水神様のほしいものー
激しい打ち合いの最中――ふいに、少女が後ろへ跳んだ。
距離が開く。
同時に、両手に纏っていた水の球が解け、重い音を立てて地面へと落ちた。
水が広がり、足元を濡らす。
「殴り合いもー飽きちゃった」
軽い調子の声。
少年は肩で息をしながら、にやりと笑う。
「体力なくなったんじゃねぇの?」
首を振り、くすっと笑った。
「まっさかー」
言いながら、ふいに少女の右手が、前へと突き出される。
次の瞬間には――もう、目の前。
一切の予備動作もなく、距離が消えていた。
少年の視界を埋めるように、少女の手のひらが迫る。
「ごめーんね」
言葉よりも速く――
水が、爆ぜた。
掌から溢れ出した水が一気に広がり、少年の顔を完全に包み込む。
逃げ場はない。
呼吸を奪う、柔らかくも圧のある檻。
視界が閉ざされ、音が遠のく。
水の中に引きずり込まれるような感覚だけが、全身を覆った。
水に覆われた頭の中で、少年の呼吸は完全に断たれていた。
両手で首元を掴み、必死にもがく。
足は定まらず、たたらを踏み――その動きはどこか滑稽なほど、不格好だった。
目の前では、ミズキがゆったりと立っている。
「どれくらいもちそー?5分?3分?それとも1分とか?」
くすくすと笑いながら、首を傾げる。
「大丈夫だよー死んじゃう前には助けてあげるからー」
軽い声。
その余裕が、状況の絶望を際立たせる。
少年の意識は、急速に鈍っていく。
(駄目だ…これはどうにもならねぇ)
視界は歪み、思考もまとまらない。
そんな中、ミズキの声がさらに重なる。
「その指輪の力?使えばたすかると思うよー使っちゃいなよーうりうりー」
人差し指で、ぐりぐりと肩を突く。
遊ぶように。
試すように。
(ぜっーてー使わねぇ!意地でも!死んでもー…)
ふらつく体のまま、拳を振るう。
右。
左。
また右。
だが――
「そんなのー当たらないよー」
ミズキは軽やかに避け続ける。
まるで子供をあしらうように。
(くっそー…それならだめもとでー)
次の瞬間。
少年の足が、低く鋭く振り抜かれる。
狙いは――足首。
「はれ?」
あまりにもあっさりと。
ミズキの体勢が崩れる。
そのまま、こてん、と音がしそうなほど軽く――尻餅をついた。
一瞬、呆けた表情。
何が起きたのか理解できない、といった顔。
だがすぐに、頬を赤らめ、慌てて立ち上がる。
その隙を、少年は逃さない。
再び――低い軌道。
「あうっ」
同じように、また足を払われる。
ミズキは再び、あっさりと転がり、尻餅をついた。
今度は確かに、状況を理解していた。
水に包まれながらも、少年の攻撃は止まらない。
上では届かない。
ならば――下。
その単純な突破口が、確かに届き始めていた。
三度、少女が立ち上がる。
その瞬間を、少年は逃さなかった。
低く沈んだ姿勢から、全体重を乗せた一撃が振り抜かれる。
「ああんっ!」
両足を刈り取られ、少女の身体が宙に浮く。
そのまま後方へ――頭から、勢いよく地面へ叩きつけられた。
「いったーーーーいっ!」
鋭い痛みの声が響いた、その瞬間。
少年の頭を覆っていた水が、弾けるように四散する。
拘束が解ける。
空気が一気に流れ込む。
「ぷはーーーーっ!!」
大きく息を吸い込みながら、少年は頭を振る。
ぼやけていた意識を無理やり引き戻す。
そして、そのまま前へ踏み込む。
視線は、倒れたままの少女へ。
狙いは――脚。
迷いなく両手を伸ばし、足首を掴む。
「え!?」
驚きの声が漏れる。
「せー…のっ!」
ぐりん、と。
身体を大きくひっくり返し、その勢いのまま動く。
少女の腰の上に腰を落とし、体重を乗せる。
両足を持ち上げ、逃げ場を塞ぐ。
「ちょっ、いたっ…いたたたたたたっ!いたーいっ!」
背中が弓のように反る。
関節が限界まで引き伸ばされる。
逃げようとしても、体勢が完全に固定されている。
少年は歯を食いしばり、その拘束を維持する。
水ではない。
力でもない。
積み重ねてきた動きと判断だけで――
ついに、少女を捉えた。
少女の体は弓のように反り、必死に逃れようともがく。
「いやーっ!いたーいっ!」
少年はさらに体重をかけ、両足をぐいぐいと引っ張る。
「大逆転だな!」
少女の目から、じわりと涙が滲む。
「いやーっ!こんな負け方、ぜったいいやーっ!」
「あれだろー?おまえって普段足じゃないから、下半身弱々なんだろー?」
「そ、それはあるかもー…って、いたたたたっ!いたいってば!」
少女は地面をバンバンと叩き、耐えきれない様子で叫ぶ。
「もーわたしの負けでいいからー!はやくはなしてーっ!」
少年はニヤリと口元を歪める。
「よし、んじゃあ俺の完全勝利ってことでいいんだな!?」
「もーなんでもいーからー、たーすーけーてー!!!」
その一言で、少年はようやく力を抜いた。
掴んでいた両足を離す。
少女の体が、その場に崩れるように落ちた。
「おもいーつぶれるー早くおりてー」
「あー悪ぃ悪ぃ」
慌てて腰を浮かせ、少年はそそくさと離れる。
少女はごろりと仰向けになり、肩で息をする。
少女の柔らかそうな胸が上下し、呼吸だけが荒く続く。
やがて、ぽつりと。
「あー…負けちゃったー」
「俺の勝ちだ」
短く、しかし確かな実感のこもった言葉。
少女は両手で顔を覆う。
そのまま、動かない。
けれど――
肩が、小さく震えていた。
全身も、かすかに揺れている。
少年はそれを見下ろし、首をかしげる。
「…泣いてんのか?」
少女の肩の震えが、次第に大きくなる。
やがて――
「…ぷ…ぷふ…あははははははははっ」
堪えきれない、といったように手を離し、大きく笑い出した。
涙を浮かべたまま、心底おかしそうに。
少年は眉をひそめる。
「なんだよ…なんで負けて笑ってんだよ?」
少女は息を整えながら、それでも笑みを崩さずに答える。
「だってー…300年だよー300年経って、やっとわたしに勝てる人があらわれたんだよー」
そのまま、地面に寝転んだまま少年を見上げる。
月明かりの中で、その表情はまっすぐだった。
「うれしーに決まってるよー」
その言葉に、軽さはなかった。
長い時間の果てに、ようやく得たものを噛みしめるような――そんな響きだった。
少年はしばらく少女を見下ろし、それからぽつりと口を開いた。
「おまえってー結局なんなの?」
少女は微笑んだまま、少しだけ首を傾げる。
「それー聞いてどうするの?」
少年は言葉を探すように視線を泳がせる。
「…どうって…ん?聞いても仕方ねぇか」
あっさりと、自分で引き下がる。
少女はくすっと笑った。
「だよ」
そして、右手を差し出す。
「んー」
少年はその手を見て、少しだけ首をかしげる。
「なんだ?握手?」
少女は軽く笑いながら首を振った。
「ちがうよー起こしてーって言ってるの」
「あぁ、そっちか」
少年はその手を取り、ぐいっと引き上げる。
少女の体が軽く浮き、そのまま立ち上がる。
二人の距離が、同じ高さで揃った。
立ち上がった少女は、そのまま少年の顔をじっと見上げた。
上目遣いのまま、動かない。
視線だけが、まっすぐに刺さる。
「…なに?」
少年が問いかけても、少女は答えない。
そのまま、ゆっくりと歩き出す。
ぐるりと、少年の周りを回る。
一歩ずつ、確かめるように。
「…だから、なにそれ?」
再び正面に戻ると、少女は何も言わずに右手を上げた。
自分の頭のてっぺんに乗せ――そのまま前へスライドさせる。
手のひらが、少年の頭の上をかすめて通り過ぎた。
「ちょっとだけ、わたしのほうが高いねー」
少し残念そうに言う。
そして、少しだけ考えるように目を細めた。
「今、いくつなのー?」
「俺?今年で16歳」
その答えに、少女は軽く頷く。
「じゃーまだまだ伸びるねーそれならいっかー」
少女はくすっと笑って、わざとらしく首を傾げた。
「なんでもなーい」
少年はじっとその様子を見つめたあと、ふっと息を吐く。
「そんなことより、約束だろ?」
そう言いながら、両手の指をわきわきと動かす。
期待を隠そうともしない仕草。
少女は一瞬きょとんとしたあと――すぐに理解して、にやりと笑った。
「えーほんとにそれ目当てだったのー?」
からかうような声。
だが、その目は楽しそうに細められている。
「しょーがないなー」
一歩、距離を詰める。
月明かりの下、少女の影が少年に重なる。
「ちゃんと勝ったもんねー」
そのまま、ゆっくりと手を伸ばした。
少女の手が、ゆっくりと伸びる。
少年は思わず身構え――しかし、避けない。
そのまま、じっと待つ。
指先が、頬に触れた。
ひんやりとした感触。
水のようで、水ではない、不思議な温度。
「んー……」
少女は少しだけ顔を近づけ、じっと覗き込む。
観察するように。
確かめるように。
「ほんとに、勝っちゃったねー」
そのまま、くすっと笑う。
少年はわずかに眉をひそめる。
「なんだよ、まだなんかあんのか?」
少女は首を横に振る。
そして――ほんの少しだけ背伸びをした。
距離が、さらに近づく。
「ちゃんと勝ったもんねー」
そのまま――
ちゅ、と。
軽い音を立てて、少年の頬に唇が触れる。
ほんの一瞬。
水のように柔らかく、すぐに離れる。
少女はにやっと笑った。
「はい、ごほうびー」
少年は一瞬固まり、遅れて顔をしかめる。
「……それかよ」
「なにー?不満ー?」
「いや……まぁ……」
言葉に詰まりながら、そっぽを向く。
耳がわずかに赤くなっていた。
少女はそれを見て、また楽しそうに笑った。
「顔、赤いよー?」




