われわれの幸せはー
ベルは。
宿屋の屋根の上に、一人座っていた。
夜風に髪を揺らしながら、手にはグラス。
中身をゆっくりと傾ける。
琥珀色の液体が、かすかに光を反射して揺れた。
街の灯りが遠くに瞬く。
喧騒は、ここまでは届かない。
静かな時間。
ベルはグラスを少しだけ持ち上げて、空を見上げた。
何も言わず、ただ一口。
そのまま、ゆっくりと息を吐く。
戦いが終わった夜にしては――
少しだけ、静かすぎる夜だった。
屋根の上、静かな夜風の中。
ベルがグラスを傾けていると――
影が、わずかに揺れた。
「何か気掛かりでも……?」
突然の声。
ベルは反射的に肩を震わせる。
「……心臓止まったかと思ったぞ……」
振り返る間もなく、股の間の影からぬるりと頭が現れた。
ミカゲだった。
にこりと笑みを浮かべながら、ゆっくりと顔を上げる。
「人工呼吸、しましょうか?」
その目が、とろりと甘く細められる。
どこか冗談とも本気ともつかない、危うい距離感。
ベルは思わず体を引く。
「いや、いらねぇから!」
軽く手で制しつつ、ため息を吐く。
ミカゲはそんなベルをじっと見上げたまま、ふわりと体を引き上げるようにして屋根に座った。
夜風が二人の間をすり抜けていく。
静かな屋根の上で、グラスの中の液体だけが、わずかに揺れていた。
屋根の上、夜風が静かに流れる。
ベルはグラスを軽く揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「なんかさー……おかしいんだ」
ミカゲはすぐに言葉を返さず、ただ静かに視線で応える。
ベルは少し間を置いてから、両手をゆっくりと広げた。
指輪が、月明かりに照らされて並ぶ。
――9個。
ベルはそれを見つめながら、もう一度小さく言う。
「なんか……足りない気がするんだよな」
その言葉に、ミカゲの表情がほんのわずかに揺れる。
やがて、何も言わないまま、そっと目を伏せた。
風が一度、強く吹く。
グラスの中の液体が、かすかに波打つ。
ベルはそのまま視線を上げることなく、指輪を見つめ続けていた。
言葉にできない違和感だけが、静かに夜に溶けていく。
屋根の上、夜風が静かに流れる中。
ミカゲは少しだけ距離を詰めるようにして、ベルに問いかけた。
「主人様……もし私が死んだら……泣いてくれますか……?」
ベルは一瞬、きょとんとした顔でミカゲを見る。
「おまえは死なないだろ?」
即答だった。
ミカゲは首をわずかに傾ける。
「もしも……もしもの話です」
それでもベルは、迷わずに言い切る。
「だから、おまえは死なないって」
ミカゲの眉がわずかにひそめられる。
「ですから……もしもの――」
言いかけた、その瞬間。
ベルの声が重なる。
「もしもも何もねぇよ!」
ミカゲの言葉を遮るように、強く。
「おまえは死なない!俺が生きてるうちは絶対に!」
その言葉は、ただの断言ではなかった。
確かな願いと、揺るがない意志が込められている。
ミカゲはその声に、はっと目を見開く。
そして――
ゆっくりと、目を細めた。
「そんなに……私がいなくなるのが嫌……なんですねぇ……」
その目は、柔らかく笑っている。
ベルは一瞬言葉に詰まり、
少しだけ視線を逸らした。
「……そりゃ、そうだろ」
照れ隠しのように、ぽつりと呟く。
夜風が二人の間をすり抜ける。
その距離は近くて、どこか温かいままだった。
屋根の上、夜風が静かに流れる中。
「ならばこそ――」
ミカゲがゆるやかに身を動かす。
次の瞬間、ベルの股の間の影から、ミカゲの両手がそっと伸びて膝を掴んだ。
そのまま、ゆっくりと――
ミカゲの全身が影から現れるように、静かに姿を見せていく。
ベルの両足の間に立つようにして、ミカゲはすっと体を起こすと、そのまま膝を地につけた。
そして、両手を伸ばす。
ベルの頭を、やさしく包み込むように抱き寄せ――
そのまま、自分の胸元へとそっと押し当てるように抱きしめた。
「……苦しいんだが」
ベルのくぐもった声。
ミカゲは少しだけ目を細めて、穏やかに微笑む。
「……しゃべるとくすぐったいです……」
一拍置いて、ほんの少しだけ声を落とす。
「それはそれで、よいのですが……」
静かな夜の屋根の上。
ベルの頭は、やわらかな温もりに包まれていた。
ミカゲの腕は、離す気配がない。
ただ、そっと寄り添うように――
確かにそこに在り続けていた。
ミカゲはベルを抱きしめたまま、ゆっくりと目を閉じる。
「ご主人様……もし、かつて10番目の姫神がいたとしたら……どう思いますか……?」
ベルは少しだけ間を置いてから、静かに答えた。
「そんなのがいたら……俺が知らないわけがねぇ……」
ミカゲの腕に、わずかな力がこもる。
「……もし、誰の記憶からも存在をなくしていたとしたら……」
その言葉に、ベルの表情がほんの僅かに揺れる。
「いや、そんなことは……!」
否定しかけて、言葉が止まる。
「……でも……そう、なのか?」
ミカゲはすぐには答えず、ただ静かに、ベルの頭を胸元へと抱いたまま。
やがて、小さく息を吐くようにして――
「もしも……もしもの話です……」
その声は、どこか確かめるようでありながら、同時に何かを隠すようでもあった。
「もし……そんなことがあったなら……」
ベルが胸の中で小さくため息を吐く。
その瞬間、ミカゲの肩がわずかにビクリと震えた。
ベルの言葉に、胸の奥がじんわりと満たされていく。
(……ああ……)
それは痛みではなく、むしろ――喜びに近い感覚。
ミカゲが恍惚の表情で胸の中のベルを見る。
「俺は……自分が許せねぇ……」
ベルの声が、かすかに揺れる。
「姫神のみんなにこんなに助けてもらっておいて……死んだら記憶にも残らないなんて……そんなのって、あるかよ」
その言葉は、絞り出すように。
ベルはさらに言葉を続けようとして――
「やっぱり..俺は自分が許せねぇよ…」
声が震え、ミカゲの服の裾をぎゅっと掴んだ。
ミカゲは、その様子に、背中を走る快感に身を委ねた。
そして、静かに目を細めた。
ベルの頭にそっと手を乗せ、優しく撫でるように。
「ご主人様は勘違いしてますね……おかわいいことに」
その声には、先ほどまでとは違う、満たされたような温もりがあった。
ベルは顔を上げずに、問い返す。
「……俺が何を、勘違いしてるってんだよ……」
ミカゲはゆっくりと言葉を重ねる。
「われわれ姫神はすべからく、あなたに救われたもの達。でもそれは、救われたから姫神になったわけじゃない」
「救われて……もっとあなたのそばにいたいから、姫神になったんです」
ベルは小さく息を吐く。
「だから……?」
ミカゲは一拍置いて、静かに続ける。
「だから、姫神になろうとなかろうと、その前にすでに……われわれはあなたに救われているんです」
そして、そっと目を伏せる。
ベルの頭に頬を寄せ、やわらかく押し当てる。
その仕草には、確かな安心と――満たされた喜びがにじんでいた。
「あなたに救われた時点で、私たちは幸せになっていたのです」
夜風が静かに流れる。
ミカゲは、穏やかな声で締めくくる。
「その消えた姫神もきっと、自らの意思で消えたのです。幸せな気持ちを抱いたまま」
ベル「でもそんなのは……悲し過ぎんだろ……」
ミカゲは言葉を受け止めるように、ベルの頭をそっと、しかし強く抱きしめる。
「よいのです……あなたが生きている。それ以上の喜びを、われわれは知らない。知らなくて良いのです……ただ、それだけが」
声は静かで、どこか確信に満ちていた。
「あなたが生きてさえいてくれたなら……きっと未来永劫……姫神は幸せなのですから」
ベルの手がわずかに動く。苦しげに、逃れるように。
ミカゲはその手からグラスをそっと受け取ると、月へ向かって掲げた。
銀色の光を映すその縁が、静かにきらめく。
「ねぇ……そうでしょ?キザミ……」
瞳を閉じ、ミカゲはグラスを一息にあおる。
喉を流れる音だけが、静かな夜に落ちる。
空になったグラスを再び月へと掲げた。
「あなたは自分の役目を見事に果たしました」
その声は、優しく、誇らしげで。
「われわれの、私たちの幸せを……守ってくれて、ありがとう」
夜空の月が、静かに二人を見下ろしていた。




