選択の時が来たー
承知いたしました。続けます。
⸻
それから、少年は三日に一度の頻度でやって来るようになった。
夜の帳が下りた頃、
何の躊躇もなく、この山奥まで。
水面に釣り糸を垂らし、
静かに時間を過ごしていく。
蛇は、その様子を水底から見ていた。
あの日。
初めて現れた夜。
早く満足させて帰らせようと、
多くの魚を釣らせた。
その判断は、間違いだったのかもしれない。
魚がよく釣れる場所だと知ってしまった少年は、
それからというもの、
まるで当たり前のように通い始めた。
人間。
普通であれば、この距離、この山奥に、
何度も足を運ぶことはない。
危険を避けるのが、本来の在り方。
それでも――
この少年は来る。
迷いもなく。
恐れもなく。
ただ、そこにいることを楽しむかのように。
夜の静寂の中で、
釣り糸を垂らし、
時折、独り言のように何かを呟く。
その姿は、奇妙だった。
そして――
不思議と。
目が離せなかった。
これまでの百年で、見たことのない種類の存在。
理解できない行動。
合理性から外れた振る舞い。
それなのに。
なぜか、気になってしまう。
蛇は気づいていた。
自分が、本来持つべきではない感情を、
この少年に向け始めていることに。
――関わらない。
それがすべてだったはずなのに。
この存在だけは、
静かに、
確かに、
心の中に入り込んできていた。
承知いたしました。続けます。
⸻
それから、少年は三日に一度の頻度でやって来るようになった。
夜の帳が下りた頃、
何の躊躇もなく、この山奥まで。
水面に釣り糸を垂らし、
静かに時間を過ごしていく。
蛇は、その様子を水底から見ていた。
あの日。
初めて現れた夜。
早く満足させて帰らせようと、
多くの魚を釣らせた。
その判断は、間違いだったのかもしれない。
魚がよく釣れる場所だと知ってしまった少年は、
それからというもの、
まるで当たり前のように通い始めた。
人間。
普通であれば、この距離、この山奥に、
何度も足を運ぶことはない。
危険を避けるのが、本来の在り方。
それでも――
この少年は来る。
迷いもなく。
恐れもなく。
ただ、そこにいることを楽しむかのように。
夜の静寂の中で、
釣り糸を垂らし、
時折、独り言のように何かを呟く。
その姿は、奇妙だった。
そして――
不思議と。
目が離せなかった。
これまでの百年で、見たことのない種類の存在。
理解できない行動。
合理性から外れた振る舞い。
それなのに。
なぜか、気になってしまう。
蛇は気づいていた。
自分が、本来持つべきではない感情を、
この少年に向け始めていることに。
――関わらない。
それがすべてだったはずなのに。
この存在だけは、
静かに、
確かに、
心の中に入り込んできていた。
承知いたしました。先ほどの流れをベースにしつつ、余計な説明を省いて続けます。
⸻
それからの半月。
少年は、変わらずこの池へと通ってきた。
ただし、以前とは少しだけ違っていた。
水の浅い場所までは、ためらいなく足を踏み入れる。
だが、ある境目を越えたところで、動きが止まる。
それ以上は進まない。
目に見えないはずの“深さ”が、
彼の中で、確かに恐れとして存在している。
蛇は、それを水底から見ていた。
少年は気づいていない。
この池に何がいるのかも。
ただ、釣りをしている。
その様子は、どこかぎこちない。
それでも――
来る。
夜になるたびに。
ある夜。
少年は道具を忘れて来た。
苛立ちをぶつけるように、水辺に向かって声を荒げる。
波が立つ。
その様子を、蛇はただ見ていた。
またある夜。
強く引かれた竿に、少年の身体が持っていかれる。
バランスを崩し、足が浮く。
そのまま水に――
落ちかける。
だが、彼は踏みとどまる。
息を乱しながら、後ずさる。
その顔には、はっきりとした恐れがあった。
水への恐怖。
深さへの恐怖。
そして、見えないものへの不安。
蛇は、それを見ていた。
理解はできない。
だが、見ている。
またある夜。
少年は花を持ってきた。
水面へと、そっと投げ入れる。
浮かぶ花。
揺れる水。
少年の表情が変わる。
静かな、悲しみ。
その一瞬を、蛇は見ていた。
そして――
それから数日。
少年は、来なかった。
水面は静かで、
ただ時間だけが、流れている。
承知いたしました。続けます。
⸻
百年目。
この日が――最後の一日。
あと、半日。
長い時間が、ついにここまで来た。
ようやく。
ようやく、すべてが報われる。
この身に積み重ねてきたもの。
捨ててきたもの。
耐えてきたもの。
すべては、この日のためにあった。
あと半日。
何も起こらなければいい。
何も関わらなければいい。
ただ静かに過ごせばいい。
それだけで――
この身は変わる。
竜になる。
その事実は、確かに理解している。
それなのに。
胸の奥にある感情は、ひとつではなかった。
喜び。
嬉しさ。
そして――
どこか、物悲しさ。
終わりが近づいているからではない。
終わることそのものが、惜しいわけでもない。
ただ。
この百年の時間が、
“終わってしまう”ということが。
静かに、心の奥に影を落としていた。
だが、それでも。
本日。
この身は天へと昇る。
この場所から。
この池から。
見上げ続けてきた、あの空へ。
九十九年と、三百六十五日。
ずっと。
ただ一度も触れることなく。
遠くにあるだけだったもの。
憧れ続けてきたもの。
渇望してきたもの。
そのすべてが、今――
手の届く場所にある。
あと半日。
静かに。
ただ、静かに。
この時間を過ごせばいい。
それだけで、
すべてが終わる。
すべてが――
始まる。
承知いたしました。続けます。
⸻
日が落ちて、しばらく。
静寂の中に、わずかな変化が生まれる。
足音。
聞き慣れた気配。
それが、こちらへと近づいてくる。
蛇は、水底で身じろぎもしないまま、
ただ、その気配を受け取った。
少年。
久しぶりの、あの存在。
来なかった数日。
その不在は、確かにこの場所に空白を作っていた。
だが今――
その空白は、埋まる。
戻ってきた。
この夜に。
この、最後の夜に。
蛇は、静かにそれを感じていた。
喜び。
それに近いもの。
この百年で、数えるほどしか触れたことのない感情。
それが、確かにそこにあった。
最後に。
彼が来た。
それだけで、
この時間は“満たされた”ものになる。
これまでとは違う。
ただ竜になるだけではない。
この夜は、
特別な夜になる。
蛇は動かない。
だが、その内側は静かに揺れていた。
この場所で。
この時間で。
最後に見るのは――
あの少年だ。
承知いたしました。続けます。
⸻
蛇は気づく。
少年の様子が、いつもと違うことに。
足取りはわずかに重く、
手元の動きも、どこか鈍い。
視線が定まらない。
呼吸が、少しだけ乱れている。
熱。
身体の内側から、熱が滲み出ているような気配。
体調が悪い。
明らかに、いつもの状態ではない。
それでも少年は来た。
この場所へ。
この夜に。
いつものように、釣りの準備を始める。
だが、その動きはどこかおぼつかない。
蛇は、水底からその様子を見ていた。
いけない。
このままでは危うい。
もし足を滑らせれば。
もし水に落ちれば――
この少年は。
溺れる。
彼は、泳げない。
それは、確かに理解している。
この池の深さを思えば、
一度落ちれば、簡単には助からない。
蛇は、わずかに身を強ばらせる。
動くべきか。
このまま見ているべきか。
最後の時間。
この百年の終わりに。
選ぶべきは――
静観か。
それとも。
蛇は、じっと少年を見つめ続けていた。
承知いたしました。続けます。
⸻
馬鹿なことを考えるのはやめる。
これまでの百年。
そのすべてに比べれば、
この瞬間の揺らぎなど、取るに足らない。
優先すべきものなど、あるはずがない。
そうだ。
何もない。
この道は、このために歩んできた。
あと半日。
それだけで、すべてが報われる。
少年も、馬鹿ではない。
あの様子ならば、落ちることもないだろう。
そう、判断した――その瞬間。
視界が、揺れた。
竿が投げられる。
その動きに合わせて、
少年の身体が、わずかに崩れる。
次の瞬間。
踏みとどまるはずの足が――
滑った。
バランスが崩れる。
体が前へと傾く。
ゆっくりと。
だが確実に。
止まらない。
手を伸ばす間もなく。
声を出す間もなく。
そのまま――
水へ。
落ちた。
大きな水音が、静かな夜を切り裂く。
水面が大きく跳ねる。
波紋が広がり、
夜の静寂が、乱される。
蛇は、その瞬間を――
ただ、見ていた。
やめろ。
やめるのだ。
馬鹿な考えは捨てろ。
ここまで来た。
この百年。
楽なものではなかった。
むしろ、ほとんどが耐えるだけの日々だった。
それでも――
耐えてきたのだ。
すべては、この瞬間のために。
ここで終わらせてはならない。
絶対に、終わらせてはならない。
あと半日。
それだけでいい。
あと半日で――
竜になれる。
ならば。
ここで選ぶべきものは、決まっている。
関わるな。
見ていろ。
ただ、それだけでいい。
そう――
思い直そうとした、その時。
蛇の視界は、揺れた。
水面。
そこに落ちた少年。
もがく。
手を伸ばす。
だが、その動きは次第に鈍くなっていく。
苦しそうな顔。
必死に息を求める姿。
やがて。
力が抜ける。
身体の動きが止まり――
沈んでいく。
ゆっくりと。
何かに引き込まれるように。
深い水の中へ。
その姿が、見えなくなっていく。
消えていく。
蛇は、見ていた。
見てはいけないものを。
理解してはいけないものを。
だめだ。
いけない。
諦めろ。
自分には、やるべきことがある。
あと半日。
あと半日で――
すべてが、報われるのだ。
あぁ、駄目だ。
諦められない。
理屈ではない。
積み重ねてきた百年が、
そのまま崩れ落ちるような感覚。
だが――
身体は、すでに動いていた。
水底に沈んでいく少年。
その姿が、遠ざかっていく。
間に合わなくなる。
その瞬間、蛇は飛び出していた。
水を裂く。
身体をしならせ、
一気に水中へと滑り込む。
冷たい水が全身を包む。
だが、そんなものは関係ない。
ただ、一直線に。
沈んでいく少年のもとへ。
泳ぐ。
速く。
力強く。
この百年で得たすべてを使って。
だが――
その行為は。
あまりにも。
愚かだった。
あまりにも。
選んではならない選択だった。
なんと愚かな。
なんと、情けない。
これまで積み上げてきた百年。
そのすべてを前にして、
蛇は――
一瞬のために、それを捨てた。
ただ一人。
少年を選んだ。
その選択は、
どこまでも間違っているはずだった。
だが。
それでも。
蛇は、迷わなかった。
水の中。
光が届かないその場所で。
蛇は、ただ一つの存在へと手を伸ばしていた。
承知いたしました。続けます。
⸻
水の中で。
その感触は、確かにあった。
少年の身体。
冷たく、弱く、今にも消えてしまいそうな重み。
蛇は、その巨大な頭でそれを支えた。
壊れないように。
沈まないように。
ただ、浮かせるために。
水をかき分ける。
身体を捻り、岸へと向かう。
重さを抱えたまま。
一切の迷いなく。
やがて。
岸へ。
水際にたどり着く。
慎重に、しかし確実に。
少年の身体を地面へと横たえさせた。
ぐったりとした体。
浅く、かすかな呼吸。
それを確認する。
生きている。
その事実だけを確かめると――
蛇は、水の中へと戻った。
そして。
ゆっくりと。
水面へと、その巨大な頭を持ち上げる。
水滴が落ちる。
静かな夜。
誰もいない池。
その中心に。
水面から現れた蛇の頭。
そして、その視線の先。
地面に横たわる少年。
蛇は見下ろしていた。
守るべきではなかったもの。
触れてはならなかったもの。
それでも――
守ったものを。
静かに。
ただ、見つめていた。




