を開けていても、その奥に意識があるのか分からない。
それでも——もう、長くはない。
その事実が、はっきりと伝わってくる。
胸の奥が締めつけられる。
笑顔を作ることもできない。
ただ、少女のそばに立つ。
そして、ずっと考えていた言葉を、口にする。
何を言っているか、分からないかもしれない。
それでも。
伝わると信じて。
「なぁ……」
「俺に名前をつけさせてくれないか?」
「お前には、お前の名前があるんだろうけど」
少年は一度、言葉を区切る。
まっすぐに少女を見る。
「きっと、それで……」
「お前の願いが叶う」
「お前は……もっと、生きたいんだろう?」
沈黙の中で、静かに言葉が続く。
「だったら……」
「俺の姫神になれよ」
その言葉が、部屋に静かに落ちる。
言葉は通じない。
それでも、少年は諦めなかった。
同じ言葉を、何度も、何度も。
身振りを交えながら、少女の目を見て、真剣に伝え続ける。
一度では伝わらない。
二度でも、三度でも足りない。
それでも、止めない。
伝わるまで、繰り返す。
部屋の中に、静かな時間が流れる。
やがて——
少女が、わずかに反応した。
ゆっくりと、かすかに。
小さく頷く。
言葉の意味は分からない。
それでも。
その思いは、確かに伝わった。
少年の表情が、ふっと緩む。
ようやく、笑顔が戻る。
それは、心からの安堵の笑顔だった。
少年はいつものように少女へ語りかける。
「じゃあまず、お前に名前を付ける」
「言葉通じないから、お前が何をどうしたいかは分からないけど……まぁなんとかなるだろ!」
握った手はそのままに、少年は立ち上がる。
まっすぐに少女を見る。
「もうなんとなくイメージで決めて来たんだ」
「お前の名は——キザミだ」
その瞬間。
ベッドに横たわる少女が、光に包まれる。
やわらかな光が、静かに満ちていく。
そして——
ふわりと、その身体がベッドの上から浮き上がった。
光の中で、少女の輪郭が揺らぐ。
何かが、静かに変わろうとしていた。
キザミの身体が、ゆっくりと光に包まれていく。
浮かび上がったその姿は、以前と何も変わらない。
16歳ほどの小柄で華奢な少女。
肩までの黒髪。
黒い瞳。
黒いセーラー服。
けれど——
その背後に、巨大な光の文字盤が現れる。
淡く輝く円形の盤面。
無数の目盛りと、長針と短針。
それが、ゆっくりと、逆へと動き始めた。
カチ、カチ、と。
時間が巻き戻るように、針が逆再生していく。
それに呼応するように、キザミの身体にも変化が現れる。
荒れていた肌が、静かに整っていく。
汚れが、跡形もなく消えていく。
消耗していた痕跡が、ひとつずつ巻き戻されるように消えていく。
まるで時間そのものが、彼女の身体から引き戻されていくように。
そして——
その瞳の奥に、新たな輝きが浮かぶ。
もう一つの文字盤。
小さな、しかし確かな“時間”の象徴。
キザミの存在が、静かに、しかし確かに変わっていく。
やがて、光が静かに収束していく。
浮かんでいたキザミの身体が、ゆっくりと床へと降りてくる。
小柄で、華奢な身体。
黒髪を揺らしながら、まっすぐに少年を見上げる。
少年は目を瞬かせる。
「見た目は変わらない……のか」
その言葉に、キザミはふと首をかしげる。
そして、小さく口を開いた。
「あれ……?」
声に、違和感がない。
「言葉……わかるかも……」
初めて、意味のある言葉として、自分の中に届く感覚。
これまで分からなかった音が、はっきりと“意味”として繋がっていく。
キザミは、ゆっくりと自分の手を見る。
そして、もう一度、少年を見上げた。
キザミは、少し不思議そうに目を瞬かせる。
「あ、あー……ボクの言葉、わかる?」
少年は一瞬固まってから、ぱっと顔を輝かせる。
「あ!わかる!わかるぞ!」
その瞬間、二人は同時に笑顔になる。
張りつめていた空気が、ふっとほどける。
言葉が通じるようになったことで、改めて向き合う二人。
少年が自己紹介をする。
応えて、キザミも穏やかに口を開く。
「やっと、お互い誰だかわかって……安心するね」
「初めまして。ボクはキザミ」
「君がくれた、新しいボクの名前……」
その言葉の途中で。
キザミの瞳の奥に浮かんでいた時計の文字盤が——
ゆっくりと、正回転を始めた。
カチ、カチ、と。
最初は静かに。
やがて、少しずつ速く。
その動きに引かれるように、キザミの視線が宙へと向かう。
少年はその様子に気づき、眉をひそめる。
「なんだ……ぼーっとして、どうしたんだよ?」
時計の針は、さらに速く回る。
そのまま、やがて——
ぴたりと止まった。
一瞬の静寂。
そしてキザミは、小さく息を吐く。
「そっか……そういうことなんだ……」
「わかった。理解したよ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
そして改めて、少年を見た。
静かに、頷く。
少年はその様子に不安を覚える。
「どうした?調子悪いのか?」
心配そうな声。
それに対して、キザミは柔らかく微笑む。
「何も心配いらないよ」
「ボクは絶好調だよ」
少しだけ、間を置いて。
「そして安心して」
「ボクがいる限り——もしもの時でも、大丈夫」
少年は肩をすくめるように笑いながら、手を差し出した。
「なんかよくわかんねぇけど……なんか、よろしくな!」
キザミは一瞬だけ、その手を見る。
次に、少年の目を見る。
そして、そっとその手を握り返した。
「よろしく。そして、ありがとう」
握った手から伝わる温度に、わずかに表情が和らぐ。
「ボクに時間をくれて、このもらった時間を大切にするよ」
少年は軽く笑って肩をすくめる。
「気にするなよ」
「キザミが何を願ったのか、俺にはわかんねぇけど……」
「それは俺の願いでもあるんだから」
キザミは少しだけ目を細める。
「……ふぅん、そっかぁ……なるほどね」
ほんのわずかに間を置いて、静かに続ける。
「でも感謝してるのは本当」
そのまま、ふと視線を宙へと向ける。
「いつか、この恩は返すからね」
少年は苦笑する。
「大袈裟だな、もっと気楽にしてくれよ」
キザミは小さく頷き、にこりと笑う。
「ありがとう。それじゃ指輪になろっかな」
軽く背伸びをした、その瞬間——
少年がコートを脱ぎ、キザミの肩にそっと掛ける。
キザミはきょとんとした顔で少年を見る。
少年は少しだけ視線を逸らしながら言う。
「なんか、寒そうだから、それやるよ」
キザミはコートの裾をぎゅっと胸の前で合わせる。
そして、その中に顔を埋める。
温かい布の感触と、残る体温。
頬が、ほんのりと赤く染まった。
「……ありがと」
少女がそっと少年へ近づく。
少しだけ背伸びをして、頬に軽く口づける。
触れたのは一瞬。
それでも、確かな感触が残る。
少年は目を見開いたまま固まる。
驚きに、言葉が出てこない。
少女は少しだけ距離を取り、上目遣いで少年を見る。
耳まで赤く染まっていた。
そして、はにかむように微笑む。
「これは……コートのお礼、だよ」
少年は頬を押さえたまま、ゆっくりと笑みを浮かべる。
言葉にならないまま、ただ嬉しそうに。
その瞬間——
キザミの身体が、静かに光に包まれる。
光は淡く、やがて輪郭が揺らぎ始める。
身体の形が、少しずつ曖昧になっていく。
そして光は、次第に収束していく。
小さな一点へ。
それはやがて少年の親指へと宿り——
ひとつの指輪の形へと変わった。
同時に、少年の頭の中に声が響く。
「——ごめんね」
「ボクは姫神としては、何もできないけど……」
「役立たずなんて思わないで」
少しだけ間を置いて。
「いつか必ず——」
「その時が来たら、ボクが助けてあげる」
「約束するよ——」




