プロローグー
薄暗い魔術研究室の中央に、巨大な水晶の器が静かに佇んでいた。
床には精緻な魔法陣が幾重にも刻まれ、それぞれがゆっくりと呼吸するように明滅している。
水晶の器の内部には、澄み切った魔力の液体が満ちていた。
それは単なる水ではなく、精錬された魔力そのものが形を成したように、淡く光を帯びながらゆらめいている。
その中に、ひとつの存在が浮かんでいた。
白い髪、白い肌、青い瞳。
静止したまま揺らぐことのないその姿は、まるで完成された神像のようにすら見える。
ハーミット・バウアーは、その前に立ち尽くしていた。
白衣のようなコートの裾がわずかに揺れ、赤いハイヒールの音だけが、この静寂にやけに響く。
眼鏡の奥の視線は、まっすぐ水晶の中の少年を捉えている。
怒ったような表情は崩れない。だが、その奥には別の色が滲んでいた。
しばらく沈黙が続いた後、彼女は小さく息を吐いた。
「……結局、ここまで来てしまったわね」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、言葉にしなければ押し潰されそうだった。
水晶の中の少年は、目を閉じたまま微動だにしない。
白い髪、白い肌、青い瞳。
それは、彼女が知る“英雄”の理想に限りなく近い姿だった。
だが。
「あなたは、英雄じゃない」
静かに、しかし断言するように言葉が落ちる。
「……少なくとも、私が関わった“これは”」
指先が、水晶の表面に触れる。
ひんやりとした感触の奥で、魔力が微かに脈打つのを感じる。
「英雄なんて、作るものじゃなかった」
かすかに眉が寄る。
「それでも……作ろうとしたのは、私たちだ」
視線が一瞬だけ揺れた。だが、すぐに戻る。
「強力な複数の魔力回路、英雄の遺伝子、再構成された精神と肉体。ここまで揃えれば、理論上は“英雄”になるはずだった」
小さく、自嘲するように笑う。
「でもね、そんな単純な話じゃないのよ」
水晶の中の少年に、言い聞かせるように。
「“英雄であるべきだ”って押し付けられたものが、
本当に英雄になるとは限らない」
一瞬、彼女の声が少しだけ低くなる。
「むしろ、その歪みの方が問題よ」
再び沈黙。
彼女は視線を逸らさず、じっとその存在を見つめ続ける。
「あなたの中にある“英雄の意思”……それは、本当にあなた自身のもの?」
答えはない。
当然だ。
彼はまだ、目覚めていない。
それでもハーミットは、問いを投げ続ける。
「それとも……ただの模倣?」
自分に言っているのか、彼に言っているのか。
あるいは、その両方か。
彼女はゆっくりと目を閉じ、再び開いた。
「……私はね」
声は静かだが、芯があった。
「あなたみたいな存在を作るつもりなんてなかったのよ」
少しだけ、息が乱れる。
「もっと、違う形を想定していた」
拳が、わずかに握られる。
「少なくとも、“人間”としての尊厳を残したまま、
英雄という概念に近づける方法があると……そう思ってた」
短く息を吐く。
「でも結果はこれよ」
水晶の中の存在を見下ろす。
「……英雄“のようなもの”」
その言葉には、明確な拒絶があった。
だが同時に。
「でもね」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「ここで終わらせるわけにはいかない」
視線が、再び鋭くなる。
「私が関わった以上、責任は取る」
それは義務であり、贖罪であり、彼女自身の正義だった。
「だから……」
少しだけ間を置く。
「せめて、あなたが“何者になるのか”だけは、最後まで見届ける」
水晶の中で眠る少年に、視線を固定したまま。
ハーミットは、静かに立ち続けていた。




