泉の主ー
承知いたしました。本文を書きます。
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山の奥。
人の気配がほとんど届かない場所に、その池はあった。
風が吹けば、水面が静かに揺れる。
音は、それだけ。
鳥の声も遠く、ただ世界から切り離されたような静寂が広がっている。
水は澄んでいる。
底まで見えるほどに透明で、光が差し込めばゆらゆらと揺れる影だけが、そこに存在していた。
その水底に――それはいた。
細く、長い身体。
淡い鱗が光を受けて、かすかに反射する。
蛇。
じっと、動かない。
呼吸すら感じさせないほどに、静かに。
長い時間、そこに在り続けている存在。
流れる水も、沈む葉も、季節の移ろいも。
すべてを、ただ通り過ぎるものとして見てきた。
関わらない。
触れない。
何にも、干渉しない。
それが、この存在の在り方だった。
積み重ねてきた時間は、百年に近い。
そのすべてを、“竜になる”ためだけに費やしてきた。
余計なことはしない。
感情も、不要。
ただ、生きる。
ただ、待つ。
その先にある変化だけを、求めて。
そして――
あと、わずか。
その時は、確実に近づいていた。
身体の奥に、確かな兆しがある。
これまでとは違う。
何かが、変わり始めている。
近い。
あと、ほんの少し。
それだけでいい。
それだけで――
届く。
蛇は、ただそこにいた。
静かに。
何も求めず、何も見ず。
ただ、“その時”を待ちながら。
蛇は、百年を生きれば竜になる。
ただ生きるだけでは足りない。
人を避け、争いを避け、穢れに触れず。
静かに、ただひたすらに時を重ねる。
風に身を任せず。
欲に溺れず。
何にも染まらず。
そうして百年を越えたとき、
その身は天へ昇る資格を得る。
鱗は光を帯び、
肉は変質し、
大地に縛られた存在は、空へと解き放たれる。
竜。
雲を呼び、風を従え、
天を泳ぐ者。
だが――
その道は、あまりに細い。
たったひとつの接触。
たったひとつの穢れ。
それだけで、すべては失われる。
鉄に触れれば終わるとも、
人の気配に深く関われば断たれるとも、
さまざまに語られている。
確かなのはひとつ。
“関わらないこと”。
それだけが、百年を繋ぐ唯一の道。
だから、蛇は選ぶ。
見ない。
触れない。
何にも、ならない。
すべてを捨てて、ただ“竜になる”ためだけに生きる。
その先にしか、到達できない場所があると知っているから。
水底にいるそれも、また同じだった。
流れる時の中で、何も拾わず、何も残さず。
ただ、静かに積み重ねてきた。
そして今。
その百年の果てが、すぐそこまで来ている。
承知いたしました。続けます。
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この池の主である蛇もまた、竜を目指していた。
水底に横たわるその身体は、すでに人のそれを越えている。
長い。
しなやかに伸びた身体は、水の中でゆるやかな曲線を描き、
その一部が動くだけで、水面にまで微かな揺らぎが伝わる。
太さもある。
細い生き物ではない。
積み重ねてきた年月が、そのまま形になったかのように、
確かな質量を持って、そこに存在していた。
鱗は淡く光を返す。
鈍く、しかし確かに。
ただの蛇ではないと分かるだけの、静かな異質さ。
だが、それでも――
まだ“竜”ではない。
翼はない。
空を知る術もない。
大地と水に縛られたままの存在。
だからこそ。
動かない。
無駄な動きは、一切しない。
ただ、そこに在る。
その長い身体を、水底に預けたまま、
時が満ちるのを、待ち続けていた。
承知いたしました。続けます。
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九十九年と、十一ヶ月。
気の遠くなるような時間。
だが、それは確かに積み重ねられてきた。
この身に。
この場所で。
逃げることなく、ただひたすらに。
竜になるために。
余計なものは、すべて捨ててきた。
興味も。
衝動も。
本来なら持っていたはずの、生き物としての欲すらも。
関わらない。
触れない。
見ない。
ただ、それだけを守り続ける。
それがどれほど退屈であろうと、
それがどれほど空虚であろうと。
すべては――その先のため。
積み重ねてきた時間は、裏切らない。
身体の奥で、それが分かる。
確実に、変わり始めている。
これまでとは違う。
内側から、何かが満ちてくる。
近い。
あと、ほんのわずか。
それだけで届く。
願いが、叶う。
長い間、ただひとつだけ抱き続けてきたもの。
“竜になる”。
それが、現実になる。
もうすぐだ。
もうすぐ――
その時が来る。
承知いたしました。続けます。
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ある夜。
静まり返った池に、わずかな変化が訪れる。
足音。
かすかな、人の気配。
この場所には似つかわしくない、それが近づいてくる。
蛇は動かない。
だが、その存在は確かにそれを捉えていた。
水越しに、影が揺れる。
やがて――姿が現れる。
銀の髪。
夜の闇の中でも、わずかに光を拾って浮かび上がる。
少年だった。
細い体つき。
だが、その動きには迷いがない。
ためらいもなく池の縁まで歩み寄ると、慣れた手つきで道具を広げ始める。
釣り。
どうやら、魚を狙っているらしい。
こんな場所に。
こんな時間に。
蛇は、ただそれを見ていた。
水底から。
動かず。
息を潜めたまま。
人間。
本来なら、関わるべきではない存在。
見ない。
意識しない。
それが、これまで守ってきた掟。
だが――
視線は、離れなかった。
少年は、何も知らない。
この池に何がいるのかも。
どれほどの時間が、ここに沈んでいるのかも。
ただ、そこに座り、
静かに、糸を垂らしている。
波紋が広がる。
わずかな揺れが、水底に届く。
蛇は、じっと見ていた。
ただの人間。
それ以上でも、それ以下でもない。
本来なら、そう判断して終わるはずの存在。
それなのに――
なぜか。
その姿が、意識から外れなかった。
承知いたしました。続けます。
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人を見たのは、いつ振りだったか。
思い出せない。
それほど遠い昔のことだ。
人に触れれば、竜化は妨げられる。
そう教えられ、そう理解した。
だからこそ、すべてを断った。
人の気配のない場所を選び、
この山へと来た。
この池へと、辿り着いた。
ここには誰も来ない。
誰も近づかない。
静かで、冷たく、何も起こらない場所。
それこそが、望んだ環境だった。
何も起きなければ、何も失わない。
ただ時間だけが流れ、
やがてその先に、竜へと至る。
そう信じて、ここで過ごしてきた。
長い時間をかけて。
ひとつずつ、積み上げて。
そのはずだった。
それなのに――
今、目の前にいる。
人間が。
この場所に。
この、最後の時に。
蛇は動かない。
だが、視線だけは、その存在を捉え続けていた。
承知いたしました。続けます。
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蛇は、もともと人間に強い興味と関心を持っていた。
まだ、この身が木の枝よりも細く、小さかった頃のこと。
あれは――九十九年も昔。
偶然、出会った人間がいた。
その人間は、語った。
長い年月を生きる存在の話を。
やがて形を変え、天へと至る存在の話を。
“竜”という、遠い高みの話を。
その言葉が、すべての始まりだった。
あの時から。
この身は、変わり始めた。
何を食べるべきか。
どこで過ごすべきか。
何を避けるべきか。
すべては、その人間から得た知識をもとに築かれていった。
人間は、知っていた。
いや、知りすぎていた。
だからこそ、その存在は危険でもあった。
関われば、道を誤る可能性がある。
だから――
避けた。
遠ざけた。
一切の接触を断ち、
ただ、竜になることだけに集中した。
それからはずっと。
誰とも関わらず。
誰も近づけず。
この山で。
この池で。
ただ、時間だけを積み重ねてきた。
だが――
あと一ヶ月を切ったこの時。
蛇の心に、わずかな綻びがあったのかもしれない。
人間。
その存在への、かすかな興味。
長い年月で封じてきたはずの感情が、
ほんの一瞬だけ、揺らいだ。
それは――
油断。
あるいは、
ただの、興味。
その違いは、もう分からない。
ただ確かなのは、
この静かな世界に、初めて“異物”が入り込んだということだった。




