街道に立つものはー
月明かりの下、少年は一人で街道を進んでいた。
両頬には、真っ赤な手形の跡が左右で大きさを変えて残っている。
「あー参った。まさか目を覚ましたら、すでに縛られてるとは予想外だったぜ」
今夜、少年が目を覚ました時には、すでに手足は縛られていた。どうやら自分が入れ替わる前に、あらかじめ縛られていたらしい。
「てことは、あいつの策ってことか」
黒髪の少女の顔を思い浮かべる。
少年は散々謝り倒し、どうにかロープを外した瞬間、隙を突いてそのまま逃げ出してきた。
その時のことを思い出し、口元がにやりと歪む。
「姉ちゃんもシスターも、おっぱい揉んだくらいであんなに動揺するとは、まだまだ修行がたんねぇなー」
けらけらと笑いながら、両手をわしわしと動かす。まるで何かを揉むように。
夜の街道に、不釣り合いなほど軽い笑い声が響いた。
街道をしばらく進むと、地平線まで続きそうな道の先に、何かの気配があった。
まだ遠く、小さい。だが確かにそこに在るとわかる――重く、濃い存在感の影。
少年は足を止めることなく、そのまま歩みを進める。
夜の静けさの中、風の音だけが耳に残る。
それでも、視線はずっとその一点に向けられていた。
「……あれか」
ぽつりと呟く。
近づくにつれて、その影は輪郭を持ちはじめる。
細身の鎧。
月明かりを受け、無数の傷が鈍く光っていた。
首元からは、長い銀色の髪が背中へと流れている。
ぴたりと――道の中央に立ったまま、微動だにしない。
まるで、最初からそこに在ったかのように。
「へぇ……」
少年の口元が、ゆっくりと歪む。
「いいじゃねぇか」
その一歩が、静寂を壊した。
その鎧が本来の大きさに見える距離まで近付いたところで、少年は足を止めた。
じっと、鎧を見据える。
「よぉ、お前、ここで何してるんだ?」
返事はない。
鎧は応えない。
ただ、そこに在るだけ。
少年はしばらくその場に立ったまま様子を見ていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「無視かよ」
そう呟くと、今度は鎧の周りをぐるりと回りはじめる。
正面から、横から、背後から。距離を変え、角度を変え、じろじろと観察する。
それでも、鎧は一切動かない。
少年はさらに近付き、鎧の隙間へと顔を寄せた。
兜の奥、首元、関節の繋ぎ目。覗き込めそうな場所を一つ一つ確かめていく。
「……中、どうなってんだ?」
指先で軽く鎧をつついてみる。
かすかな金属音が夜に響く。
それでも反応はない。
「置物か?」
少年は一歩下がり、腕を組んで首を傾げる。
しばらく考えるようにしてから、ふっと口元を緩めた。
「……ま、いいか」
もう一度、鎧へと視線を向ける。
その目は、さっきまでの好奇心とは違う色を帯びていた。
少年はしばらく鎧の様子を見ていたものの、あまりの反応のなさに、少し飽きかけていた。
その場にどかっとあぐらをかいて座り込み、頬杖をつきながら鎧を見つめる。
「なーんで動かないんだ?」
ぽつりと零す。
何か条件があるのだろうか。噂によれば、戦うはずだ。戦うということは、動くはずだ。
「俺がガキだからって、舐めてんのか?」
少年は近くに落ちていた小石を拾い上げ、軽く放る。
乾いた音を立てて、石は鎧の兜に当たった。
――それでも、反応はない。
「なんか……つまんねぇなー」
気の抜けた声で呟き、左手の薬指にはめた指輪へと視線を落とす。
「カレン、どう思うー?」
指輪が、ほんのわずかに揺れた。
だが、それだけだ。
「なんだよ、カレンもかよー」
不満げに口を尖らせ、もう一度鎧へと目を向ける。
変わらず、そこに在るだけの存在。
それが、逆に妙に気に障った。
「せっかく来たんだ、試してみっか」
少年はゆっくりと立ち上がり、鎧の正面へと回る。
足を肩幅に開き、両手を前に出して軽く構えた。
「うりゃっ!」
「とりゃっ!」
「せいっ!」
空を切るように拳を振るうが、鎧は微動だにしない。
少年は一歩近付き、様子を伺いながら足先で軽く蹴ってみる。
――反応はない。
今度は兜に手を伸ばし、ぺちぺちと叩く。
――それでも、何も起きない。
少年は首を傾げた。
「なんだこれー?噂は嘘なのか?ぜんぜん動かねぇ」
視線を巡らせながら、周囲を見渡す。
誰かの手の込んだイタズラか――そんな考えが頭をよぎる。
「これだけ最後に試してみるか」
左手の指輪へと、意識を集中させる。
「カレン!俺に力をよこせ」
指輪がわずかに脈打つ。
内側から、熱を帯びた何かが湧き上がってくる。
それは血のように巡り、骨を軋ませ、筋肉を膨れ上がらせる。
少年の口元が歪む。
「――鬼の剛力!」
その瞬間、空気が重く沈んだ。
少年の身体に、力が溢れた。
骨の芯から湧き上がるような圧力が、全身へと広がっていく。
その瞬間――
鎧の目が、光った。
兜の奥、暗闇の中から、銀色の眼光がはっきりと浮かび上がる。
「おぉ!?」
思わず声が漏れる。
それまで一切動かなかった鎧が、ぎしり、と音を立てた。
ゆっくりと――ほんのわずかずつ、だが確かに。
少年の方へと向き直る。
その動きには無駄がなく、ただ“敵を捉える”ためだけの意志が感じられた。
やがて鎧は、腰に下げた剣へと手をかける。
迷いなく引き抜かれた刃が、月明かりを受けて淡く光る。
静寂が、一瞬だけ張り詰めた。
少年の口元が、楽しげに歪む。
「なんだよ!やっとやる気になったのか!」
鎧が静かに構えを取る。
それに応じるように、少年も腰を落とし、拳を握りしめた。そして名乗りを上げー
「いっくぞ!」
踏み込もうとした、その瞬間――
鎧の右腕が、消えた。
「なに!?」
次の瞬間、衝撃が横から叩きつけられる。
「――ああっ!」
少年の身体が弾かれ、地面を滑る。
遅れて、腹に走る熱。
いや――斬られていた。
消えたように見えた腕は、すでに振り抜かれていたのだ。
咄嗟に身体を捻ったおかげで、傷は浅い。皮膚一枚が裂けただけで済んでいる。
だが、それでも――一歩間違えば終わっていた。
少年は腹を押さえ、ゆっくりと立ち上がる。
「これ……カレンの身体強化がなけりゃ、今ので終わってたな」
血の滲む手を見て、小さく息を吐く。
鎧は何も言わない。
ただ、再びゆっくりと向き直り、剣を構える。
一切の迷いも、躊躇もない。
ただ“斬る”ためだけに存在しているかのように。
少年の口元が、僅かに吊り上がった。
少年はゆっくりと立ち上がる。
頬を、冷や汗が一筋伝った。
「ヤベェーヤベェー、こいつはヤベェぞ」
口では軽く言いながらも、視線は一切逸らさない。
足を踏みしめ、構える。
次の瞬間――
鎧が、消えた。
「――っ!」
反射で、両腕を十字に組み、そのまま頭上へとかざす。
直後、目の前に鎧が現れる。
大上段から、一直線に振り下ろされる一撃。
空気が唸る。
だが少年は、退かない。
むしろ――一歩、前に出た。
狙うのは刃ではない。
鍔と柄、その境目。
「そこだッ!」
重い衝撃が、両腕を通して全身を揺らす。
骨が軋み、地面が沈む。
斬撃の軌道がわずかに逸れ、少年の身体を掠めて流れていく。
そのまま、至近距離。
鎧との間合いは、ほぼ零だった。
両腕に走る痺れと痛みを無理やり押し込み、少年は踏み込む。
至近距離。
右の拳を、鎧の横腹へと叩きつけた。
「――ッ!」
鬼の剛力で強化された腕が、鋼鉄の装甲を歪ませる。
鈍い衝撃が走り、鎧の体がわずかに揺らいだ。
ほんの少しだけ、折れた。
「今だ!」
間を逃さず、左の拳を叩き込む。
連撃。
さらに踏み込み、体重を乗せた前蹴りを胴へと突き刺した。
衝撃が抜ける。
その反動を利用し、少年は後方へと大きく跳ぶ。
空中で一度、くるりと回転し――
静かに着地した。
足元の砂がわずかに散る。
鎧との距離が開く。
少年は肩を鳴らし、口元を歪めた。
「攻撃が効かないわけじゃーねぇってことだな」




