10の権能ー
右脚が、振り上げられる。
着物の裾が静かに揺れ、白い脚が付け根まで一瞬だけ露わになる。
そのまま――
躊躇なく、振り下ろされる。
踏みつける軌道。
空気が裂ける。
圧が、一点に収束して落ちる。
タブラスカの胸へ――
だがその瞬間。
タブラスカの片手が、跳ね上がる。
ぎりぎりの反応。
受け止める。
――ズン。
衝撃が腕に乗る。
空間が歪むほどの圧。
腕の骨が軋む。
筋肉が悲鳴を上げる。
それでも、踏み潰されるのをなんとか止めている。
ほんの僅かに。
押し切られる直前で、均衡を保つ。
しかし、その代償は大きい。
筋繊維が裂ける。
血が、腕の各所から吹き出す。
それでも――
タブラスカは、食いしばる。
「なんと…」
押し潰されそうな中で、絞り出すように。
「なんという…」
その視線の先。
カレンは、脚をそのまま押し込みながら。
静かに笑う。
「なんじゃ…そんなに妾の足に触りたかったのか?」
カレンは、その様子を見下ろしたまま――
わずかに口角を上げる。
「受け止めたのは…褒めてやってもよい、ぞ」
その言葉と同時に。
一瞬、圧が変わる。
受け止められていた右脚が――
ふっと、沈む。
抵抗が、消えたかのように。
そして次の瞬間。
――ズン。
踏み抜かれる。
さっきまで拮抗していた力が、一気に反転する。
押さえ込んでいたタブラスカの腕に――
全ての圧が、一点に集中した。
「ぐあっ!!」
悲鳴。
その瞬間。
右腕が、軋みを超えて――
潰れる。
骨が砕け、筋肉が押し潰される。
まるで重力そのものに押し潰されたかのように。
腕の形が、維持できないほどに崩壊していく。
血が噴き出し、腕は力を失う。
受け止めていた支えが崩れ――
そのまま、タブラスカの身体が揺らぐ。
圧倒的な一撃の余波だけが、場に残っていた。
カレンは、何事もなかったかのように脚を戻す。
静かに、タブラスカを見下ろしたまま。
次の言葉を待つかのように――
余裕を崩さない。
ベルの怒声が飛ぶ。
「おい!カレン!」
広間に響く鋭い声。
だが――
カレンは振り返らない。
ただ、肩をわずかに揺らして笑う。
「これくらいで死にはせんて。黙って見とれ」
けらけらと。
軽やかに。
まるで、遊びの延長のように。
その笑いの奥にあるものは――
揺るがない確信。
一方で。
地に沈むタブラスカ。
潰された右腕を押さえながら、低く声を漏らす。
「…おのれ、我が右腕を…」
怒りと屈辱。
だが、その言葉すら途中で飲み込まれそうになる圧。
その様子を見下ろして。
カレンの表情が、ふっと変わる。
いたずらっぽさが消え。
代わりに浮かぶのは――
どこか満たされたような、柔らかな微笑み。
「図らずとも、主様と揃いになったのぅ」
静かに。
その言葉を落とす。
そして、わずかに目を細める。
「少し、ようやく少しだけ、スッキリしたわ」
満足げに。
けれど、その視線はまだ――
タブラスカから外れていない。
次に何をするか。
それを決める前の、静かな“間”だった。
離れた位置。
崩れかけた広間のさらに外縁。
そこで、3人は戦いを見守っていた。
アダラが、乾いた声を漏らす。
「…あんだよ、これ。圧倒的じゃねぇか…」
額から、冷や汗が一筋。
目の前の光景は、戦いと呼ぶにはあまりに一方的だった。
ビビが、ぽつりと呟く。
「…わたしの時も〜手も足も出なかったもん〜」
軽い調子。
だが、その言葉の奥には、確かな実感がある。
ミリィは、息を呑んでいた。
「…これが姫神…戦うところは初めて見ましたけど…なんて強さ」
視線は、カレンに釘付け。
一切、逸らせない。
その3人の中で――
ハーミットだけが。
腕を組み、顔をしかめていた。
不機嫌そうに、爪を噛む。
視線は、戦場から一瞬も離れない。
その様子に気づいたミリィが、そっと口を開く。
「…このまま終わりそうですね」
その言葉に。
ハーミットは、舌打ちをした。
「そんなわけ…ないでしょう」
冷たく、鋭い声。
ミリィが、わずかに目を見開く。
「…え?」
アダラが、眉をひそめる。
「…どういうことだよ?」
ビビも首をかしげる。
「このままなら〜勝てると思うけど〜?」
その問いに。
ハーミットは、静かに目を細めた。
そして。
ゆっくりと口を開く。
「このまま…そう、このままなら勝てるでしょうね」
その言葉は、確かだった。
だが。
その“先”がある。
アダラが苛立ったように声を上げる。
「あんだよ…嫌な言い方しやがって。何かあるなら言えよ」
ミリィも、不安げに続ける。
「何か、あるんですか?」
ハーミットは、3人を見た。
少しの間。
そして――
静かに言う。
「あなたたちこそ、忘れたの?」
3人が顔を見合わせる。
嫌な予感。
その空気を裂くように――
ハーミットが、言葉を落とす。
「――あれにはまだ…10個の魔王核が、あるのよ」
一瞬で。
空気が変わった。
踏み抜いたままの右脚を、カレンがゆるやかに引き上げる。
そこには、血も汚れも一切付いていない。
まるで最初から、何ひとつ触れていなかったかのように。
そのまま、裾を指先で軽く整え、何事もなかったかのように歩き出す。
静かに。
迷いなく。
ベルの前で足を止めると、その場にしゃがみ込んだ。
視線を合わせる距離。
そして――
おもむろに、ベルの肩口に手を伸ばす。
切断された断面を、直接掴む。
ベル「いってぇ!!」
鋭い叫びが響く。
掴んだ右手に、カレンは一瞬だけ力を込めた。
ベル「やっやめろっ!痛い!痛すぎる!」
その声に、カレンはぱっと手を離す。
そして、何もなかったかのように手のひらを広げて見せた。
「我慢せい。男じゃろ」
ベル「いっや…何すんだよ!?」
カレンは、少しだけむくれたように口を尖らせると、ベルの肩口を指で示す。
「血、止まったじゃろうが」
言われて、ベルは目を向ける。
確かに、先ほどまで流れていた血は――もう止まっていた。
ベル「…止血して、くれたのか?」
カレンは、わずかに眉をひそめる。
「…嫌がらせでもしとると思ったから?」
ベル「…あぁ、まぁ」
その言葉に、カレンの表情が一瞬だけ変わる。
心底、心外だとでも言うように。
「妾が心配してやったというのに…不愉快じゃ!」
頬をふくらませ、はっきりと不満を示す。
その様子に、ベルは苦笑した。
「悪ぃ悪ぃ、ありがとな!」
カレンはそっぽを向く。
「もう知らんわ!」
「カレン、それより」
その声に、少しだけ不満を滲ませて立ち上がる。
視線はそのまま前へ。
倒れ伏すタブラスカへと向けられる。
「ちょいと黙らせてくるかの」
ゆったりと歩き出す。
まるで散歩にでも出るかのように。
右手が持ち上がり、手のひらが開かれる。
指が一本、また一本と立っていく。
「手足がのうなっても、死なねばええんじゃろ?」
「…あ、あぁ、出来れば手足も残してやって欲しいけどなぁ…」
顔を顰める。
「めんどぃのぉ…まぁ主様の頼みじゃから、聞いてやりたいとは思うが…のぉ?」
笑みを浮かべながら、意味ありげな視線を向ける。
その圧に、ベルが少し呆れた顔をする。
「わかったわかった、終わったらなんでも1つ言うこと聞いてやっから、うまく頼むよ」
その言葉に、目が輝く。
「言うたな?この耳でしかと聞いたぞ?」
「嘘は言わねぇって」
「なんでも、じゃな?」
「なんでも、だ」
満足げに頷く。
「よし、妾、がんばる〜!」
軽やかに歩き出す。
その足取りは、まるで遊びに向かうようで。
そしてタブラスカの前に立つ。
右手が振り上げられる。
視線は逸らさない。
「すぐ終わるから、ちと我慢しろ」
――振り下ろされる右手。
タブラスカの巨体は、無残に壁へとめり込んでいた。
砕けた石が周囲に散り、沈黙が空間を支配する。
右腕は原形を留めていない。
カレンの一撃が、そのまま力の差を刻みつけていた。
動けない。
いや、動こうとすればさらに壊れる――そう本能が理解している。
その視線の先。
ゆっくりと、カレンが歩み寄る。
余裕の足取り。
まるで狩りを終えた者のような、静かな確信。
右手が持ち上がる。
指先がわずかに揺れ、次の瞬間には全てが終わると告げていた。
タブラスカが目を開け、その視線だけで、カレンを見上げる。
だが、視界の端に映るのは別の存在。
離れた位置で膝をつくベル。
左腕は、すでにない。
床に残る血の痕が、その戦いの激しさを物語っている。
それでも――
その目だけは、まだ死んでいなかった。
「……」
タブラスカの中で、何かがわずかに軋む。
カレンの手が振り上げられる。
次の一撃で、すべてが終わる。
その瞬間。
カレンが振り上げた右手が、空を裂く寸前で――ぴたりと止まった。
わずかな沈黙。
そして、大きく後方へ跳び退く。
距離を取ったその足元で、軽く砂埃が舞い上がる。
視線は、壁にめり込んだタブラスカから一切逸らさないまま。
「主様……ちとまずいかもしれんぞ」
静かに、しかし確かな警戒を含んだ声が落ちる。
離れた場所で膝をついたままのベルが、ゆっくりと息を吐いた。
左腕の傷を押さえながら、わずかに目を細める。
「あぁ、どうやら、そうみてぇだな……」
その言葉と同時に――
タブラスカの、潰れかけた右目が。
ゆっくりと、開く。
赤。
鈍く、濁った光が、深淵から滲み出るように灯る。
壁にめり込んだままの巨体が、かすかに震えた。
壊れていたはずの腕が、ぴくりと動く。
沈黙は、終わった。
空気が変わる。
圧が、質を変える。
――“まだ終わっていない”。
その事実だけが、場に重く落ちた。
赤く鈍く光っていた右目が、歪に歪みながら拡張していく。
膨張するように、裂けるように。
皮膚が悲鳴を上げる音が錯覚のように響き――
次の瞬間には、顔の右上半分を覆うほどの巨大な“目”が、肉を押し破って現れていた。
その異形の瞳が、ぎらつく赤を放ちながら周囲を睨む。
同時に――
その目を起点に、赤い光の線が血管のように全身へと走る。
脈打つように。
一筋、また一筋と。
崩れかけていた巨体が、逆方向へと組み直されていくかのように――異様な再構築を始める。
壁に埋まっていた腕が、軋む音を立てて引き抜かれる。
折れていたはずの骨が、砕けた肉が、引き戻されるように“巻き戻る”。
まるで逆再生。
破壊されたものが、時間を巻き戻すかのように再生していく。
そして――
完全に潰されていたはずの右手が、元の形を取り戻す。
いや、それ以上の圧を帯びて。
タブラスカの指が、ぎゅ、とわずかに握られた。
再び、立ち上がるための“準備”が整う。
その異様な再生を前に――
場の空気が、完全に書き換わった。
アダラの声が、震えを伴って漏れる。
「これは……10の権能の一つ、“英雄再生”!?」
ハーミットが目を細め、タブラスカの全身を睨みつける。
「いえ……それだけじゃないわ。あの赤くせり出ているのは……」
ビビが、乾いた声で呟いた。
「……英雄核……」
ハーミットは小さく頷き、爪を噛みながら視線を逸らさない。
「でもまだ一つだけ……」
その言葉を遮るように――
タブラスカの全身に刻まれた紋様が、一斉に赤く輝き始める。
首から下、あらゆる刻印が呼応するように光を放ち、脈動する。
まるで“何か”を呼び起こすかのように。
そして――
その光が、肉体そのものを内側から押し上げる。
両肩。
胸に三つ。
腹。
両手の甲。
右膝。
皮膚が裂ける。
食い破られるように。
そこから現れるのは――
赤く脈動する結晶のような存在。
英雄核。
それぞれが異様な輝きを放ちながら、タブラスカの身体を構成する要素の一部として、完全に露出していた。
だが、それらは単独で存在しているわけではない。
赤い光の線が、それぞれの核を繋ぎ――
さらに全身に刻まれた紋様へと流れ込む。
まるで循環する回路。
いや――
一つの巨大な“体系”。
破壊と再生が、完全に統一された異形の存在。
その中心で、タブラスカがゆっくりと顔を上げる。
赤く巨大化した右目が、静かに瞬いた。
タブラスカが、ゆっくりと立ち上がる。
壁にめり込んでいた巨体が、まるで最初から何事もなかったかのように姿勢を正す。
赤い光が脈打つ。
全身を巡る線が、紋様が、英雄核が――一つの意志として収束していく。
その両手に、いつの間にか握られていた二振りの剣。
湾曲した刃が、歪に光を反射する。
左手の剣が、空気を切り裂くように軽く揺れた瞬間――
その軌道が、目に見えない速度へと変わる。
「始剣アルファリア……振るほどに速くなる剣……」
アダラが、息を呑みながら呟く。
右手の剣が、重く沈む。
ただ持っているだけで、大地を押し潰すかのような圧。
振るうほどに、世界そのものの重さを引き寄せるように――
「終剣オメガニア……振るほどに重くなる剣……」
ハーミットが低く言葉を落とす。
ビビは、声もなくその光景を見つめていた。
速さと重さ。
相反する概念が、同時にその両腕に宿っている。
タブラスカが一歩、踏み出す。
その一歩だけで、空気が歪む。
赤い光の線が脈動し、英雄核がそれに応じるように輝きを増す。
そして――
両の剣が、ゆっくりと構えられた。
圧が変わる。
今までの「再生」だけではない。
“戦うための形”が、完全に整った瞬間だった。




