影食いー
「影食いーか、いいじゃん!」
少年は、楽しそうに笑った。
今日はうまく話ができたらしい。
状況はすべて伝わっている。
羊が消えたことも。
囲いの様子も。
村人たちの反応も。
きちんと把握した上で、なお、その顔だった。
好奇心を抑えきれていない。
わけの分からない現象。
正体不明の存在。
それがどんなものなのか、確かめたい。
その思いだけが、はっきりと表に出ている。
危険かどうかは、分かっている。
それでも、興味が勝っていた。
「姉ちゃんが言ってたしな。犯人は現場に戻ってくるって」
少年は、ひとりごちるように呟いた。
足はすでに、村の外れへ向かっている。
夜の空気は冷たく、昼間とはまるで違う静けさに包まれていた。
人の気配は少ない。
灯りもまばらで、道の先はすぐに暗闇へと沈んでいく。
それでも、足取りに迷いはない。
目指す場所は決まっている。
あの、羊の囲いがあった家。
羊がいなくなるのは、普通に困る。
少年は、あの家から時々もらえるミルクが好きだった。
濃くて、少し甘くて。
他ではなかなか飲めない味。
それを分けてくれるなんて、ずいぶんいい人だと思っている。
そんなところの羊が消えるなんて、面白くない。
それに――
あの囲いで何が起きたのか。
それを、自分の目で確かめたい。
夜は静かだった。
音は少なく、気配も薄い。
だからこそ。
何かが起きれば、すぐに分かる気がした。
少年は歩く。
迷いなく、まっすぐに。
暗闇の中へと。
やがて、例の家が見えてくる。
村の外れにぽつりと建つ、見慣れた家。
その手前で、少年はわずかに足を緩めた。
静かすぎる。
昼間とはまるで違う。
灯りはある。
家の中には人がいるはずだ。
それでも、外には誰もいない。
気配が、ない。
この一件があってから、暗くなると外を出歩く者はいなくなったらしい。
以前なら、もう少し人の気配があった。
井戸へ向かう者や、遅くまで話し込む声。
そんなものが、夜には残っていた。
だが今は違う。
日が落ちれば、それで終わり。
扉を閉め、外には出ない。
まるで、夜そのものを避けるように。
少年は視線を動かす。
家の脇。
問題のあった囲いが見える。
昼間と同じまま。
何もない空間が、そのまま残されている。
風が吹き、乾いた草がかすかに揺れる。
それだけだ。
それ以上、何も起きていない。
だが――
何もないはずのその場所に、妙な違和感が残っている。
少年はゆっくりと近づいていく。
足音が、やけに大きく響いた。
囲いの前まで来て、少年は足を止めた。
昼間と同じ光景。
何もない囲い。
消えたままの、羊のいた場所。
しばらく、そのまま見ていたが――
特に何も起きない。
風が草を揺らすだけ。
音も、気配もない。
少年は小さく息を吐いた。
来たはいいが、どうするかは考えていなかった。
周囲を見回す。
隠れる場所はある。
囲いの影。
家の裏手。
積まれた薪の陰。
やろうと思えば、潜めることはできる。
だが、それでいいのかも分からない。
相手が来る保証もない。
そもそも、本当に“来る”のかすら怪しい。
考えても仕方がないことばかりだった。
少年は囲いの柵に手をかける。
軽く押す。
軋む音が、静かな夜に小さく響いた。
それだけで、少しだけ現実味が増す。
ここで、何かが起きた。
そして、また起きるかもしれない。
少年は、その場に立ったまま考える。
待つか。
それとも、何か動くか。
決めきれないまま、時間だけが過ぎていく。
夜は、静かだった。
分厚い雲が流れ、わずかに残っていた月明かりを覆い隠した。
一気に、周囲の輪郭が沈む。
囲いも、家も、闇の中に溶けていく。
「暗いなー……そうだ!」
少年は、ふと思いついたように顔を上げた。
手にはめた指輪へと、意識を向ける。
「アカリー、ちょっとなんか照らしてくれよ」
こっそりと、誰にも聞こえないように呟く。
その瞬間――
少年の両目から、眩い光が放たれた。
一気に周囲が白く弾ける。
囲いも、地面も、影まですべてを塗り潰すほどの強さ。
「うわっ、まぶしっ! やめやめっ、やめろっ!」
自分の視界ごと焼かれるような光に、少年は思わず目を押さえる。
慌てて手を振る。
途端に、光は消えた。
闇が戻る。
さっきまでの明るさが嘘のように、何も見えない。
「……あー、目がチカチカするー」
涙目のまま、少年は小さくぼやく。
しばらく瞬きを繰り返す。
残像が、視界の奥に焼き付いている。
やがて少しずつ、暗闇に目が慣れてくる。
ぼんやりと、囲いの輪郭が戻る。
そのときだった。
さっきの光で、影の位置が一瞬だけ変わっていた。
地面に落ちる影。
柵の影。
そして――
本来あるはずのない“もう一つの暗さ”が、そこに残っていた。
少年は、ぴたりと動きを止めた。
何かいる。
確信に近い感覚だった。
さっきまで何もなかったはずの場所。
空気の重さが、わずかに違う。
視線を向ける。
だが、焦点が合わない。
さっきの光のせいで、視界がまだぼやけている。
輪郭が滲み、距離感も掴めない。
それでも。
そこに、何かがある。
黒い。
いや、黒いというより――
“抜けている”。
そこだけが、周囲から切り取られたように、何も感じられない。
闇のはずなのに、ただ暗いのとは違う。
影とも違う。
深さも、広がりも、掴めない。
あるのかどうかすら曖昧なまま、そこに在る。
視線を向けているのに、捉えきれない。
見えているのに、理解できない。
ただ――
何かが、そこにいる。
それだけが、はっきりしていた。
少年は目をこすりながら、そちらを見た。
「なんだ……これは」
滲んでいた視界が、少しずつ戻っていく。
輪郭が定まり、囲いの形がはっきりする。
地面。
柵。
家の影。
すべてが、いつもの夜の姿に戻っていく。
だが――
その一点だけが、違っていた。
暗い。
ただ暗いのではない。
闇。
そこだけが、周囲の光を吸い込んでいるように見える。
影とも違う。
地面に落ちる影のように、何かに沿っているわけではない。
理由もなく、そこに在る。
輪郭は曖昧で、形も定まらない。
広がっているようで、収まっているようで。
距離すら掴めない。
それでも――
確かにそこにあると、分かる。
少年は、じっとそれを見る。
目を離さない。
理解できないものに対する、純粋な興味。
恐れよりも、そちらが勝っていた。
夜の静けさの中で。
それだけが、異質に存在していた。
「なるほど……これが影食いってやつか?」
少年の頬を、汗がひと筋伝う。
夜の冷たさとは別の、じわりとした熱。
背筋が、ぞくりと震えた。
本能的な何かが、触れるなと告げている。
近づけば危ないと、分かっている。
ほんのわずかな緊張。
そして、少しばかりの恐怖。
それでも。
胸の奥で、別の感情が膨らんでいく。
わくわくしている。
理解できないものを前にしたときの、純粋な高揚。
目の前にあるそれは、明らかに普通ではない。
見たこともない。
聞いたこともない。
それでも、確かに存在している。
少年は、ゆっくりと一歩踏み出す。
闇は、動かない。
ただそこに在る。
何もしてこない。
だからこそ。
なおさら、分からない。
分からないものを、もっと知りたくなる。
少年は、さらに一歩、近づいた。
少年に呼応するかのように。
それは、わずかに下がった。
ほんの僅か。
だが確かに、距離が変わる。
「こいつ……動くぞ」
少年は目を細める。
見間違いではない。
さっきまであった位置から、わずかにずれている。
近づけば、離れる。
触れようとすれば、避けるように。
意思があるのかどうかは分からない。
だが、反応している。
少年は、もう一歩踏み出す。
それに合わせて、闇もまたわずかに後ろへと引いた。
一定の距離を保つように。
逃げているのか。
それとも、誘っているのか。
判断はつかない。
ただ。
確かに“そこにいる”何かとして、動いていた。
少年の口元が、わずかに歪む。
怖さは消えていない。
それでも、それ以上に。
興味が勝っていた。
こちらの動きに合わせて、動く。
偶然ではない。
距離を取るように、わずかに下がる。
同じことを、繰り返している。
ということは――
意思が、ある?
「おまえ……一体なんなんだ?」
問いかける。
だが。
闇は、何も返さない。
動きも、止まる。
そこに在るだけのように、静まり返る。
沈黙。
風の音だけが、かすかに通り過ぎる。
少年は、じっと見続ける。
何かを待つように。
だが、返ってくるものは何もない。
言葉も、反応も。
ただ。
そこに、ある。
それだけだった。




