朝の日差しの下でー
朝の光が、静かに部屋へ差し込んでいた。
ベルはゆっくりと体を起こす。体の奥に、覚えのない疲労が残っていた。
視線を向けると、ミリィが椅子に座っている。目が合うと、少しだけ表情が引き締まる。
「ミリィ……昨日、何かあったよね」
ミリィは小さくうなずいた。
「……はい」
一度だけ息を整える。
「外で……タブラスカさんに会って……」
短く区切る。
「……途中で、戦いになりました」
ベルの眉がわずかに寄る。
「……彼、どうなった?」
ミリィの指先が、ぎゅっと握られる。
「……最後、止まって……」
視線が落ちる。
「……そのまま、動かなくなりました」
静かな声。
一瞬、空気が止まる。
ベルはすぐには言葉を返さない。
「……倒れたってこと?」
「いえ……立ったまま……」
「意識はあったの?」
「……反応、なかったです」
短いやり取りだけが続く。
ベルは目を伏せる。
「……そう」
それ以上、言葉は続かない。
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
ベルは指に嵌められた指輪に、ふと触れた。何かを確かめるように。
「……彼が、動かなくなるなんて」
小さく、呟く。
「……そんなふうに終わる人じゃ、ないよね」
誰に向けたわけでもない、やわらかい声。
ミリィは何も言わない。ただ、少しだけ視線を上げる。
ベルの横顔は穏やかなまま――それでも、どこか引っかかりを残していた。
ベルは目を伏せる。
「……そう」
それ以上、言葉は続かない。
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
ベルは立ち上がり、窓の方へ歩く。ゆっくりと外に目を向けた。
「……まるで、人が変わったみたい……かぁ」
ぽつりと、呟く。
あの穏やかな雰囲気に、優しげな笑顔の青年を思い出す。
「……あの人が」
小さく続けて、言葉を切る。
英雄核――いや、魔王核の影響。
そう考えれば、辻褄は合う。
むしろ、それ以外に思いつかない。
ビビと戦った時も、似たような話は聞いている。
ベルは視線を少しだけ落とす。
「……あいつが魔王殺しって呼ばれだして」
わずかに息を吐く。
「魔王を倒すなんて、言い出した時も……どこか、他人事だったけど」
窓の外を見たまま、静かに言葉を続ける。
「……どうしたって、関わらないわけにはいかないんだね」
声は穏やかだった。
けれど、その奥には、はっきりとした覚悟が滲んでいた。
ミリィは何も言わない。
ただ、静かにその背中を見つめていた。
ベルは窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。
朝の光が差し込む中で、その横顔だけがわずかに影を帯びている。
「ミリィから見て、どうだった?」
問いは静かだったが、どこか確かめるような響きがあった。
ミリィはすぐには答えず、少しだけ考える。
言葉を選ぶように、視線を落とした。
「…普通じゃなかった…としか言えません」
慎重に、ゆっくりとした声だった。
ベルがわずかに振り返る。
「普通じゃない?」
短く返す。
ミリィが小さく頷いた。
言葉を探すように、一度だけ間を置く。
「性格が変わったか…人格が変わったの前に…なんだか…支離滅裂というか。ベルさんとの会話も微妙に噛み合ってなくて…」
説明しきろうとはしていない。
それでも、見たままを伝えようとしているのは分かる。
ベルは視線を戻し、再び窓の外へと目を向けた。
「…魔王核の影響…かな」
ぽつりと落とされた言葉は、独り言に近い。
ミリィは少しだけ間を置いてから、静かに頷く。
「…たぶん」
短い肯定。
それ以上は踏み込まない。
部屋に、静かな沈黙が落ちる。
ベルはそのまましばらく動かず、何かを考えるように目を細めていた。
「…もう一度、彼と会って話をしないと」
やがて、ぽつりと口にする。
その声には、決意というより確認に近い色があった。
ミリィが顔を上げる。
わずかに迷いを含んだ視線。
「でも、もう昨日までのタブラスカさんじゃ…」
言葉は最後まで続かない。
その先を、言うべきか迷ったのだろう。
ベルは小さく息を吐く。
「それは会ってみないとわかんないよ。もしかしたら一時的なものかもしれないし、そうじゃなくても…」
言葉を重ねながら、ゆっくりと顔を上げる。
その動きは静かで、迷いがない。
「会わないことには始まらない」
はっきりと言い切る。
その声音には、確かな意志が宿っていた。
ミリィは何も言わない。
ただ、静かにベルの背中を見つめていた。
ベルは窓の外から視線を戻し、わずかに肩の力を抜く。
「とは言ったものの…あの2人のいる場所なんてわからないし」
独り言のように零す。
現実的な問題に思い至って、ほんの少しだけ表情が緩んだ。
ミリィは小さくうなずき、思い出すように言葉を添える。
「いつものレストランくらいですもんね」
それ以外に、はっきりとした当てはない。
ベルは腕を組み、少しだけ考え込む。
「うーん、昨日の状況からすると可能性は低いけど、とりあえず後で行ってみよっか」
軽く言いながらも、その声にはどこか探るような響きが残っていた。
ミリィが頷く。
ベルはふとミリィの方を見て、やわらかく目を細めた。
「でもミリィも大変だよね」
ミリィは少しだけ首をかしげる。
「なんですか?」
唐突な言葉に、戸惑いがにじむ。
ベルは小さく首を振り、軽く笑った。
「ううん、私の旅に同行したことで、いろんなことに関わることになっちゃって」
その声音には、どこか申し訳なさが混じっている。
ミリィは一瞬だけ考え、それから静かに口を開いた。
「あぁ…それはたしかに、そうかもしれません」
否定はしない。
事実として受け止めた上で、言葉を続ける。
「ベルさんと旅するようになって、いろんなものを見て聞いて、経験できて…楽しいです」
言い終えると同時に、ミリィがにっこりと笑う。
その笑顔は、無理をしたものではなかった。
ベルは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それからやわらかく笑う。
「そっかぁ…ミリィは本当強いなぁ」
ミリィはすぐに返す。
「そうですか?」
当たり前のような口調だった。
ベルはくすりと笑う。
「そうだよ」
ミリィは少しだけ視線を揺らす。
「…そう、ですか?」
ベルは迷いなくうなずいた。
「そうだよー」
ミリィは小さく首をかしげる。
「そう…なのかな?」
ベルは軽く肩をすくめる。
「そうだってば」
やり取りは穏やかで、どこかくすぐったい空気を残していた。
二人が着替えを済ませ、顔を洗い、外へ出る頃には、すでに日は高く昇っていた。
柔らかな朝の空気は消え、街には昼の賑わいが広がっている。
ベルとミリィは並んで歩き出す。
向かう先は、決まっていた。
いつもの、彼らがよくいたレストラン。
あそこなら、というわずかな可能性にすがるように。
いないかもしれない。
いたとしても、もう以前の彼とは違うのかもしれない。
胸の奥に浮かぶ不安を、ベルは言葉にはしない。
けれど、足は止まらなかった。
会わなければ、始まらない。
たとえ変わってしまっていたとしても――
変わったという事実を、自分の目で確かめなければならない。
そのために、二人は歩いている。
通りを歩く二人の足取りは、自然と早まっていた。
人通りの中、視線を巡らせながら進む。
その時、ミリィが唐突に声を上げる。
「あ、あれ?ベルさん…あれは」
指差す先に、ベルも視線を向けた。
つば広の帽子を被った、金髪の女性が歩いている。
白いコート。服の上からでも分かる、モデルのように整った立ち姿。
ベルはすぐに確信する。
「間違いない。ハーミットさんだよ!」
二人は足を速め、少し前を歩くその背中へと近付いていく。
だが、その歩き方に、わずかな違和感があった。
どこか身体を引きずるように、均衡が崩れている。
ベルが後ろから声をかける。
「ハーミットさん!」
呼びかけに、ハーミットがぴたりと足を止める。
ベルとミリィはすぐに追いつき、横から帽子の奥を覗き込むように話しかけた。
「よかった!ちょうど2人に会いたくて…」
その言葉の途中で、ベルの声が止まる。
ミリィも、小さく息を呑むように声を漏らした。
帽子の下に見えた顔は、明らかに様子が違っていた。
眼鏡の片方のレンズにはヒビが入り、頬にはガーゼが貼られている。
顔には青あざや擦り傷がいくつも残っていた。
ハーミットは、二人の声に反応を示さない。
ただ、ゆっくりと視線だけを向ける。
その目には、言葉の代わりの何かが宿っていた。
ベルはわずかに息を詰め、それでも問いかける。
「…その傷、一体何があったんですか?」
ハーミットが、どこか力の抜けた声音で口を開く。
「あぁ…あなた達ね。おはよう。いい朝ね」
その言葉は場違いなほど穏やかで、今の姿とはひどく噛み合っていなかった。
ベルは思わず一歩踏み出す。
「ハーミットさん…その傷、どうしたの?」
問いかけられて、ハーミットは初めて気付いたかのように、自分の頬へと手をやる。
指先がガーゼに触れる。
「あぁ、これね。なんでもないわ。気にしないで」
軽く流すような返答。
だが、その態度が余計に異様だった。
ベルは眉を寄せる。
「気にするでしょ。そんなに傷だらけなんて…」
言いながら、ふと視線が止まる。
頬に触れている右手。その袖口から覗いた腕にも、はっきりとしたあざが見えた。
ベルの表情が変わる。
「ちょっと、ごめんなさい!」
ためらいなく、ベルがハーミットの腕を両手で掴む。
その瞬間、ハーミットの顔が歪んだ。
「…つっ!いいの、やめて!」
痛みに耐えるような声。
それでもベルは構わず、白いコートの袖を捲る。
露わになった白い腕には、やはりいくつもの打ち身や傷が刻まれていた。
ベルの息が詰まる。
「何これ..,ひどい」
思わずこぼれた言葉。
改めて視線を落とすと、首元やわずかに開いた胸元、そして両脚にも――ストッキング越しでも分かるほど、鮮やかな傷やあざが見てとれた。
その異様さが、否応なく目に焼き付く。
ハーミットが、かすれた声で言う。
「いいから…離して…」
ベルの両手を振り解き、そのまま袖を隠すように戻す。
傷を見せまいとする動きは、どこか必死だった。
ベルは一瞬だけ言葉を失い、それでも問いかける。
「…誰にやられたんですか?」
ハーミットはわずかに視線を逸らす。
「…誰だっていいでしょ…」
突き放すような言い方だった。
ベルの中で、ひとつの名前が浮かぶ。
「もひかして…タブラスカ、さん?」
ハーミットの視線が、ゆっくりと地面へ落ちる。
唇を噛みしめる。
答えは返ってこない。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
ベルはミリィの方を見る。
決意を固めた顔。
「ごめん!私これからタブラスカさんと話してくるから、ミリィは宿に帰っていて」
その声と表情を受けて、ミリィは何も言わずにうなずく。
そのやり取りを見て、ハーミットが顔を上げた。
「余計なことしないで!私たちのことはもう放っておいてよ!」
強い拒絶。
ベルはすぐに言い返す。
「そんなわけにいかないわ!女の子にこんなことして…黙ってられるわけ…」
その言葉の途中――
ハーミットの手が、ベルの胸ぐらを赤いスカーフごと掴んだ。
一気に距離が詰まる。
「やめて…ねぇ、お願いだからやめて」
低く、抑えた声。
その目は静かなのに、どこか焦点が定まっていない。
ベルは思わず息を呑む。
「…いいの…本当になんでもないから..,何もしないで、見なかったことにして」
懇願するような言葉。
ベルは戸惑いながらも、口を開く。
「…で、でも、そんなわけには」
ハーミットはベルの胸ぐらを掴んだまま、そのまま力を抜くように距離を詰める。
額を、ベルの胸に押しつける。
「あなたに…何がわかるの…汚れたことのないあなたに…私の気持ちが…わかるわけない」
押し殺した声だった。
けれど、その奥に滲む感情は隠しきれていない。
ベルは動けなかった。
視線を落とし、ただその頭を見下ろすことしかできない。
何か言おうとしても、言葉が出てこない。
触れることも、引き離すこともできず――ただ、立ち尽くす。
やがて、ハーミットの手が離れる。
胸元から力が抜け、距離が開く。
帽子に隠れたまま、その表情は見えない。
ハーミットはそのまま背を向けた。
「…この話はこれでおしまい。さようなら」
淡々とした声。
それ以上の感情は、外には出さない。
そのまま、身体をわずかに傾けるようにして歩き出す。
足取りは不安定で、それでも止まらない。
ベルは何も言えなかった。
ただ、遠ざかっていくその背中を見送ることしかできなかった。




