いざ、西大陸へー
崖の上。
削り落とされたばかりの岩肌に、ベルはあぐらをかいて座っている。
肩には、白いコート。
風に揺れながら、静かに背を覆っている。
下では、波が打ち寄せる。
規則正しく、何度も何度も。
新しく削られた岩盤を、さらに少しずつ削り取っていく。
その音だけが、響いている。
ベルは、ただ海を見ていた。
何も言わずに。
その背後に――
そっと、足音。
ハーミットが近づく。
だが、ベルは振り返らない。
気配だけで、分かっている。
「悪ぃ」
ぽつりと。
「……あんたに謝らせたかったんだけどな……」
ハーミットは、何も言わない。
ゆっくりと眼鏡を外す。
そして、目を閉じる。
風が、髪を揺らす。
「いいのよ」
静かな声。
「今更謝られても……許せるわけじゃないし」
淡々とした言い方。
だが、その奥には、消えない感情が残っている。
ベルは小さく息を吐く。
「……それでも、やっぱごめんな」
短く、それだけ。
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて――
小さな足音。
ミリィが、少し遅れてやってくる。
二人の後ろで立ち止まり、海を見る。
そして、恐る恐る口を開く。
「……タブラスカさん、どうなったんですか?」
ベルは、視線を外さない。
海を見たまま、答える。
「……わかんねぇ」
一拍。
「わかんねぇけど……さすがにあの状況じゃぁ……」
言葉を、濁す。
その先は、言わない。
ミリィも、目を伏せる。
それ以上、聞かない。
波の音だけが、三人の間を埋めていく。
静かで――
重い時間が、流れていた。
ハーミットが、静かにベルの隣に立つ。
波音の中で、ぽつりと告げる。
「一応、言っておくけど……彼、たぶん無事よ」
ベルの肩が、わずかに動く。
「は?」
思わず、振り返る。
ミリィも顔を上げる。
「わ、わかるんですか!?」
ハーミットは答えず、ワンピースの胸元へ手を差し入れる。
わずかに布が揺れ――
取り出したのは、小さなペンダントだった。
細いチェーンの先。
淡く光る宝玉のようなものが、静かに脈打っている。
ミリィが目を凝らす。
「……それは?」
ハーミットは視線を落とし、その光を見つめる。
「これは、彼――タブラスカの“英雄核”と反応するように作られている魔法具よ」
指先で、宝玉を軽く揺らす。
光が、かすかに強まる。
「精神や肉体の安定度を確認するためのものなのだけれど……」
一拍。
「弱々しくはあるけど、反応が確認できるわ」
淡々とした口調。
だが、その言葉は確かだった。
「もし死んでたら、反応しないもの」
ベルの目が、わずかに見開かれる。
「……つまり?」
ミリィが、息を詰めて問いかける。
「タブラスカさんは……生きてる?」
ハーミットは、小さく頷く。
「正解」
波音が、また静かに響く。
だがその響きは、さっきまでとは少しだけ違っていた。
ベルはしばらく黙ったまま、海を見つめていた。
やがて――
「そっか……そうか、そうなんだな」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
その声には、わずかな安堵が混じっていた。
ゆっくりと立ち上がる。
肩に掛けていた白いコートを外し、そのままハーミットへ差し出す。
無言で受け取られる。
ベルはそのまま、水平線へと視線を向ける。
遠く、どこまでも続く海。
「……ってことは、あいつが現れるなら……」
その先を、ハーミットが引き取る。
「そうね。西大陸に向かうでしょうね」
迷いのない答え。
ベルは小さく頷く。
「それなら俺も――」
一歩、踏み出す。
風が吹き抜ける。
「西大陸へ向かうぜ!」
その声は、まっすぐに海へ向けて放たれた。
ハーミットが、コートを軽く肩に掛け直す。
そのまま、何でもないように言う。
「私も同行するわ」
ミリィが目を瞬かせる。
「……ハーミットさんも?」
当然、といった顔で顎を上げる。
「当たり前でしょ?」
視線は海の向こう。
だが、その声には確かな意志がある。
「私には、彼の行く末を見届ける責任がありますから」
ベルはそれを聞いて、ふっと笑う。
「そりゃ心強いぜ」
軽く肩をすくめる。
「西大陸のこと、何も知らねぇしな」
ハーミットは一瞬だけ言葉に詰まり――
すぐにそっぽを向く。
「ま、まぁ……」
わずかに咳払い。
「私なら西大陸の地理や情勢にも通じてますからね」
少しだけ早口になる。
「当然よ、当然」
その横顔に、ほんのわずかに照れが混じる。
ミリィはその様子を見て、小さく微笑んだ。
風が、三人の間を通り抜ける。
進む先は、決まった。
ベルは海から視線を外さずに言う。
「なんか、行き先に当てでもあるのかよ?」
ハーミットは一瞬きょとんとした後、ため息をつく。
「それは昨日教えたでしょ?」
そこで気づいたように、軽く額に手を当てる。
「……って、それは昼間のベルの方だったわね」
指で眼鏡を押し上げる。
「本当、ややこしいわね」
ベルは肩をすくめる。
「で、当てはあるんだな?」
ハーミットは、当然だと言わんばかりに口元を緩める。
「あるわ」
そのまま、まっすぐ前を見る。
「彼と私の国――ククルカナンよ」
わずかに声に重みが乗る。
「その宝物殿に、英雄タブラスカが使ったと言われる武器があるわ」
ベルは軽く鼻を鳴らす。
「なるほどな。英雄様は武器を取りに行きたいのか」
ハーミットは小さく頷く。
「おそらく……でも、間違いないでしょうね」
確信に近い声音。
ベルはそれを聞いて、ぐっと伸びをする。
「よし」
振り返る。
「それじゃ今夜は宿に帰って――」
一歩踏み出す。
「明日の朝一から向かおうぜ」
波音の向こうに、新しい旅路が伸びていた。
やがて街へ戻った三人は、人通りの中で自然と足を緩めた。
それぞれが、それぞれの宿へ向かう――
はずだった。
ベルとミリィが歩き出そうとした、その時。
ふいに、ベルの手が引かれる。
「どこへ行くの?」
振り返ると、ハーミットが当然のような顔で立っている。
「? だから宿に帰るんだが?」
ベルがそう言うと、ハーミットはじっとベルを見て――
次にミリィを見る。
そして、もう一度ベルを見る。
数秒の沈黙。
やがて、何かに納得したように小さく頷く。
そして。
ミリィの方へ、すっと前屈みになり――
両手を合わせた。
「ごめんなさいね。今夜から彼の相手は私がするから、あなたは一人で寝て頂戴」
ミリィの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「そ、そんなことしてません!!」
勢いよく否定する。
本気の声だった。
ハーミットはきょとんと目を瞬かせる。
「あら、そう」
首を傾げる。
「それなら話が早いわ」
何事もなかったかのように立ち上がり、今度はベルを見る。
「今夜から私の宿に泊まりなさい」
にこり、と微笑む。
ベルは少しだけ戸惑った顔をする。
「別にいいけど……なんで?」
ハーミットはさらりと言う。
「なんでも何も、そうしましょうよ」
理由になっていない。
ベルは頭をかきながら、横のミリィを見る。
「あー……よくわかんねぇけど、その方がいいのかな?」
ミリィは顔を真っ赤にしたまま、ぷいっとそっぽを向く。
「勝手にしてください!私に聞かないで!」
明らかに拗ねている。
ベルは困ったように眉をひそめる。
「なんだよ、また怒ったのかよ……」
状況が分かっていない顔で、ため息をついた。
ベルは頭をかきながら、気まずそうに口を開く。
「悪ぃ。いや、何が悪いか知らんけど……ミリィが怒るから、やっぱ自分の宿で寝るわ」
その一言で――
空気が変わる。
ハーミットの目が、すっと細くなる。
静かに、ミリィへと視線を向ける。
「……そ」
低い声。
「そういうのが好きというわけ?」
わずかに首を傾ける。
「私にあれだけ思わせぶりな態度を取って」
間を置いて、言い放つ。
「ひどくない?」
ベルが眉をひそめる。
「何言ってんだよ、あんた」
ミリィは顔をさらに赤くしながら、言葉を探す。
「そ……そういうのって……」
ハーミットは淡々と続ける。
「子供が好きなの?」
一切の躊躇もなく。
「そういう趣味なのね?」
ベルが即座に突っ込む。
「だからー、なんの話だよ?」
ミリィが、ついに声を張り上げた。
「私は子供じゃありません!!」
通りに、その声が響く。
一瞬、周囲の視線が集まる。
三人の間に、なんとも言えない空気が流れた。
ハーミットは、すっと表情を緩める。
だがその目は、どこか据わっていた。
「私、今回のことでとても傷付いたの」
一歩、ベルに近づく。
「心も身体も」
ベルは一瞬たじろぐ。
「お、おぉ……そうか」
ハーミットは小さく頷く。
「そうなの」
わずかに距離を詰める。
「だから癒されたいわけ、わかる?」
ベルは腕を組んで考えるように唸る。
「まぁ……傷付いたら療養ってやつ?必要って言うよな」
ハーミットの口元がわずかに上がる。
「そうでしょ?」
さらに一歩。
「わかるわよね?」
視線が真っ直ぐに刺さる。
「私は優しさを求めてるの」
少しだけ声を落とす。
「あなたは、タブラスカと違って優しいじゃない?」
ベルは肩をすくめる。
「知らんけど……まぁ女を殴ったりはしないな」
その言葉を待っていたかのように。
ハーミットがすっと手を差し出す。
「それじゃ、私の宿に行きましょう?」
迷いのない誘い。
ベルは一瞬止まり――
横を見る。
ミリィへ。
「どういうこと?」
ミリィは背中を向けたまま。
耳まで真っ赤にして。
「知・り・ま・せ・ん!!」
一音ずつ、強く言い切った。
その後も、三人のやり取りはしばらく続いた。
言い合いになりかけては逸れ、
逸れてはまた妙な方向へ転がり、
結局、収拾がつかないまま時間だけが過ぎていく。
気づけば、空は白み始めていた。
街は静かに朝へと向かい、
三人はそれぞれの宿へと引き上げることになる。
疲れ切った足取りのまま、部屋へ入る。
扉を閉めるのと同時に、力が抜ける。
そのまま、ベッドへ倒れ込んだ。
意識は、ほとんど残っていない。
靴も、服も、そのままに。
深く、沈むように眠りへ落ちる。
そして――
そこに眠っているのは、
もう銀髪の少年ではなかった。
黒髪の少女。
静かな寝息を立てながら、
何も知らないまま、朝を迎えていた。




