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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
天の皇を目指すものー
280/322

天へと至るその道はー

承知いたしました。続けます。



馬鹿なことをしてしまった。


蛇は、静かにそう思った。


百年。


積み重ねてきた時間。


そのすべてを、この瞬間で手放した。


後悔はある。


確かにある。


だが――


それを“間違い”とは思えなかった。


あのまま。


見捨てて竜になったとしても。


この先、永遠とも言える時間を、


蛇は抱え続けることになっただろう。


この感覚を。


この喪失を。


この、名のない感情を。


それはそれで。


耐えがたい。


だから――


これで、いい。


そう思った。


水面の上。


静かに揺れる空を見上げる。


見上げ続けてきた、あの空。


九十九年と三百六十五日。


ただ、ひたすらに目指してきた場所。


それを今、


手放した。


だが、不思議と――


後悔だけではなかった。


蛇は、笑っていた。


喪失感と満足感。


その狭間に揺れながら。


静かに。


天を見上げる。


その時だった。


――


少年が、目を開けた。


少年の目が開き、


やがて――その視線が蛇を捉える。


一瞬の沈黙。


次の瞬間、瞳が大きく見開かれた。


驚き。


恐れ。


混乱。


それらが一度に押し寄せる。


巨大な蛇を前にして、当然の反応だった。


だが蛇は、それを静かに見下ろしていた。


水面から覗くその頭は、動かない。


ただ、そこに在る。


満足していた。


これでいい。


これで、よかったのだ。


少年が来たからこそ、


この結末に至った。


そうでなければ――


自分は、あのまま竜になっていただろう。


だが、もし。


もし自分がいなくなったあと、


この少年が溺れていたとしたら。


その未来を想像した瞬間――


胸の奥に、痛みが走る。


ああ。


これは――心だ。


蛇は、わずかに目を細める。


笑った。


笑っていた。


形はなくとも。


確かに、それは“笑み”だった。


その様子を見ていた少年が、口を開く。


「おまえが……俺を助けてくれたのか?」


蛇は、ゆっくりと頷いた。


その動きは、確かな意思を伴っていた。


少年は、しばらく蛇を見つめる。


そして――


静かに、息を吐いた。


「……そっかぁ、お前は俺の命の恩人だなぁ……」


その言葉を聞いて。


蛇は、何も言わないまま、


ただ少年を見つめていた。


少年は、まだ少し呼吸を乱したまま、目の前の巨大な蛇を見上げていた。


水滴が、蛇の鱗からぽたりと落ちる。


夜は静かで、


ただ、二人の間だけが切り取られたように存在している。


蛇は、ゆっくりと意識を集中させた。


言葉ではなく、


直接、届く形で。


少年の中へと――


意識を、投げる。


(少年よ。我は、百年を生きた蛇。この池の主である)


頭の奥に、響く声。


少年の目がわずかに揺れる。


だが、驚きは一瞬だけだった。


すぐに、それを受け入れる。


「すげぇ……俺、蛇と会話してるのか」


軽く、息を吐くようにそう言う。


恐怖よりも、好奇心。


それが、少年だった。


蛇は、その反応を見て、ほんのわずかに――安堵する。


(そうだ。少年よ。私の話を聞いてくれ)


そして、語り始めた。


長い時間を。


積み重ねてきた百年を。


人から得た知識。


関わることの意味。


すべてを捨ててきた日々。


穢れを避け、


鉄を避け、


人を避け。


ただひたすらに、


“竜になる”ためだけに生きてきたこと。


そして――


この池で過ごした時間。


誰とも関わらず、


何も求めず、


ただ耐え続けてきたこと。


それを守り抜いた先に、


確かに見えていた未来。


あと半日。


あと少しで、すべてが報われるはずだった。


だが――


少年を見たこと。


その存在が、どれほど大きな揺らぎになったか。


夜を重ねるうちに、


気づけば待っていたこと。


来ない夜に、落ち着かなくなっていたこと。


笑いも、


怒りも、


悲しみも。


すべてを避けてきたはずなのに。


この短い時間の中で、


初めて“心”のようなものを知ってしまったこと。


そして。


最期の瞬間に――


選んでしまったこと。


少年を。


助けることを。


その選択が、


何を意味するのかを理解しながらも。


蛇は、


すべてを、少年へと語った。


隠さず。


飾らず。


ただ、吐き出すように。


少年は、しばらく何も言わずに目を閉じていた。


水面に落ちる雫の音だけが、静かに響く。


やがて、ゆっくりと目を開く。


その瞳には、さっきまでの驚きや混乱はもうない。


まっすぐに、蛇を見ていた。


「悪い。おまえの100年、俺のせいで駄目にしちまったんだな。ごめん」


その言葉は、軽くはなかった。


ちゃんと、重みを持っていた。


蛇は、すぐに応える。


(よい。おまえのせいではない。自分で選んだことだ)


少年は、納得しきれない顔で唇を噛む。


「でもさぁ……」


言葉を探すように、視線が揺れる。


蛇は、静かにそれを遮る。


(気にするな。本当は黙っているべきであった。だが――誰かに知って欲しかった。我が百年を)


その言葉に、少年は小さく息を吐いた。


やがて、少しだけ落ち着いた声で問う。


「……お前、これからどうするんだ?」


一瞬の沈黙。


風が、水面を撫でる。


蛇は、迷いなく答えた。


(何も変わらない。またこれから百年、竜を目指すのみ)


(我は、天を諦めない)


その言葉と同時に、蛇はゆっくりと空を見上げる。


夜空。


遥か上。


手の届かない場所。


それでも、確かにそこにある“空”。


少年は、その横顔を見ていた。


ただの蛇ではない。


ただの化け物でもない。


そこにいるのは――


意志を持った、生き物だった。


少年の目が、きらりと光る。


そして、ぽつりと漏れる。


「おまえ……かっこいいな」


その一言に、


蛇は――ほんのわずかに、目を細めた。


少年は、ゆっくりと身体を起こし、地面にしっかりと座り直した。


そして、まっすぐに蛇へと向き直る。


一度、息を整え――


深く、頭を下げた。


「言ってなかったな。命を助けてくれて、ありがとう」


その言葉は、真っ直ぐで、飾り気がなかった。


蛇は、静かに目を閉じる。


そのまま、しばらく何も言わない。


ただ、夜の中に身を委ねるように。


(良い)


低く、穏やかな声が響く。


(今の言葉で、我は満足だ)


ほんのわずかに、空気が柔らかくなる。


(やはり……助けてよかった)


少年は、その様子を見つめていた。


そして――


一度、視線を落とし。


再び、顔を上げる。


その表情は、さっきまでとは違っていた。


決意。


はっきりとした意思が、そこにあった。


「なぁ……おまえの思うのとは違うかもしんねぇんだけど」


言葉を選びながら、それでも逃げずに言う。


「俺がお前を竜にしてやれるかもしれない」


その言葉に、蛇の瞼がわずかに動く。


(面白いことを言う)


静かな声。


だが、その奥には、確かな警戒と興味があった。


(同情ならよせ。また百年待てばよいのだから)


少年は、首を横に振る。


迷いのない動き。


「まぁ、聞いてくれよ」


そう言って、少年は語り始めた。


自分のことを。


自分が持つものを。


「俺さ、姫神ってのがいるんだ」


その言葉は、夜の静けさの中で、はっきりと響いた。


少年の中に宿る存在。


ただの人間ではない力。


契約のようなもの。


守護の力。


そして――


その“姫神”が、どれほど特別なものなのか。


少年は、少しずつ、言葉を重ねていく。


自分が何者なのか。


何を持っているのか。


そして――


それが、目の前の蛇にとって、


どんな可能性になり得るのかを。


少年の言葉を、蛇は静かに聞いていた。


長い沈黙。


そして、一度ゆっくりと目を閉じ――


再び、開く。


(少年よ。もしそれが本当なら、我は今日、竜になれるのだろうか?)


その問いは、どこか静かな祈りのようでもあった。


少年は、迷いなく答える。


「なれる。おまえの思う竜とは違うかもしれねぇんだけどな」


その言葉に、蛇はわずかに空を見上げる。


夜空の向こう。


遥か彼方。


(良い。それでも良い)


(我は今日、竜になりたい)


その声には、確かな熱があった。


(今日、天を駆けたい。空を翔けたいのだ)


少年は、ゆっくりと頷く。


「わかった」


そして――


立ち上がる。


一歩、前へ。


蛇に向かって、手を伸ばした。


巨大な頭が、その手に寄る。


冷たさと、確かな生命の重み。


それでも、どこか温かい。


少年は、その頭にそっと手を置いた。


「それじゃ、俺が今からお前に名前をやる」


(我に、名を)


蛇の声が、わずかに揺れる。


「それがおまえの願いを叶える兆しになる」


静かに、しかしはっきりと。


少年は告げる。


「いいか? 竜になりたい、竜になるお前の名は――」


一瞬の間。


夜が、止まる。


そして――


「リューナだ」


その名が、夜に落ちた瞬間。


風が、静かに吹いた。


水面が揺れる。


見えない何かが、確かに動き出す。


蛇の体が、かすかに震えた。


――百年の積み重ねが、「名」という一滴で揺らぐ。


名を受けたその瞬間、蛇の体にひびが走る。


しかしそれは破壊ではない。


限界に達した存在が、次の形へと“移ろう”ための兆しだった。


水面が静かに震える。


蛇は、息を止める。


長い年月で作り上げた“在り方”が、


ひとつ、またひとつとほどけていく。


鱗がきしみ、外殻がゆるむ。


そして――


ゆっくりと、境界が開いていく。


まるで、古い殻が内側から押し広げられるように。


その中から現れるのは、


これまでとは違う“存在”。


だが、まだ完成ではない。


ただ、“生まれ始めている”。


名を得たことで、ようやく――


蛇は、その変化を受け入れられる段階に入った。


空気が変わる。


夜が、わずかに震える。


その中心で、


新たな形が、確かに芽吹こうとしていた。

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