ハーミット・バウアー
バーの奥、淡い光の下にハーミット・バウアーはひとり座っていた。
コートの裾は膝のあたりで静かに落ち、その下から赤いワンピースが柔らかく色をのぞかせる。脚を包む黒いストッキングは、光をわずかに吸い込みながら滑らかな線を描き、赤いハイヒールへと続いていた。
椅子に深く腰を下ろしているにもかかわらず、その姿勢は崩れない。背筋はまっすぐに伸び、指先の動きひとつにも無駄がない。
金色のストレートヘアは肩を越えてまっすぐに落ち、照明を受けるたびに淡く輝いた。白い肌に碧眼。眼鏡の奥にある視線は、どこまでも鋭く、何かを測るように静かに据えられている。
その顔には、常に強い緊張が宿っている。
眉はわずかに寄り、口元は固く結ばれている。怒りに似ていながらも、それは単純な感情ではない。
何かを守るために、何かを捨て続けてきた者の顔だった。
ハーミットはグラスを持ち上げる。
琥珀色の液体が、揺れるたびに光を砕く。
一口含む。
喉を通る熱は、すぐに消えていく。
残るのは、静かな重さだけだった。
その余韻の中で、ハーミットはカウンターに肘をつくこともなく、ただまっすぐに座り続けていた。
新しく注がれた酒が、再び彼女の前に置かれる。
透明な液体が、淡い光を受けてわずかに揺れる。
ハーミットはそれを見下ろしたまま、すぐには手を伸ばさない。
金色の髪が肩の上で静かに落ち、眼鏡の奥の碧い瞳が、グラスの表面に映る自分をぼんやりと捉えていた。
「……」
言葉にならない何かが、喉の奥で滞る。
亡命してからの五年。
あの場所を捨てた自分。
英雄を求めた自分。
そして今、ここで繰り返される研究の日々。
——これは、望んだ未来なのだろうか。
ハーミットの指先が、ゆっくりとグラスへ伸びる。
触れた瞬間、冷たい感触が皮膚に伝わった。
それだけで、現実に引き戻される。
彼女は一度、目を閉じる。
次に開いたとき、その瞳はわずかにだけ、強さを取り戻していた。
グラスを持ち上げる。
迷いなく、飲み干す。
喉を通る熱が、また静かに落ちていく。
だが今度は、完全には消えなかった。
胸の奥に、かすかな何かが残る。
それを押し込めるように、ハーミットは静かに息を吐いた。
「……まだ、終わっていない」
誰に言うでもなく、そう呟く。
その声は、先ほどよりも少しだけ、強く響いていた。
ハーミットは、少しだけ目を伏せたまま、静かにグラスを置いた。
琥珀色の液体は、もうほとんど残っていない。
それでも彼女は、迷いなくそれを手に取る。
指先がわずかに震えるのを、意識の奥で捉えていた。
「……自分の行いの責任は……自分で取らないと」
低く、確かめるように言葉を落とす。
そのまま、一気に喉へと流し込んだ。
熱が、鋭く身体の中を駆け抜ける。
視界の端が、ほんのわずかに揺らいだ。
だが、その揺らぎさえも彼女は押し込める。
グラスが空になると同時に、すぐにカウンターを軽く叩いた。
「……おかわりを」
しかし、返ってきたのは注がれる音ではなかった。
「飲み過ぎです」
低く、落ち着いた声。
マスターは、グラスに手を伸ばしかけたまま、静かに彼女を見ていた。
その視線は、責めるものではない。
だが、拒絶でもあった。
ハーミットは、わずかに息を止める。
言葉が、喉の奥で止まる。
何も、思い通りにならない。
グラス一つさえ、満たすことができない。
自分の意志ですら、簡単に否定される。
この世界は。
彼女はゆっくりと視線を落とし、拳を握りしめた。
白衣の袖の下、赤い布がわずかに揺れる。
眼鏡の奥の碧い瞳が、かすかに陰る。
それでも、完全には折れない。
しばらくの沈黙のあと、ハーミットは静かに口を開いた。
「……そう」
短く、それだけを言った。
そしてグラスから手を引くと、指先に残る感覚を確かめるように、ゆっくりと手を握り直す。
視線は、再び前へと向けられていた。
ハーミットは、グラスの縁に触れていた指先を、ゆっくりと離した。
視線が、ほんの一瞬だけ泳ぐ。
だがそれを悟られないように、静かに呼吸を整えた。
――明日。
心の中で、その言葉だけが落ちる。
彼の起動試験。
その名を直接口にすることはできない。
けれど、意識の奥でははっきりと輪郭を持ってそこにあった。
――これから、何が起きるのか分からない。
胸の奥に、静かな不安が広がる。
未知。
そして、それを自分がどう受け止めるのかも分からない。
ハーミットはわずかに目を細める。
それでも、表情は崩さない。
眼鏡の奥の碧い瞳に、かすかな揺らぎだけが残っていた。
グラスを持つ手に、わずかに力が入る。
そして、すぐにそれを自覚して力を抜いた。
――私は、一生逃れられない。逃げるわけにいかない。
誰に向けるでもない確かな意志が、静かに心の中に落ちる。
すべてはこれから始まるのだから。
その事実だけを、ハーミットは静かに受け止めていた。




