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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
天の皇を目指すものー
278/322

泉の主ー

承知いたしました。本文を書きます。



山の奥。


人の気配がほとんど届かない場所に、その池はあった。


風が吹けば、水面が静かに揺れる。


音は、それだけ。


鳥の声も遠く、ただ世界から切り離されたような静寂が広がっている。


水は澄んでいる。


底まで見えるほどに透明で、光が差し込めばゆらゆらと揺れる影だけが、そこに存在していた。


その水底に――それはいた。


細く、長い身体。


淡い鱗が光を受けて、かすかに反射する。


蛇。


じっと、動かない。


呼吸すら感じさせないほどに、静かに。


長い時間、そこに在り続けている存在。


流れる水も、沈む葉も、季節の移ろいも。


すべてを、ただ通り過ぎるものとして見てきた。


関わらない。


触れない。


何にも、干渉しない。


それが、この存在の在り方だった。


積み重ねてきた時間は、百年に近い。


そのすべてを、“竜になる”ためだけに費やしてきた。


余計なことはしない。


感情も、不要。


ただ、生きる。


ただ、待つ。


その先にある変化だけを、求めて。


そして――


あと、わずか。


その時は、確実に近づいていた。


身体の奥に、確かな兆しがある。


これまでとは違う。


何かが、変わり始めている。


近い。


あと、ほんの少し。


それだけでいい。


それだけで――


届く。


蛇は、ただそこにいた。


静かに。


何も求めず、何も見ず。


ただ、“その時”を待ちながら。


蛇は、百年を生きれば竜になる。


ただ生きるだけでは足りない。


人を避け、争いを避け、穢れに触れず。


静かに、ただひたすらに時を重ねる。


風に身を任せず。


欲に溺れず。


何にも染まらず。


そうして百年を越えたとき、


その身は天へ昇る資格を得る。


鱗は光を帯び、


肉は変質し、


大地に縛られた存在は、空へと解き放たれる。


竜。


雲を呼び、風を従え、


天を泳ぐ者。


だが――


その道は、あまりに細い。


たったひとつの接触。


たったひとつの穢れ。


それだけで、すべては失われる。


鉄に触れれば終わるとも、


人の気配に深く関われば断たれるとも、


さまざまに語られている。


確かなのはひとつ。


“関わらないこと”。


それだけが、百年を繋ぐ唯一の道。


だから、蛇は選ぶ。


見ない。


触れない。


何にも、ならない。


すべてを捨てて、ただ“竜になる”ためだけに生きる。


その先にしか、到達できない場所があると知っているから。


水底にいるそれも、また同じだった。


流れる時の中で、何も拾わず、何も残さず。


ただ、静かに積み重ねてきた。


そして今。


その百年の果てが、すぐそこまで来ている。


承知いたしました。続けます。



この池の主である蛇もまた、竜を目指していた。


水底に横たわるその身体は、すでに人のそれを越えている。


長い。


しなやかに伸びた身体は、水の中でゆるやかな曲線を描き、


その一部が動くだけで、水面にまで微かな揺らぎが伝わる。


太さもある。


細い生き物ではない。


積み重ねてきた年月が、そのまま形になったかのように、


確かな質量を持って、そこに存在していた。


鱗は淡く光を返す。


鈍く、しかし確かに。


ただの蛇ではないと分かるだけの、静かな異質さ。


だが、それでも――


まだ“竜”ではない。


翼はない。


空を知る術もない。


大地と水に縛られたままの存在。


だからこそ。


動かない。


無駄な動きは、一切しない。


ただ、そこに在る。


その長い身体を、水底に預けたまま、


時が満ちるのを、待ち続けていた。


承知いたしました。続けます。



九十九年と、十一ヶ月。


気の遠くなるような時間。


だが、それは確かに積み重ねられてきた。


この身に。


この場所で。


逃げることなく、ただひたすらに。


竜になるために。


余計なものは、すべて捨ててきた。


興味も。


衝動も。


本来なら持っていたはずの、生き物としての欲すらも。


関わらない。


触れない。


見ない。


ただ、それだけを守り続ける。


それがどれほど退屈であろうと、


それがどれほど空虚であろうと。


すべては――その先のため。


積み重ねてきた時間は、裏切らない。


身体の奥で、それが分かる。


確実に、変わり始めている。


これまでとは違う。


内側から、何かが満ちてくる。


近い。


あと、ほんのわずか。


それだけで届く。


願いが、叶う。


長い間、ただひとつだけ抱き続けてきたもの。


“竜になる”。


それが、現実になる。


もうすぐだ。


もうすぐ――


その時が来る。


承知いたしました。続けます。



ある夜。


静まり返った池に、わずかな変化が訪れる。


足音。


かすかな、人の気配。


この場所には似つかわしくない、それが近づいてくる。


蛇は動かない。


だが、その存在は確かにそれを捉えていた。


水越しに、影が揺れる。


やがて――姿が現れる。


銀の髪。


夜の闇の中でも、わずかに光を拾って浮かび上がる。


少年だった。


細い体つき。


だが、その動きには迷いがない。


ためらいもなく池の縁まで歩み寄ると、慣れた手つきで道具を広げ始める。


釣り。


どうやら、魚を狙っているらしい。


こんな場所に。


こんな時間に。


蛇は、ただそれを見ていた。


水底から。


動かず。


息を潜めたまま。


人間。


本来なら、関わるべきではない存在。


見ない。


意識しない。


それが、これまで守ってきた掟。


だが――


視線は、離れなかった。


少年は、何も知らない。


この池に何がいるのかも。


どれほどの時間が、ここに沈んでいるのかも。


ただ、そこに座り、


静かに、糸を垂らしている。


波紋が広がる。


わずかな揺れが、水底に届く。


蛇は、じっと見ていた。


ただの人間。


それ以上でも、それ以下でもない。


本来なら、そう判断して終わるはずの存在。


それなのに――


なぜか。


その姿が、意識から外れなかった。


承知いたしました。続けます。



人を見たのは、いつ振りだったか。


思い出せない。


それほど遠い昔のことだ。


人に触れれば、竜化は妨げられる。


そう教えられ、そう理解した。


だからこそ、すべてを断った。


人の気配のない場所を選び、


この山へと来た。


この池へと、辿り着いた。


ここには誰も来ない。


誰も近づかない。


静かで、冷たく、何も起こらない場所。


それこそが、望んだ環境だった。


何も起きなければ、何も失わない。


ただ時間だけが流れ、


やがてその先に、竜へと至る。


そう信じて、ここで過ごしてきた。


長い時間をかけて。


ひとつずつ、積み上げて。


そのはずだった。


それなのに――


今、目の前にいる。


人間が。


この場所に。


この、最後の時に。


蛇は動かない。


だが、視線だけは、その存在を捉え続けていた。


承知いたしました。続けます。



蛇は、もともと人間に強い興味と関心を持っていた。


まだ、この身が木の枝よりも細く、小さかった頃のこと。


あれは――九十九年も昔。


偶然、出会った人間がいた。


その人間は、語った。


長い年月を生きる存在の話を。


やがて形を変え、天へと至る存在の話を。


“竜”という、遠い高みの話を。


その言葉が、すべての始まりだった。


あの時から。


この身は、変わり始めた。


何を食べるべきか。


どこで過ごすべきか。


何を避けるべきか。


すべては、その人間から得た知識をもとに築かれていった。


人間は、知っていた。


いや、知りすぎていた。


だからこそ、その存在は危険でもあった。


関われば、道を誤る可能性がある。


だから――


避けた。


遠ざけた。


一切の接触を断ち、


ただ、竜になることだけに集中した。


それからはずっと。


誰とも関わらず。


誰も近づけず。


この山で。


この池で。


ただ、時間だけを積み重ねてきた。


だが――


あと一ヶ月を切ったこの時。


蛇の心に、わずかな綻びがあったのかもしれない。


人間。


その存在への、かすかな興味。


長い年月で封じてきたはずの感情が、


ほんの一瞬だけ、揺らいだ。


それは――


油断。


あるいは、


ただの、興味。


その違いは、もう分からない。


ただ確かなのは、


この静かな世界に、初めて“異物”が入り込んだということだった。



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