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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
もう少しだけ生きたかったー
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森で彷徨った末にー

森は、静かすぎた。


風が枝葉を揺らす音だけが、遠くでかすかに鳴っている。

それ以外に、人の気配はない。


地面に横たわる少女が一人。


肩までの黒髪は土にまみれ、呼吸は浅い。

黒いセーラー服はあちこちが裂け、泥と血で汚れている。


指先が、わずかに動いた。


だが、それ以上は動かない。


ここに来てから、どれだけの時間が経ったのか分からない。

ただ一つだけ確かなのは——


「ボク……」


かすれた声が、喉の奥から漏れる。


掠れた呼吸の合間に、言葉にならない何かが零れ落ちる。


立ち上がろうとして、何度も倒れた。

水も、食べ物も、もうほとんど残っていない。


それでも、ここまで来た。


生きているのか、死んでいるのか、その境界が曖昧になる。


視界の端が、ゆっくりと暗く沈んでいく。


「……まだ……」


黒い瞳が、かすかに空を見上げる。


何もない、森の天井。


それでも——


「……もう少しだけ……」


願いは、小さく、しかし確かにそこにあった。


手を伸ばす力も、もう残っていない。


ただ、指先がわずかに震える。


そのまま、動かなくなった。



熱い。


煙が、肺に流れ込む。


視界が赤く染まっていた。

警報の音が遠くで鳴り続けている。


天井が、軋む。


「……っ、逃げ……」


声が、自分のものじゃないみたいに遠い。


炎が一気に広がる。


熱と煙と、崩れ落ちる音。


足元が崩れる感覚。


落ちる。


視界が揺れて、何かに打ち付けられた衝撃。


——そこで、意識が途切れた。



次に目を開けたとき、世界は変わっていた。


見知らぬ森。


焦げた匂いも、サイレンもない。


ただ、静かで、広くて、どこまでも知らない場所。


「……は?」


状況が理解できなかった。


立ち上がろうとして、すぐに膝をつく。


体が重い。いや、軽すぎる。


何日か分からないまま、木の根を握り、泥をすすり、どうにか動いた。


最初の数日は、ただ歩いた。


食べ物を探すという発想も、うまくできなかった。


喉が乾いても、水がどこにあるのか分からない。


川の音が聞こえたとき、ようやく近づくことができた。


それでも、簡単ではなかった。


崖を滑り落ちたこともある。


獣に追われて、必死で逃げたこともある。


「なんで……」


何度も、そう思った。


なんで自分がここにいるのか。

なんで、こんな場所に。


答えはなかった。


ただ——生き延びるしかなかった。



雨の日。


体温が奪われていく。


火を起こそうとしても、うまくいかない。


冷たい水が体を打つ。


「……まだ……」


歯を食いしばる。


何度も倒れた。


何度も起き上がった。


理由なんて、もう分からない。


でも。


——死にたくなかった。



そして、今。


地面に倒れている。


体が、動かない。


視界がぼやけていく。


呼吸が、浅くなる。


(……ここまで、か)


あの火事の日から、ここまで来た。


理由も分からないまま。


ただ、必死に。


「……ボク……」


掠れた声が、かすかに漏れる。


森の空は、何も答えない。


それでも——


「……もう少しだけ……」


その言葉だけが、胸の奥に残っていた。


森の地面に横たわったまま、意識はゆっくりと沈んでいく。


冷たさが体に染み込んでくる。指先の感覚がもう曖昧で、自分のものなのかも分からない。視界は霞み、木々の輪郭がぼやけていく。


この一ヶ月は、何だったのか。


特別な出来事はなかった。

誰かに見つけられることも、誰かに助けられることもなく、ただひたすら森の中を彷徨い続けただけ。


走って、倒れて、起き上がって。

水を探して、食べられるものを探して、眠って、また歩いて。


それだけの繰り返し。


なのに、その一つ一つが、やけに重かった。


何度も「もう無理だ」と思った。

それでも、なぜか足は止まらなかった。


意味なんて分からないまま。


ただ、生きていた。


今、その終わりがすぐそこにある。


(……ボクは)


問いが浮かぶ。


(何のために……)


答えは出ない。


けれど、ふと気づく。


この一ヶ月、自分はずっと「生きようとしていた」。


何かを成し遂げたわけでもない。

誰かを救ったわけでもない。

世界に何かを残したわけでもない。


それでも。


生きることを、やめなかった。


それだけは、確かだった。


呼吸がさらに浅くなる。


森の音が遠のいていく。


木々の揺れる音だけが、やけに優しく耳に残る。


「……分からない、よ……」


かすれた声が、わずかに漏れる。


「……でも……」


言葉は途切れる。


それでも、胸の奥に小さな感覚が残る。


この一ヶ月は、ただの無意味な時間じゃなかった気がする。


理由は分からない。


それでも——


生きてきた。


その事実だけが、静かに残っていく。


そして意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。


森の中に、わずかな違和感が生まれる。


風でもない。

鳥でもない。

獣の気配とも違う。


それは、静かに、しかし確かに近づいてきていた。


少女の瞼が、かすかに動く。


意識はまだ薄い。だが、完全には途切れていない。


何かがいる。


その気配だけが、ぼんやりと分かる。


足音はしない。

それでも、確実に距離が縮まっている。


木々の隙間を縫うように、何かがこちらへ向かってくる。


少女の指先が、わずかに動いた。


動けるほどの力はない。

だが、気配に反応するように、かすかに反射が起きる。


やがて、その“何か”が立ち止まる。


すぐ近く。


少女の視界の端に、影が入る。


ぼやけた世界の中で、その輪郭だけが、はっきりとそこにあった。


逆光の中で、少女の姿ははっきりとは見えない。


ただ、人の形をしている。

小柄で、こちらを見下ろしているように立っている。


何かを話している。


言葉は分からない。

聞いたことのない響きが、森の中に落ちていく。


意味は理解できない。


やがて、その少女は一度こちらから離れ、走り去った。


足音が遠ざかる。


見捨てられたのだと思う。


視界がぼやける中で、その感覚だけが残る。


——だが。


しばらくして、気配が戻ってくる。


さっきの少女だ。


今度はすぐ近くにいる。


そして、口元に何かを運ぶように手を寄せている。


冷たい感触が、唇に触れた。


水。


それは泥水でも、雨水でもない。

澄んだ、はっきりとした水。


横たわった少女が、かすかに声を漏らす。


「……水」


液体が流れ込む。


乾ききっていた喉に、しみ込んでいく。


久しぶりの水だった。


体の奥が、わずかに反応する。


呼吸が、少しだけ戻る。


「……おいしい……」


かすれた声が、自然と漏れた。


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