これは私の贖罪だからー
激闘のあった夜。
宿屋の一室。
灯りは落とされ、月明かりだけが、静かに床を照らしている。
ベッドの上で、タブラスカの呼吸が荒れている。
額を押さえ、身体を強張らせる。
抑えきれない何かが、内側から暴れようとしている。
ハーミットは、その様子を見下ろしていた。
無言。
しばらく、動かない。
やがて――ゆっくりと息を吐く。
一歩、近づく。
足音はほとんどしない。
タブラスカの前で立ち止まる。
伸ばしかけた手が、わずかに止まる。
ほんの一瞬。
指先が、かすかに震える。
視線は合わせない。
そのまま――触れる。
肩に。
びくりと、タブラスカの身体が反応する。
「……っ……」
短く、息が漏れる。
だが、振り払わない。
むしろ、抵抗する力が抜けていく。
ハーミットはそのまま距離を詰める。
背後へ回り込む。
腕を回す。
抱き寄せる。
密着する距離。
一瞬だけ、身体が硬直する。
触れ合う温度に、ほんの僅かな違和感が走る。
それでも――離れない。
「……まだ、落ち着かないのね」
低く、抑えた声。
返答はない。
ただ荒かった呼吸が、少しずつ緩んでいく。
ハーミットは目を閉じる。
そのまま、動かない。
逃げることも、強めることもせず。
ただ、そこにいる。
時間だけが、ゆっくりと流れる。
やがて――
タブラスカの肩の力が抜ける。
呼吸が、整う。
額の奥で暴れていた気配も、静かに沈んでいく。
「……はぁ……」
長く、息が吐き出される。
ハーミットは、目を開く。
わずかに顔を逸らす。
視線は合わせない。
その表情は、月明かりの影に隠れる。
だが――
ほんの僅かに、眉が歪んでいた。
嫌悪とも、疲労ともつかない、曖昧な感情。
それでも、腕は離さない。
むしろ、わずかに力が入る。
逃がさないように。
あるいは――
逃げないために。
「……これでいいのよ」
小さく、呟く。
誰に向けたものでもない。
自分に言い聞かせるように。
夜の静寂が、部屋を満たしている。
タブラスカの呼吸は、すでに落ち着いていた。
先ほどまでの荒々しさは消え、ただ深く、ゆっくりとした呼吸だけが残る。
それでも――
ハーミットは、腕を離さない。
背後から抱きしめたまま、わずかに目を伏せる。
しばらく、そのまま。
何も言わず、動かず。
やがて、小さく息を吐いた。
「……横になりなさい」
短く、静かな声。
命令でも、優しさでもない。
ただ、必要なことを告げるだけの声音。
タブラスカは、わずかに反応する。
逆らわない。
力の抜けた身体が、ゆっくりとベッドへと倒れる。
ハーミットはその動きを支えるように手を添える。
無駄のない動作で、体勢を整える。
まるで扱い慣れているかのように。
タブラスカが横になる。
その隣に、ハーミットも腰を下ろす。
一瞬だけ、動きが止まる。
視線は落としたまま。
感情は表に出さない。
だが、指先がわずかに強張る。
――それでも。
ゆっくりと、身体を倒す。
同じベッドの上に。
距離は近い。
触れ合うか、触れ合わないかの境界。
ハーミットは、わずかに身を寄せる。
自分から。
ためらいは、一瞬だけ。
そのまま、静かに寄り添う。
タブラスカの呼吸に合わせるように、間を詰める。
規則的な呼吸。
そのリズムに、同調するように。
やがて――
完全に重なるわけではない。
だが、離れてもいない。
曖昧で、歪な距離。
それが、二人の“正しい位置”のように。
「……これで...いいでしょ」
小さく、呟く。
目は閉じない。
ただ、天井の暗がりを見つめている。
その表情に、安らぎはない。
あるのは、ただの受容。
逃げないと決めた者の、静かな覚悟だけ。
夜明け前。
薄い光が、窓の隙間から差し込んでいる。
ベッドの上。
二人の身体は、同じ布団の中に沈んでいた。
静かな呼吸だけが、わずかに重なっている。
ハーミットの目は瞬きすることもなく天井を見上げている。だがその目に光はない。がらんどうのような目で天井を見ている。
やがて――
タブラスカが、ゆっくりと目を開ける。
何も言わない。
そのまま、身体を起こす。
布団が滑り落ち、露わになった肌に、冷たい空気が触れる。
一瞬もためらわず、ベッドから降りる。
足音は、ほとんどしない。
そのまま、扉へと向かう。
背後。
ベッドの上で、ハーミットがわずかに動く。
上半身だけを起こす――はずだった身体は、途中で止まる。
乱れた金髪が、顔にかかっている。
激しく掻き乱されたように、まとまりを失っている。
呼吸は浅く、まだ整いきっていない。
シーツを引き寄せる手も、わずかに鈍い。
投げ出されたままの脚。
崩れた姿勢。
その白い肌のあちこちに、はっきりと残る痕。
腕。
肩。
腰のあたりにも。
新しいあざの痛みに身体が引き攣る。
だが、ハーミットは、それを気にする様子もない。
ただ、ゆっくりと上半身を起こす。
シーツを掴み、胸元を隠す。
乱れた髪の隙間から、視線だけが動く。
タブラスカの背中を追う。
何も言わない。
ただ、見ている。
タブラスカは振り返らない。
扉に手をかける。
そのまま、外へ。
静かに、扉が閉まる。
音だけが、わずかに残る。
――完全に気配が消える。
ハーミットは、しばらく動かない。
視線は、扉の方へ向いたまま。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
シーツを押さえながら、ベッドから降りる。
その足が床に触れた瞬間――
わずかに、揺れる。
力が抜けかけたように。
細い脚を、赤いものが伝う。
内腿から、ゆっくりと。
一筋。
床へと落ちる前に、途切れながら。
ハーミットは、それを見ない。
気にも留めない。
ただ、そのまま歩く。
迷いなく、窓へ。
片手でシーツを押さえたまま、窓を開ける。
外の冷たい空気が流れ込む。
一瞬、目を細める。
そして――
小さく、唾を吐いた。
乾いた音が、闇の中に落ちる。
次の瞬間。
喉がひくりと引き攣る。
「……っ……」
えずく。
肩が震える。
片手で口元を押さえる。
息が乱れる。
こみ上げてくるものを、必死に押し戻す。
何度か、浅く呼吸を繰り返す。
その顔は――
明らかに歪んでいた。
嫌悪。
吐き気。
押し殺していた感情が、わずかに表に滲む。
それでも、声は出さない。
ただ、震えが収まるのを待つ。
やがて――
ゆっくりと、呼吸が整っていく。
ハーミットは窓の外を見たまま、動かない。
その目に、先ほどの感情はもう残っていない。
何もなかったかのように。
ただ静かに、立っていた。
おもむろにハーミットが呟く。
「耐えなさい、ハーミット……これしきのことくらい。なんでもないわ……」
夜空の月を見上げて、自分に言い聞かせるように。
「私は彼の身体を、もっと……肉体だけじゃない、精神まで、犯してしまったのだから……」
シーツを持つ手を強く握りしめる。
「これくらいの屈辱、痛みなんて……どうってことない」
下腹部に手をあてる。その奥の痛みを受け止めるかのように。
「これは贖罪、私の責任なのだから……」
「だから……耐えなさい」
静かな部屋の中で、その言葉だけが何度も反響する。
理屈で自分を縛りつけるように。
理解している。
すべてを把握していた。
それでも選んだのは、自分だ。
だからこそ――逃げてはいけない。
逃げてしまえば、この先のすべてが崩れてしまう。
そう思っているのに。
閉じた瞳の奥から、熱が滲み出す。
抑えようとすればするほど、感情は静かに崩れていく。
やがて――
涙が、こぼれ落ちる。
止まらない。
頬を伝い、静かに落ちていく。
それでも彼女は、顔を上げない。
ただ、耐え続けていた。
血が滲むくらいに、爪を噛みながら。




