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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
森の奥に潜むものー
269/327

狼皇と呼ばれてー

暗い森の奥で、何かが蠢いていた。


日の当たらない岩陰に、ひっそりと。

だが、その“存在”だけは異様なほど強く、重い。


周囲の動物も、低位の魔獣すらも近寄らない。

本能が告げている――そこに触れてはいけない、と。


それは、巨大な狼の頭だった。


だが、正確には“狼”ではない。

狼に似た、何か。


黒ずんだ毛並みはほとんど失われ、

むき出しの骨がわずかに覗いている。


それでも、その頭はただそこに“在り続けていた”。


うめくこともない。

唸ることもない。


ただ、静かに横たわっている。


――生きているのか、死んでいるのか。

その境界すら曖昧なまま。


それでも、確かに“何か”はそこにあった。


やがて、その片目がゆっくりと開く。


虚ろな瞳。

そこには何も映っていない。


光も、意思も、焦点もない。


ただ一度、目を開いただけ。

視線を動かすこともなく、そのまま――また静かに閉じられる。


生きてはいる。

だが、それ以上でも、それ以下でもない。


ただ“そこにある”だけの存在。


その頭がいつからそこにあるのか。

なぜ首だけが残されているのか。


答えを知る者は、誰もいない。


いや――


もし知っている者がいるとすれば。


それは、この狼自身だけなのかもしれない。


暗い。


冷たい。


――遠い。


何も見えない。

何も触れない。

何も、届かない。


ただ、そこに在る。


意識だけが、わずかに残っている。


時間の感覚はとうに壊れている。

どれほどの時が流れたのかも分からない。


それでも、消えない。


薄く、細く、途切れそうになりながらも――

確かに、ここに在る。


やがて、片目が開く。


虚ろな視界。


何も映らない。


見えるはずのものも、見えないものも、

ただ通り過ぎていく。


視線は定まらない。


何も追わない。


何も求めない。


そして、また静かに閉じる。


――まだ、終わらない。


ただそれだけが、かすかに残る。


もはや痛みはない。

苦しさもない。


何も見えない。

何も聞こえない。


ただ――光だけが、わずかに感じられる。


それも、あるのかどうか分からないほどに薄く。


死ぬこともできない。

生きているとも言えない。


その狭間に、ただ留まっている。


曖昧なまま。

境界のないまま。


どれほどの時間が過ぎたのかも分からない。


何年なのか。

あるいは――昨日からのことなのか。


時間の感覚すら、とうに壊れている。


ただ一つだけ確かなのは、


――ここに、まだ“在る”ということだけ。


やがて、変わらない日々の中に、わずかな変化が訪れる。


真夜中。

月明かりも届かない暗闇の中。


――強い光。


狼は、それを感じ取る。


なんだこれは。

眩しい。


ぼんやりとした思考が、かすかに揺れる。


わずかに残った魔力の残滓のようなものを、右目へと集める。

それを“見る”ために。


ゆっくりと、片目を開く。


そこにいたのは――少年だった。


右手から、強い光を放っている。


だが、その光に魔力は感じられない。


ただの光。


照明のように、ただ周囲を照らすための光。


少年は少し離れた場所に立ち、

不思議そうな顔でこちらを見ている。


――それはそうだろう。


こんなものが、目の前にあれば。


不思議に思うのは、当然だ。


帰るがいい。


そのまま、家へ。


ここにいるべきではない。


たとえ――自分が、かつて“狼皇”と呼ばれた存在であったとしても。


今の我は、魔族だ。


人間にとっては、害でしかない。


――障る。


だから。


近づくな。


近づくな、少年。


……来るな。


来るな……。


――来るなと言っている。


だから、来るなって!!


少年は、躊躇することなく近づいてきた。


狼の頭のすぐ目の前まで。


その距離はあまりにも近い。


頭は、少年の身体よりも遥かに大きい。

それなのに――少年は怯えない。


ためらいもない。


まるで、そこにあるものが危険だという概念そのものを知らないかのように。


少年はまず、狼の唇に両手を添えた。

持ち上げるように、ぐい、と触れる。


次に、開いた右目の前で手のひらをひらひらと振る。


光に反応するかを確かめるように。


さらに、耳に手を伸ばし――

そのまま、軽く引っ張る。


自由だ。


あまりにも、自由すぎる。


狼は、ただそれを見ていた。


何もできないまま。


何も言えないまま。


思考が、ゆっくりと浮かぶ。


――なんだ、この子供は。


警戒心も。


恐怖心も。


……知らないのか。


少年は、やがてその場を離れた。


ようやく、静寂が戻る。


……そう思ったのも束の間。


すぐに、また戻ってきた。


そして、迷いなく両手を差し出す。


その手のひらには、わずかな水がすくわれていた。


どうやら、近くの小川から汲んできたらしい。


少年はそれを、そのまま狼の口元へと押し当てる。


ためらいもなく。


強引に。


水が、唇に触れる。


喉へと流れ落ちていく。


――水。


久しく、触れていなかったもの。


その量はあまりにも僅かで、

喉の渇きを癒やすには到底足りない。


それでも。


それでも――


狼の内側に、何かが落ちていく。


乾ききっていたものが、ほんの少しだけ、満たされる。


思わず、思考が漏れる。


――水とは。


こんなにも――


……美味いものだっただろうか。


それから少年は、幾度となく現れた。


いつも――夜。


夜ばかりだ。


狼は、それが気になっていた。


夜の森は、危険だ。


魔物が潜み、何が潜んでいるか分からない。


――大丈夫だろうか。


無事に、家へ辿り着いているのか。


それとも――どこかで倒れてはいないか。


答えは、次に少年が現れる時まで分からない。


だから、待つ。


ただ、待つしかない。


少年の気配を、ただ待つ。


そして、現れるたびに――


狼の中で、何かが揺れる。


それは、これまでに感じたことのない感情だった。


焦りとも違う。


苛立ちとも違う。


ただ――


ひどく落ち着かない。


胸の奥が、ざわつく。


ヒヤヒヤと。


ドキドキと。


長い、長い沈黙の中で、忘れていた感覚。


それが、少年によって引きずり出されていく。


――次は、いつ来る。


――無事に来るのか。


気付けば、待っている。


ただの訪問を、待っている。


やがて、昼間にも人影が現れるようになった。


それは、夜に来る少年とは違う存在だった。


黒髪の少女。


彼女は最初、遠くからこちらを見つめるだけで、決して近づこうとはしなかった。


森の境界線のような位置で立ち止まり、

ただ、静かに様子をうかがっている。


警戒しているのか。


それとも、何かを感じ取っているのか。


狼は動かない。


ただ、彼女を見ていた。


何度目かの訪問のとき――


少女は、ほんの少しだけ距離を詰めた。


一歩。


さらに一歩。


そして、恐る恐るという様子で手を伸ばし――


狼の鼻に触れた。


そっと。


確かめるように。


狼は、思考が止まる。


――なんだ、この小娘は。


夜の少年とは、まるで違う。


ためらいがある。


慎重さがある。


だが、それでもなお――


触れてくる。


逃げない。


――なぜだ。


理解できない。


理解できないはずなのに――


その指先に、妙な感覚が残る。


それからというもの――


日を置いて、少年と少女が訪れるようになった。


狼には、分からない。


なぜ彼らが、こんな――首だけの奇妙な存在に、関わろうとするのか。


普通の人間なら。


近づかないか。


あるいは――討伐するか。


だというのに。


彼らは、違った。


どうやら、世話をしているらしい。


水を。


木の実を。


食料を。


手に持っては、何の躊躇もなく口元へと運び――


無理やり押し込んでくる。


飲むことは、まだしも。


食べたところで、何になるというのか。


身体は、とうに朽ちている。


機能など、とうに失われている。


それでも――


少年と少女は、それを繰り返す。


何度でも。


少女は時に、布を湿らせて狼の身体を拭いた。


またある時は、櫛で毛を梳いた。


丁寧に。


静かに。


その手つきは、迷いがない。


狼は、それを受け入れている自分に気付く。


――なぜだ。


なぜ、拒まない。


なぜ、こんなことを許している。


だが。


その指先が触れるたびに――


妙に、落ち着く。


理由もなく。


ただ、心地よい。



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