ー奴隷の少女ー
街道を歩き続けて、半年。
季節は二度、ゆっくりと巡った。
最初はぎこちなかった足取りも、今では少しだけ自然だ。
ベルはひとり、街道を歩いている。
目的地は聖都。
だが――まだ遠い。
地図の上では一本の線でも、実際に足で辿れば、果てしなく長い。
「……まだ、あの辺かぁ」
小さなため息と一緒に、視線を遠くへ向ける。
聖都へ続く街道は、途中でいくつもの村や町をかすめる。依頼を受けたり、食料を補充したり、時には寄り道をしたり。
急ぐ旅ではない。
急げない旅でもある。
背中の荷は軽い。最低限の荷物と、少しの保存食。
指には十の指輪。
――半年。
最初は、その存在に触れるだけで緊張していた。
今は。
「……ちゃんと、ここにある」
無意識に触れて、確認する。
重さは変わらない。
けれど、感覚だけは少し慣れた。
風が吹く。
草原が波のように揺れる。
街道を歩いていると、背後から土を蹴る激しい音が近づいてきた。
ベルが振り向いた瞬間。
馬のいななきと、車輪のきしむ音。
「え……?」
振り返った視界いっぱいに、荷を積んだ商人の馬車が迫っていた。
速度は落ちていない。
むしろ急いでいる。
「ちょ、っ――!」
慌てて街道の端へ飛び退く。
靴が土を滑り、体が少しよろける。
馬車はベルのすぐ横――髪をかすめる距離で――轟音と共に駆け抜けていった。
風圧で外套がばさりと揺れる。
一瞬遅れて、砂ぼこりが舞い上がる。
ベルはその場に立ち尽くしたまま、目をぱちぱちさせた。
「……っ、あっぶないなぁ……」
ぼそり。
怒鳴るでもなく、ただ呆れた声。
馬車は止まらない。
後ろから、商人らしき男の声がかすかに聞こえた気がしたが、謝罪はない。
ベルはほほをふくらませる。
「もー……もう少しゆっくり走れないのかな……」
肩にかかった髪を手で整えながら、街道の中央を見つめる。
さっきまで自分が立っていた場所。
あと一歩遅ければ、ぶつかっていた。
けれど――
怒りよりも先に、胸に浮かぶのは少しだけの安堵。
「無事、無事……」
小さく自分に言い聞かせる。
そして、また歩き出した。
今の出来事は、旅の中ではきっと些細な出来事。
でも。
こういう“日常の危うさ”の積み重ねが、この世界なのだと――
ベルは、歩きながらなんとなく実感していた。
ベルは街道の中央に残る砂ぼこりを振り返った。
さっきの馬車。
速すぎた。
荷台は布で覆われていて、中身は見えなかった。
「……あんなに急いで、何運んでたんだろ」
呟きながら首をかしげる。
食料?
武具?
それとも緊急の薬品?
考えは浮かぶけれど、答えは出ない。
「まぁ……私が気にしても仕方ないか」
ふっと肩の力を抜く。
知らないものは、知らないままでいい。
深追いする性格でもない。
ベルは再び歩き出した。
街道はやがて、ゆるやかに森へと吸い込まれていく。
木々が道の両側からせり出し、陽光が細い筋になって地面に落ちる。
空気が少しひんやりする。
鳥の声が近い。
足元の土は、さっきより柔らかい。
ベルは森に足を踏み入れた。
しばらく。
静かな時間が続く。
葉が擦れる音。
自分の靴音。
外界から切り離されたような感覚。
「……この森、久しぶりだな」
旅の途中で森を抜けるのは珍しくない。
だが毎回、少しだけ緊張する。
視線。
気配。
何かが潜んでいる可能性。
ベルは無意識に歩幅を狭め、音を立てないように進む。
それでも――
今日はまだ、何も起きない。
ただ静かな森。
平穏。
旅人の一日としては、何でもない時間。
そしてその“何でもなさ”こそが、今のベルには一番ありがたいものだった。
森の奥へ、さらに歩く。
足元の土は柔らかく、落ち葉を踏む音が小さく響く。
鳥の声。
枝が風に揺れる音。
静かな時間。
――その中で。
ベルは足を止めた。
「……?」
耳を澄ます。
最初は、気のせいかと思った。
でも。
かすかに。
規則的な。
何かがぶつかる音。
ガン。
ガン。
金属か、木か。
遠い。
けれど確かに“人工的”な響き。
ベルは目を細める。
「……何かいる?」
森の自然音とは違う。
動物の足音でもない。
誰かが、何かを――
作業?
戦闘?
それとも事故?
胸の奥が少しだけざわつく。
危険かもしれない。
関わらない方がいい可能性もある。
でも――
放っておいて、後で後悔するのは嫌だ。
ベルは音の方向を確かめ、ゆっくりと歩みを変える。
枝を避け、草を踏みしめ、音を立てすぎないように進む。
ガン。
また鳴った。
今度は、さっきより少し近い。
木々の隙間から、何か影がちらりと見える。
ベルは立ち止まり、身を低くして様子を見る。
まだ――姿ははっきり見えない。
けれど。
何かが、確実にそこにいる。
音は、近づくほどはっきりしていく。
ガンッ。
何か硬いものが地面――いや、木か、岩か――に叩きつけられるような音。
続いて、荒い息。
誰かいる。
ベルは無意識に歩幅を広げた。
早足。
さらに速く。
木々の隙間を縫うように進む。
視界の奥で、揺れる影。
音は止まらない。
ガンッ!
「……っ」
やっぱり、何か起きてる。
胸の奥がぎゅっと縮む。
助けを求めている可能性。
間に合わなかったら――
そう思った瞬間、足がさらに加速した。
気づけば、走っている。
落ち葉を蹴散らし、枝をかき分け、前へ。
肺が焼けるように痛い。
喉が乾く。
心臓が激しく打つ。
それでも――止まらない。
「はぁ……っ、はっ……!」
息が乱れる。
でも足は地面を離れ続ける。
視界の奥。
木々が少しだけ開ける。
そして――
何かが地面に叩きつけられる瞬間が、はっきり見えた。
ガァンッ!!
音が森に反響する。
ベルは、開けた空間へと飛び込んだ。
森を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
そこにあったのは、横転しかけた馬車だった。
荷台は大きく傾き、側面には鋭い爪で抉られたような深い傷が走っている。車輪は地面に半ば埋まり、木材が悲鳴を上げるように軋んでいた。
馬は鎖を引きちぎらんばかりに暴れ、白い息を荒く吐いている。
その周囲を――
黒い影が取り囲んでいた。
魔獣。
四体。
人の背丈を超える異形が、低い唸り声を響かせながらじりじりと馬車へにじり寄る。
体表は黒く硬質で、陽光を鈍く反射している。ところどころに細い亀裂のような模様が走り、地面を踏みしめるたびに鈍い音を立てた。
自然の獣とは違う。
だが、明確な知性があるわけでもない。
ただ、目の前にいる獲物を囲み、逃がさないようにしている――それだけの動きに見えた。
ベルは木陰に身を潜めたまま、すぐには飛び出さない。
胸の奥がわずかに速く打つ。
あの馬車。
さっき街道を猛スピードで走り去った、あの荷車だ。
急いでいた理由は単純だろう。
森を抜ける途中で、偶然この魔獣の縄張りに踏み込んだ。
運が悪かった。
それだけの出来事。
商人らしき男が馬の手綱を必死に押さえながら、短剣を握りしめている。
「くそ……っ、来るな……!」
声は震えているが、完全に折れてはいない。
魔獣の一体がゆっくりと前脚のような腕を持ち上げる。
重い爪。
地面を踏みしめ、土を削る音。
次の瞬間には振り下ろされると分かる動き。
空気が張り詰める。
ベルは息をひそめたまま、視線を巡らせる。
距離。
四体の配置。
囲い込みの形。
まだ、気づかれていない。
今なら動ける。
けれど、飛び出す瞬間を測るように、時間だけが静かに伸びていった。
その光景を視界に収めた瞬間――
ベルの表情が凍った。
「……っ」
地面に転がる小さな体。
八人から十人ほど。
年齢は幼い。
土と埃にまみれ、意識を失っている子もいれば、涙を浮かべながら震えているだけの子もいる。
魔獣に追われ、逃げ切れなかった子供たち。
胸の奥が、強く締めつけられる。
さっきまでの“偶然の遭遇”という認識が、音を立てて崩れ落ちた。
ただの不運。
だが――
目の前で踏み潰されようとしている命は、紛れもない現実だった。
魔獣の一体が、ゆっくりと前脚を持ち上げる。
狙いは倒れている子供。
迷いのない殺意。
その瞬間。
ベルの中で、何かが弾けた。
「……ふざけないで」
低く、押し殺した声。
怒り。
静かで、しかし明確な怒り。
地面を強く蹴る。
一気に馬車の前へ飛び出す。
砂埃が舞い上がる。
魔獣が反応するより早く――
ベルは右手を上げた。
指先を銃口のように、まっすぐ魔獣へ向ける。
「アカリ……!」
呼び声は短く、鋭い。
瞬間。
人差し指の先に光が収束する。
小さな一点。
そこから細い光の線が放たれた。
一直線。
音はない。
爆発も衝撃波もない。
ただ純粋な光の軌跡が空気を裂き、狙い違わず魔獣の胴体を貫いた。
黒い体表に穴が穿たれる。
光は内部を通り抜け、背後へ抜ける。
魔獣は一瞬だけ動きを止め――
次の瞬間、重い音を立てて崩れ落ちた。
地面が震える。
残りの魔獣が、初めて明確な敵意をベルへ向けた。
囲いの形が変わる。
子供ではなく。
“この脅威”を排除するための動き。
低い唸り声が重なり、四体の視線が一点に集まる。
ベルは息を吐く。
指先の光はまだ消えていない。
細い線が、淡く残光を残す。
「……次」
短い言葉。
守るためなら、迷いはない。
魔獣たちが、一斉に地面を蹴った。
戦いは――本格的に始まった。
魔獣たちが地面を蹴った。
四体。
だが――
一斉に突っ込んでくるわけではなかった。
二体は横へ回り込み、二体は距離を取りながら移動する。
囲みを崩さず、じわじわと圧をかける動き。
ベルはその動きを視界の端で捉えた。
「……」
焦らない。
狙いを定める。
一体が横から跳びかかる。
その軌道を読むように、ベルはわずかに身体をずらした。
右手を上げる。
「アカリ!」
瞬間。
光の線が放たれる。
一直線に走り、跳躍中の魔獣を貫通。
音はない。
衝撃も少ない。
ただ、光が通り抜けた後に巨体が崩れ落ちる。
地面が揺れる。
間を置かず――
もう一体。
距離を取ったまま爪を振り上げ、突進の予備動作に入る。
ベルは呼吸を整える暇もなく、再び指を向けた。
「……っ、アカリ!」
光線。
狙いは胴体。
貫通。
倒れる。
撃つたびに、体の奥から力が抜け落ちる感覚が走る。
視界の端がわずかに揺れる。
消耗。
確実に削られている。
それでも――止めない。
残る二体。
一体は回り込みながら距離を詰める。
もう一体は様子を見ている。
学習している。
次の瞬間、回り込んでいた個体が横から飛び込んだ。
ベルは半歩下がる。
「アカリ!」
光。
軌道を変え、進路を読む。
撃つ。
貫く。
最後の一体が、同時に動いた。
しかしそれは突進ではなく――
後退。
逃走の判断。
ベルは一瞬だけ迷う。
追うか。
いや。
「逃がさない」
指を向ける。
残った力を絞るように、もう一度。
光線。
最後の魔獣も、森の奥へ逃げ切る前に貫かれた。
静寂。
四体の巨体が地面に横たわる。
ベルはその場に立ったまま、肩で荒く息をした。
「……はっ……」
胸が上下する。
体力が、目に見えて削られている。
アカリを使うたびに、身体の内側から何かが削ぎ落ちる感覚。
それでも――倒れない。
視線を地面へ向ける。
子供たち。
走り寄る。
「……!」
近づいて確認する。
八人。
九人。
十人。
全員――
動かない。
呼吸。
ない。
体温。
冷え始めている。
「……うそ」
ベルの声が、かすれる。
膝をつく。
震える手で、一人の子供の肩に触れる。
揺さぶる。
「ねえ……起きて……!」
返事はない。
森の静寂が、さっきまでの戦闘音の反動のように重く降りる。
ベルの喉が、ひどく乾いた。
子供たちは、みな薄汚れていた。
魔獣に襲われたからというより――元から質素な服を着て、長い旅か、厳しい環境の中で暮らしてきたような痕跡がある。
破れた袖。
擦り切れた靴。
年齢は五歳から十二歳ほど。
男女が入り混じり、互いに身を寄せ合うように倒れている。
そのどれもが――
動かない。
ベルは一人一人の頬に触れ、呼吸を確かめ、脈を探る。
冷たい。
静かすぎる。
「……っ」
震える息が漏れる。
肩が落ちる。
両手が、無意識に地面についた。
指先が土に埋まる。
「……どうして」
誰に向けた言葉でもない。
守れなかった。
間に合わなかった。
目の前で起きた戦いよりも――
この静かな現実の方が、ずっと重い。
唇を噛みしめる。
視界がにじむ。
その背後から、足音が近づいた。
「いやーありがとうありがとう。おかげで助かったよ、本当に」
軽い声。
さっきまで命の危機にあったとは思えない口調。
ベルの肩が、ぴくりと動く。
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは商人。
服は破れ、額には擦り傷。
だが――
安堵の色が強く、子供たちの状態を見ている様子はある。
しかしその視線の奥に、深い悲しみは薄い。
「まさかあんな数が出るとは思わなくてさ。ほんと助かったよ」
ベルは、すぐに言葉を返せなかった。
立ち上がらない。
両手はまだ地面についたまま。
目線だけを上げる。
「……子供たち」
声が震えている。
商人は一瞬だけ子供たちへ目を向け――
「いやあ、運が悪かったなぁ。連中も必死だったんだろうけどさ」
軽く肩をすくめる。
その一言が、ベルの胸に深く刺さる。
「……運?」
低い声。
静かな怒りが混じる。
商人はそれに気づかず、荷台の様子を確認しながら続ける。
「まあでも、商品は無事だし、命も助かったし。あとは――」
言いかけて、ようやくベルの表情の異変に気づく。
空気が違う。
ベルは立ち上がる。
目は赤く、しかし涙はまだ零れていない。
「……この子たちは」
一歩、商人へ近づく。
「あなたにとって、“助かったついで”なの?」
静かな問い。
しかしその奥には、抑えきれない感情が渦巻いている。
森の静寂が、さらに重くなる。
ベルの問いに、商人は一瞬だけ眉をひそめた。
だが――
すぐに肩をすくめる。
「……ああ。そうだよ」
あっさりと、認めた。
「その子たちは商品だ」
ベルの瞳が揺れる。
商人は子供たちへ視線を落とし、冷静な声で続けた。
「俺は奴隷商だ。違法な地域もあるが、この国では合法だ。契約もある。書類もある。商売として成立してる」
淡々とした口調。
罪悪感を押し殺すような響きはない。
「俺が森を通ったのは運が悪かった。それだけだ」
倒れている子供の一人を、まるで商品を確認するように見る。
「商品が台無しになったのは痛いが……」
視線がベルへ戻る。
「俺の命より優先する理由はない」
その言葉は、迷いがなかった。
ベルの胸の奥で、何かが静かに壊れる音がした。
「……ただの、商売?」
低い声。
拳が震える。
「この子たちは……物じゃない」
商人は軽く鼻で笑う。
「感情論だな。だが法律の前では意味がない」
「売買契約が成立している。所有権も俺にある」
淡々と、理屈を並べる。
「お前が助けたのは俺の“資産”だ。感謝はする。だが道徳を押し付けられる筋合いはない」
ベルはゆっくりと顔を上げる。
涙はまだ落ちていない。
その代わり――
瞳の奥に、抑えきれない怒りが燃えている。
「……所有?」
一歩、踏み出す。
「命を……所有って言うの?」
商人は肩をすくめる。
「そういう制度だ」
「買った。支払った。だから俺のもの」
静かな断定。
森の空気が張りつめる。
ベルの指先が、再びわずかに光を帯びる。
怒り。
嫌悪。
そして――
壊れそうなほどの悲しみ。
「……最低」
低く、絞り出すような声。
その言葉は、商人の理屈に対する明確な拒絶だった。
また法律。
ベルは商人の言葉を聞きながら、心の奥で小さく呟いた。
――法律。
――契約。
――所有。
言葉だけが、正しさの仮面をかぶって並んでいる。
その瞬間。
ベルの思考がふと引っかかった。
違和感。
子供たちはこれほど無残な状態だ。
だが――
馬車は襲われた直後の損傷に見える。
商人の体には、目立つ傷がない。
服は破れているが、それは逃げ回った際についたもの程度。
おかしい。
これだけ近距離で魔獣に囲まれたのなら、真っ先に狙われるのは人間の大人。
しかもこの男は、最初から馬車の中心にいたはずだ。
音に気づいてから森を抜け、ここへ来るまで――
それなりの時間があった。
なのに、無傷。
ベルの胸の奥で、何かが嫌な形で組み上がる。
まさか。
まさか――
視線が、倒れている子供たちへ落ちる。
小さな体。
震えていた痕跡。
そして――
魔獣の攻撃痕が、明らかに子供たちが集まっていた方向へ集中している。
ベルの喉が乾く。
「……まさか」
声がかすれる。
「……子供たちを……」
息が詰まる。
「子供たちを、盾にしたんじゃ……」
視線を上げる。
その瞬間。
商人は迷いもなく、淡々と答えた。
「あぁ、そうだよ?」
あまりにも自然な肯定。
「当たり前だろ?」
ベルの思考が、一瞬止まる。
商人は肩をすくめながら続ける。
「魔獣が最初に食いついたのは弱い個体だ。なら、その“弱い資産”を前に出す」
「囲まれた時の基本だ」
まるで戦術を語るような口調。
「俺が前に出て死んだら、誰がこの商売を継ぐ?」
「だから優先順位をつけただけだ」
ベルの拳が、ぎり、と音を立てて握り締められる。
「……優先順位?」
声が震える。
怒り。
嫌悪。
そして――
理解したくない現実への拒絶。
商人は悪びれない。
「犠牲を最小限にするのも経営だ」
「商品を守るために、商品を使った。それだけだ」
森の空気が、凍りつく。
ベルの中で何かが決定的に壊れる。
「……最低」
さっきよりも重い。
さっきよりも深い。
その一言は、呪詛のように空間へ落ちた。
商人の言葉が、まだ空気に残っている。
「犠牲を最小限にするのも経営だ」
「商品を守るために、商品を使った。それだけだ」
ベルの胸の奥で、怒りが燃え続けている。
だが――
その怒りよりも早く。
視界の端で、小さな影が動いた。
……ん?
地面に横たわる子供たち。
その中で――
金色の髪の少女。
五歳ほど。
泥にまみれた小さな身体が、かすかに――震えた。
ほんの一瞬。
見逃してしまいそうな、微細な動き。
ベルの呼吸が止まる。
「……っ」
咄嗟に駆け出した。
迷いはなかった。
その少女の前に膝をつく。
小さな胸元に手を当てる。
――脈。
弱い。
しかし、ある。
「……!」
次に喉元へ指を当てる。
呼吸。
――ない。
胸の動きが止まっている。
時間は、少ない。
ベルは一瞬で判断する。
迷わない。
少女の顎をそっと上げ、気道を確保する。
そして――
迷いなく人工呼吸に入った。
息を送り込む。
小さな胸が、わずかに膨らむ。
もう一度。
息を吹き込む。
背後で商人がうめく声がした。
「おい……何を――」
低い声。
「やめろ……それ、俺の商品だぞ……!」
足音。
汚いものを見るような目。
まるで“所有物に勝手に触れるな”と言いたげな視線。
ベルは振り向かない。
気にしない。
聞こえない。
今は――
目の前の命だけに集中する。
再び息を送り込む。
少女の胸が、今度はかすかに動いた。
ベルの指が脈を確かめる。
――ある。
さっきよりも、強くなっている。
「……っ、お願い……」
小さな声。
祈るような呼吸。
もう一度。
息を吹き込む。
少女の体が、ぴくりと反応した。
そして――
かすかな咳。
「……っ、げほ……!」
細い喉から空気が漏れる。
ベルの瞳が大きく見開かれる。
「……よかった……!」
少女の胸がゆっくりと上下し始めた。
微弱だった命が、確かに戻ってくる。
森の空気の中で――
“救われた”という事実だけが、静かに存在していた。
少女の呼吸は、ゆっくりと安定し始めていた。
傷は浅くはない。
だが、致命傷ではなかった。
魔獣に叩き飛ばされた衝撃で一時的なショック状態に陥り、呼吸が止まっていただけだったらしい。
ベルは慎重に少女の状態を確かめる。
脈。
強くなっている。
胸の上下。
確かにある。
「……よかった……」
安堵の息と同時に、そっと少女を抱きしめる。
小さな体。
温もりが戻りつつある。
守れた。
たった一人でも。
その瞬間。
ベルの足元に、背後から何かが投げられた。
乾いた音。
地面に転がる硬貨。
銀貨が数枚。
ベルはゆっくりと視線を落とす。
背後から、商人の声。
「一匹でも助かったなら儲けもんだ」
軽い。
あまりにも軽い声音。
「ありがとよ。それを持ってさっさと消えな」
銀貨を“報酬”のように扱う言い草。
ベルの手が、少女から離れた。
ゆっくりと。
静かに。
少女を地面へそっと横たえる。
立ち上がる。
振り返る。
その動きは、先ほどまでの救命行為の柔らかさとは正反対に――
冷たい。
右手を上げる。
人差し指をまっすぐ商人へ向けた。
「いい加減にしなさい!」
声が森に響く。
商人の肩がびくりと跳ねる。
「動かないで」
ベルの瞳は、冗談ではない色をしていた。
「動くと撃ちます」
光が、指先に微かに収束する。
「そのまま膝をついて。両手を頭の後ろに」
商人は顔を引きつらせながら、言われた通りにゆっくりと膝をつく。
両手を上げる。
ベルは指を向けたまま、一歩、また一歩と近づく。
やがて腰に巻いていた赤いレザーベルトを外した。
それを素早く取り、商人の両手首に巻きつける。
強く締め上げる。
拘束。
「……っ、痛ぇぞ」
「痛くしてるんです」
冷えた声で即答する。
結び目を固定し、簡単には外せない形にする。
ベルは立ち上がり、商人を見下ろした。
「このまま街道警備に連絡して、あなたを引き渡します」
商人は歯を食いしばる。
「俺は何も悪いことはしていない」
即座に反論。
ベルの瞳が、さらに冷たくなる。
「奴隷が例え合法でも」
一歩、距離を詰める。
「子供を盾にしたことには罪があるでしょ」
言葉は静か。
だが否定の余地はない。
商人は一瞬言葉を失う。
森の空気が張りつめる。
魔獣の死骸。
倒れた子供。
拘束された商人。
そして――
怒りを抱えた少女。
対峙は、終わっていない。




