助け出されたもののー
少女の顔が、はっきりと見えた。
長い黒髪。
明るく、優しそうな表情。
その顔が、目の前にある。
何日も、誰にも会わなかった。
何も聞こえない森の中で、ただ一人で彷徨ってきた。
その中で、ようやく——人に会えた。
横たわった少女が、わずかに手を伸ばす。
力はほとんど残っていない。
それでも、届いてほしいと願うように、指先が震える。
その手を、目の前の少女が取る。
しっかりと、握りしめられる。
温かい。
人の温度。
触れた瞬間、現実が少しだけ戻ってくる。
「……あ……」
声にならない息が漏れる。
やっと。
やっと、人に会えた。
少女の手に力が入りきらなくなり、指先から少しずつ温もりが抜けていく。
握られていた感触が、わずかに弱まる。
明るく優しい表情の少女が、何かを言っている。
言葉は分からない。
それでも、すぐそばに人がいるという事実だけは確かに感じられる。
安心したような感覚が、胸の奥に広がる。
それと同時に、意識が遠のいていく。
視界が揺れる。
音が薄れていく。
「……あ……」
かすかな息だけが漏れ、体の力が抜けていく。
握っていた手の感覚が、ゆっくりと離れていく。
少女はそのまま、静かに目を閉じた。
そして、そのまま再び意識を失った。
目を開けると、柔らかな光が視界に入った。
木の天井。
整えられた寝具。
外の森とは違う、落ち着いた空気。
体にかかっている布が、軽い。
先ほどまでの冷たさはない。
代わりに、誰かの気配が近くにある。
少女は、ゆっくりと身を起こそうとする。
だが、体に力が入らない。
呼吸が少し乱れる。
そのとき、自分の声が小さく漏れた。
「ここ、は……?」
周囲には、見覚えのない空間。
部屋のドアが、ゆっくりと開いた。
黒髪の少女が中を覗き込み、ベッドの上にいる姿に気づく。
一瞬、目を見開く。
驚いたように、そのまま一度扉の外へと戻っていった。
静寂が戻る。
少しの間を置いて、再び足音が近づいてくる。
今度は両手にトレーを持っている。
静かに扉を開け、部屋の中へ入ってくる。
ベッドのそばまで来ると、そっとトレーを置いた。
黒髪の少女は、にこやかな表情で何かを話しかけている。
言葉は分からない。
それでも、トレーの上のスープを見れば、食べてほしいと言っているのだろうと分かる。
少女は小さくうなずいた。
黒髪の少女がスープを手に取り、スプーンで少し掬う。
ゆっくりと、口元へ運ばれる。
一口、飲もうとする。
だが——
喉を通らない。
むせて、咳き込んだ。
うまく飲み込めない。
体が、まだ受け付けていない。
黒髪の少女は一瞬だけ目を丸くするが、すぐに優しく笑った。
何かを謝っているような仕草。
何も悪くない。
ただ、助けようとしてくれているだけだと分かる。
やがて、少女は水だけを少し口にし、再び横になる。
森の中とは違う、静かな部屋。
体を締めつけるような痛みもない。
外敵に怯える必要もない。
何かに追われることもない。
久しぶりに、何も恐れずに目を閉じる。
呼吸がゆっくりと落ち着いていく。
意識が、静かに沈んでいく。
少女はそのまま、深い眠りに落ちた。
やがて夜が訪れる。
静かな部屋の中、少女はふと目を覚ました。
ぼんやりと開いた視界。
そのすぐ近くに——
銀髪の少年が、こちらを覗き込んでいた。
距離が、近い。
息がかかりそうなほどの距離。
言葉は出ない。
ただ、目が合う。
驚きで体が強張る。
それでも、かすかに動くことしかできない。
大きく飛び起きる力はない。
それでも——
心臓だけが、はっきりと強く鳴っていた。
目を覚ましたことに気づいた少年が、ぱっと表情を明るくする。
何かを言いながら、大きく手を振り、身振り手振りで一生懸命に伝えようとしている。
言葉はわからない。
それでも、不思議とその意図だけは伝わってくる気がした。
張り詰めていた空気が、少しずつほどけていく。
少女の口元が、ふっと緩む。
小さく、笑った。
それを見た少年は、一瞬きょとんとして——
次の瞬間、さらに大きく、嬉しそうに笑った。
それから毎日、昼になると黒髪の少女が、夜になると銀髪の少年がやって来るようになった。
二人はいつも様子を見に来てくれる。
水を運んでくれる。
スープを用意してくれる。
必要なものを、あれこれと気にかけてくれる。
言葉は分からない。
それでも、その優しさだけは伝わってくる。
少女は少しずつ、二人の存在に慣れていった。
けれど——
体は思うように回復しなかった。
むしろ、少しずつ悪くなっているような感覚がある。
立ち上がることも、長く座っていることも難しい。
食べ物を受け付けない日も増えていく。
それでも、二人は変わらず来てくれる。
何度も様子を見て、何度も気遣ってくれる。
その優しさに、安心はする。
けれど同時に——
どこか、静かに不安が積もっていく。
体を起こすことができない。
座ることも、もうできない。
ただ、横たわっているだけ。
目を開ける時間も短くなっていく。
意識はすぐに薄れていき、気がつけば眠っている。
時間の感覚も曖昧になる。
昼なのか夜なのかも、はっきりとは分からない。
食事は、ほとんど口にできない。
口にしても、飲み込むことができない日が増えていく。
それでも、二人は来てくれる。
黒髪の少女も、銀髪の少年も。
変わらず、ここにいる。
声をかけてくれる。
手を取ってくれる。
その存在が、かすかな支えになっていた。
目を開けている時間は短い。
ただ、天井を見つめているだけの時間が増える。
それでも——
「……死にたくない」
小さく、かすれた声が漏れる。
確かに、自分の中に残っている感覚。
終わりたくない。
まだ、ここで終わりたくない。
少女の状態は、日に日に悪くなっていった。
目を開けていても、意識があるのかどうかも曖昧な時間が増えていく。
呼びかけられても、反応できないことが多い。
ただ、そこに“いる”だけの時間が長くなる。
それでも、二人は変わらずやって来た。
黒髪の少女は昼に。
銀髪の少年は夜に。
毎日、必ず。
誰もが分かっている。
もう長くはないのだと。
それでも、その事実を表に出すことはしない。
二人は、いつもと同じように笑顔を見せる。
いつも通りに話しかける。
優しく、穏やかに。
それが、どれほどありがたいことか。
少女には分かっていた。
同時に、それがどれほど申し訳ないことかも。
何も返せないまま、ただ受け取るだけでいることが。
その優しさを、無駄にしてしまっているような感覚。
胸の奥が、静かに締めつけられる。
助けてもらっているのに。
何もできない自分が、ただそこにいる。
そのことが、どうしようもなく辛かった。
夜。
少年が、部屋に入ってくる。
いつもと同じように見えるはずの時間。
けれど、その顔にはもう笑顔がなかった。
静かで、真剣な表情。
それを見て、少女は妙に納得する。
——ああ、そうなんだ。
もう、自分は“それだけの状態”なんだと。
笑顔を見せる余裕すらないほどに。
きっと、今夜。
このまま——
ーーー嫌だ。
ーーー死にたくない。
ーーーもっと生きたい。
ーーーあと少しでいいから。
ーーー時間がほしい。
言葉にならない思いが、胸の奥で溢れる。
少女の目から、涙がこぼれ落ちる。
止めることができない。
それを見て、少年の表情がわずかに曇る。
少女は、わずかに唇を動かす。
声にはならない。
それでも、思いだけは確かにそこにある。
ごめんね。
そんな顔にさせたいわけじゃないのに。
やさしくしてくれたのに。




