噂が噂を呼びー
山奥のこの村にも、時折、行商人が立ち寄ることがある。そんな時は村中が大騒ぎになる。見たこともない品物や食べ物、流行りものや噂話を求めて、人々はこぞって集まる。
黒髪の少女もまた、旅の行商人や立ち寄った者たちから、様々な話を聞けるのを楽しみにしていた。
「ふぅん、そんな噂があるんだー?」
行商人に雇われた、自称冒険者だという男が頷く。
「そうらしい。俺が見たわけじゃないから詳しくは知らんが、この辺じゃ今、その話で持ちきりさ」
得意げに語る男に、少女は素直に目を輝かせる。
黒髪の少女はまだ幼い。十歳ほどだろうか。だが、長く艶やかな黒髪に整った顔立ち、くるくると変わる表情は愛嬌があり、見る者の心を自然と惹きつけた。
子供とはいえ、どこか人を引き寄せる不思議な魅力がある。とりわけ、男性達には興味を持たれる事が多々あった。
男もまた、話をせがんできた少女を一目見たときから、どこか機嫌が良かった。鼻の下を伸ばしながら、知っている限りの話を惜しげもなく語っている。
「じゃー、そんな噂の鎧を倒しちゃったら、有名になれるねー」
少女が笑う。
「そらーそうよ!俺も会ったら勝負を挑みたいと思ってるんだが、何せ夜に街道を行くような依頼なんて、ほとんどなくてなー」
男は大袈裟に肩をすくめ、いかにも残念そうな態度を取る。
「仕事抜きに、戦いに行けばよくない?」
少女の純粋な問いに、男は一瞬だけ言葉に詰まった。
「俺は仕事の依頼がひっきりなしだからさ、そんな時間取れないのよ。あー残念だ残念だ」
ふぅん、と少女はつまらなさそうに呟くと、そのまま興味を失ったようにあっさりと立ち去っていく。
「おい、嬢ちゃん!名前、名前教えてくれよ!」
呼び止める声に、少女は足を止めた。
ゆっくりと振り返り――
溢れそうな笑顔で、名乗った。
「――なんだってー」
少女は、あの男から聞いた話を楽しそうに語った。
村の中にある、小さな名もなき教会の礼拝堂。三十人も入ればいっぱいになるほどの狭い空間に、場違いなほど大きな鏡が据えられている。
その鏡と向き合うように座り、少女はくすくすと笑っていた。
他に誰かがいるわけではない。
少女は、鏡と話をしていた。
――正確には、鏡の中に映る銀髪の少年と。
彼女の目の前にある鏡には、少女の姿は映っていない。
そこに映っているのは、十二、三歳ほどの、目付きの鋭い銀髪の少年だった。
鏡の中の少年が、口を開く。
「なんだそれー、めちゃくちゃ面白そうじゃねぇか」
少女もすぐに応じる。
「でしょー?あんたはこういう話好きだろうなーと思って」
少年は腕を組み、少し考えるような素振りを見せる。
「夜に出るってとこもいいな。俺にうってつけだ」
「そうだよね。昼間に出られたら、あんた会えないもんね」
そう言いながら、少女はふと眉を顰めた。
「あれ?ちょっと待って、また変なこと考えてないでしょーね?」
少年はきょとんとした顔をする。
「え?見に行こうと思ってるけど?」
「えー、やめてよー。夜中に抜け出してバレたら、また木に吊るされたり、蹴られたりするじゃない」
「いーだろー別に。やられるのは俺なんだから」
少女はむっと頬を膨らませる。
「私が直接何かされなくても、痛みが残ってたりしたら、私になった時にも痛いんだよ。ほんとにやめて?」
少年は、ふいと目を逸らした。
「ダメだよ?絶対やめてよ?起きた時に意味もわからずあちこち痛いのって、ほんとに怖いんだからね?」
少年はそのまま、少女に背を向ける。
「ちょっと!ほんとにやめてってば!怒るよ!?」
めんどくさそうに、少年が返した。
「もう怒ってんじゃん」
そこへ、小柄な少女が通りかかる。
「何ー?また2人で話してんの?」
黒髪の少女よりも五歳ほど年上のはずだが、その背丈はほとんど変わらない。短く切り揃えた金髪に、大きな目。そばかすが目立つ顔立ちをしている。
「そうだよー。毎日とはいかないけど、できる時は話しておかないと」
少女は笑いながら言葉を続ける。
「お互いに、昼のことも夜のことも、知っておきたいしね」
鏡の中の少年は、その姿が見えると、ばつが悪そうに目を逸らした。
金髪の少女が鏡の縁に手をかけ、ぐっと顔を寄せて鏡の中の少年を覗き込む。
「よぉー元気そうじゃねぇか?今夜、覚えとけよ?」
黒髪の少女はその様子を見て呆れたように肩をすくめる。
「えーなぁにー?またなんかやっちゃったのー?」
少年は露骨に目を逸らしながら
「別に…大したことじゃねぇよ」
金髪の少女の表情が一瞬で変わる。
「大したことない!?大したことないだと!?こちとら大アリだ!」
黒髪の少女はちょっと引きながら
「えー…ちなみに何したの?」
「こいつまた、私が風呂入ってるとこ覗いてやがったんだよ!」
黒髪の少女は顔を手で覆う。
「うわぁーそれは…やっちゃったね…私じゃないけど、私も謝る。ほんとにごめんね!」
「ごめんで済んだら警察いらねぇんだよ!」
金髪の少女が鏡越しに少年を睨みつける。
「なぁ?」
少年は面倒くさそうに
「見られて困るもん持ってねぇじゃん…」
一瞬の間。
「なんだとてめぇ!?誰が貧乳だ!?」
黒髪の少女が慌てて割って入る。
「言ってない言ってない!そんなこと言ってないよー!」
少年はさらにぼそっと
「…シスターが入ってると、思ったんだよ」
金髪の少女のこめかみがぴくりと動く。
「ああん!?間違えたってか!?間違えてつまんねぇもん見ちまったってか!?ふざけんな!」
「言ってない、言ってないよー落ち着いてー!」
黒髪の少女が必死に宥める横で、少年は完全にそっぽを向いたまま黙り込んでいた。
礼拝堂の中に、騒がしい声だけがやけに響いていた。
金髪の少女は、怒りを隠そうともせず振り返る。
「今夜は覚えとけよ。素っ裸にして村の広場に朝まで晒してやるからな!」
そう言い捨てると、そのまま乱暴な足取りで去っていった。
黒髪の少女は、その背中を見送りながら顔を引きつらせる。
「えー……それだと朝になったら、私が素っ裸で広場にさらされることになるんだけどー。本気でやめて」
鏡の前には、しばらく静かな空気だけが残った。
「そーゆーわけだから、今夜その街道の鎧ってやつに会ってくるぜ!」
鏡の中の少年が、軽い調子で言い放つ。
黒髪の少女は、あからさまに顔をしかめた。
「えー……今夜抜け出したら絶対バレるじゃん。私まで巻き込まないでよー」
心底嫌そうな声だった。
「大丈夫だ!なんとかなる!じゃーな!」
言い切ると同時に、鏡の中の姿がゆらりと揺らぐ。
次の瞬間にはもう、そこにいたはずの少年の姿は消えていた。
映っているのは、黒髪の少女ただ一人。
静まり返った礼拝堂の中で、少女はしばらく鏡を見つめていたが――やがて小さく息を吐いた。
「ほんと……早く普通になりたいです」
ぽつりと零れた言葉は、誰に届くこともない。
少女はゆっくりと立ち上がり、礼拝堂に立つ女神像へと向き直る。
両手を胸の前で組み、目を閉じる。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
静かな祈りだけが、そこにあった。




