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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
第2章 『魔王殺し』
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ー奴隷の少女ー

街道を歩き続けて、半年。


季節は二度、ゆっくりと巡った。


最初はぎこちなかった足取りも、今では少しだけ自然だ。


ベルはひとり、街道を歩いている。


目的地は聖都。


だが――まだ遠い。


地図の上では一本の線でも、実際に足で辿れば、果てしなく長い。


「……まだ、あの辺かぁ」


小さなため息と一緒に、視線を遠くへ向ける。


聖都へ続く街道は、途中でいくつもの村や町をかすめる。依頼を受けたり、食料を補充したり、時には寄り道をしたり。


急ぐ旅ではない。


急げない旅でもある。


背中の荷は軽い。最低限の荷物と、少しの保存食。


指には十の指輪。


――半年。


最初は、その存在に触れるだけで緊張していた。


今は。


「……ちゃんと、ここにある」


無意識に触れて、確認する。


重さは変わらない。


けれど、感覚だけは少し慣れた。


風が吹く。


草原が波のように揺れる。


街道を歩いていると、背後から土を蹴る激しい音が近づいてきた。


ベルが振り向いた瞬間。


馬のいななきと、車輪のきしむ音。


「え……?」


振り返った視界いっぱいに、荷を積んだ商人の馬車が迫っていた。


速度は落ちていない。


むしろ急いでいる。


「ちょ、っ――!」


慌てて街道の端へ飛び退く。


靴が土を滑り、体が少しよろける。


馬車はベルのすぐ横――髪をかすめる距離で――轟音と共に駆け抜けていった。


風圧で外套がばさりと揺れる。


一瞬遅れて、砂ぼこりが舞い上がる。


ベルはその場に立ち尽くしたまま、目をぱちぱちさせた。


「……っ、あっぶないなぁ……」


ぼそり。


怒鳴るでもなく、ただ呆れた声。


馬車は止まらない。


後ろから、商人らしき男の声がかすかに聞こえた気がしたが、謝罪はない。


ベルはほほをふくらませる。


「もー……もう少しゆっくり走れないのかな……」


肩にかかった髪を手で整えながら、街道の中央を見つめる。


さっきまで自分が立っていた場所。


あと一歩遅ければ、ぶつかっていた。


けれど――


怒りよりも先に、胸に浮かぶのは少しだけの安堵。


「無事、無事……」


小さく自分に言い聞かせる。


そして、また歩き出した。


今の出来事は、旅の中ではきっと些細な出来事。


でも。


こういう“日常の危うさ”の積み重ねが、この世界なのだと――


ベルは、歩きながらなんとなく実感していた。


ベルは街道の中央に残る砂ぼこりを振り返った。


さっきの馬車。


速すぎた。


荷台は布で覆われていて、中身は見えなかった。


「……あんなに急いで、何運んでたんだろ」


呟きながら首をかしげる。


食料?


武具?


それとも緊急の薬品?


考えは浮かぶけれど、答えは出ない。


「まぁ……私が気にしても仕方ないか」


ふっと肩の力を抜く。


知らないものは、知らないままでいい。


深追いする性格でもない。


ベルは再び歩き出した。


街道はやがて、ゆるやかに森へと吸い込まれていく。


木々が道の両側からせり出し、陽光が細い筋になって地面に落ちる。


空気が少しひんやりする。


鳥の声が近い。


足元の土は、さっきより柔らかい。


ベルは森に足を踏み入れた。


しばらく。


静かな時間が続く。


葉が擦れる音。


自分の靴音。


外界から切り離されたような感覚。


「……この森、久しぶりだな」


旅の途中で森を抜けるのは珍しくない。


だが毎回、少しだけ緊張する。


視線。


気配。


何かが潜んでいる可能性。


ベルは無意識に歩幅を狭め、音を立てないように進む。


それでも――


今日はまだ、何も起きない。


ただ静かな森。


平穏。


旅人の一日としては、何でもない時間。


そしてその“何でもなさ”こそが、今のベルには一番ありがたいものだった。


森の奥へ、さらに歩く。


足元の土は柔らかく、落ち葉を踏む音が小さく響く。


鳥の声。


枝が風に揺れる音。


静かな時間。


――その中で。


ベルは足を止めた。


「……?」


耳を澄ます。


最初は、気のせいかと思った。


でも。


かすかに。


規則的な。


何かがぶつかる音。


ガン。


ガン。


金属か、木か。


遠い。


けれど確かに“人工的”な響き。


ベルは目を細める。


「……何かいる?」


森の自然音とは違う。


動物の足音でもない。


誰かが、何かを――


作業?


戦闘?


それとも事故?


胸の奥が少しだけざわつく。


危険かもしれない。


関わらない方がいい可能性もある。


でも――


放っておいて、後で後悔するのは嫌だ。


ベルは音の方向を確かめ、ゆっくりと歩みを変える。


枝を避け、草を踏みしめ、音を立てすぎないように進む。


ガン。


また鳴った。


今度は、さっきより少し近い。


木々の隙間から、何か影がちらりと見える。


ベルは立ち止まり、身を低くして様子を見る。


まだ――姿ははっきり見えない。


けれど。


何かが、確実にそこにいる。


音は、近づくほどはっきりしていく。


ガンッ。


何か硬いものが地面――いや、木か、岩か――に叩きつけられるような音。


続いて、荒い息。


誰かいる。


ベルは無意識に歩幅を広げた。


早足。


さらに速く。


木々の隙間を縫うように進む。


視界の奥で、揺れる影。


音は止まらない。


ガンッ!


「……っ」


やっぱり、何か起きてる。


胸の奥がぎゅっと縮む。


助けを求めている可能性。


間に合わなかったら――


そう思った瞬間、足がさらに加速した。


気づけば、走っている。


落ち葉を蹴散らし、枝をかき分け、前へ。


肺が焼けるように痛い。


喉が乾く。


心臓が激しく打つ。


それでも――止まらない。


「はぁ……っ、はっ……!」


息が乱れる。


でも足は地面を離れ続ける。


視界の奥。


木々が少しだけ開ける。


そして――


何かが地面に叩きつけられる瞬間が、はっきり見えた。


ガァンッ!!


音が森に反響する。


ベルは、開けた空間へと飛び込んだ。


森を抜けた瞬間、視界が一気に開けた。


そこにあったのは、横転しかけた馬車だった。


荷台は大きく傾き、側面には鋭い爪で抉られたような深い傷が走っている。車輪は地面に半ば埋まり、木材が悲鳴を上げるように軋んでいた。


馬は鎖を引きちぎらんばかりに暴れ、白い息を荒く吐いている。


その周囲を――


黒い影が取り囲んでいた。


魔獣。


四体。


人の背丈を超える異形が、低い唸り声を響かせながらじりじりと馬車へにじり寄る。


体表は黒く硬質で、陽光を鈍く反射している。ところどころに細い亀裂のような模様が走り、地面を踏みしめるたびに鈍い音を立てた。


自然の獣とは違う。


だが、明確な知性があるわけでもない。


ただ、目の前にいる獲物を囲み、逃がさないようにしている――それだけの動きに見えた。


ベルは木陰に身を潜めたまま、すぐには飛び出さない。


胸の奥がわずかに速く打つ。


あの馬車。


さっき街道を猛スピードで走り去った、あの荷車だ。


急いでいた理由は単純だろう。


森を抜ける途中で、偶然この魔獣の縄張りに踏み込んだ。


運が悪かった。


それだけの出来事。


商人らしき男が馬の手綱を必死に押さえながら、短剣を握りしめている。


「くそ……っ、来るな……!」


声は震えているが、完全に折れてはいない。


魔獣の一体がゆっくりと前脚のような腕を持ち上げる。


重い爪。


地面を踏みしめ、土を削る音。


次の瞬間には振り下ろされると分かる動き。


空気が張り詰める。


ベルは息をひそめたまま、視線を巡らせる。


距離。


四体の配置。


囲い込みの形。


まだ、気づかれていない。


今なら動ける。


けれど、飛び出す瞬間を測るように、時間だけが静かに伸びていった。


その光景を視界に収めた瞬間――


ベルの表情が凍った。


「……っ」


地面に転がる小さな体。


八人から十人ほど。


年齢は幼い。


土と埃にまみれ、意識を失っている子もいれば、涙を浮かべながら震えているだけの子もいる。


魔獣に追われ、逃げ切れなかった子供たち。


胸の奥が、強く締めつけられる。


さっきまでの“偶然の遭遇”という認識が、音を立てて崩れ落ちた。


ただの不運。


だが――


目の前で踏み潰されようとしている命は、紛れもない現実だった。


魔獣の一体が、ゆっくりと前脚を持ち上げる。


狙いは倒れている子供。


迷いのない殺意。


その瞬間。


ベルの中で、何かが弾けた。


「……ふざけないで」


低く、押し殺した声。


怒り。


静かで、しかし明確な怒り。


地面を強く蹴る。


一気に馬車の前へ飛び出す。


砂埃が舞い上がる。


魔獣が反応するより早く――


ベルは右手を上げた。


指先を銃口のように、まっすぐ魔獣へ向ける。


「アカリ……!」


呼び声は短く、鋭い。


瞬間。


人差し指の先に光が収束する。


小さな一点。


そこから細い光の線が放たれた。


一直線。


音はない。


爆発も衝撃波もない。


ただ純粋な光の軌跡が空気を裂き、狙い違わず魔獣の胴体を貫いた。


黒い体表に穴が穿たれる。


光は内部を通り抜け、背後へ抜ける。


魔獣は一瞬だけ動きを止め――


次の瞬間、重い音を立てて崩れ落ちた。


地面が震える。


残りの魔獣が、初めて明確な敵意をベルへ向けた。


囲いの形が変わる。


子供ではなく。


“この脅威”を排除するための動き。


低い唸り声が重なり、四体の視線が一点に集まる。


ベルは息を吐く。


指先の光はまだ消えていない。


細い線が、淡く残光を残す。


「……次」


短い言葉。


守るためなら、迷いはない。


魔獣たちが、一斉に地面を蹴った。


戦いは――本格的に始まった。


魔獣たちが地面を蹴った。


四体。


だが――


一斉に突っ込んでくるわけではなかった。


二体は横へ回り込み、二体は距離を取りながら移動する。


囲みを崩さず、じわじわと圧をかける動き。


ベルはその動きを視界の端で捉えた。


「……」


焦らない。


狙いを定める。


一体が横から跳びかかる。


その軌道を読むように、ベルはわずかに身体をずらした。


右手を上げる。


「アカリ!」


瞬間。


光の線が放たれる。


一直線に走り、跳躍中の魔獣を貫通。


音はない。


衝撃も少ない。


ただ、光が通り抜けた後に巨体が崩れ落ちる。


地面が揺れる。


間を置かず――


もう一体。


距離を取ったまま爪を振り上げ、突進の予備動作に入る。


ベルは呼吸を整える暇もなく、再び指を向けた。


「……っ、アカリ!」


光線。


狙いは胴体。


貫通。


倒れる。


撃つたびに、体の奥から力が抜け落ちる感覚が走る。


視界の端がわずかに揺れる。


消耗。


確実に削られている。


それでも――止めない。


残る二体。


一体は回り込みながら距離を詰める。


もう一体は様子を見ている。


学習している。


次の瞬間、回り込んでいた個体が横から飛び込んだ。


ベルは半歩下がる。


「アカリ!」


光。


軌道を変え、進路を読む。


撃つ。


貫く。


最後の一体が、同時に動いた。


しかしそれは突進ではなく――


後退。


逃走の判断。


ベルは一瞬だけ迷う。


追うか。


いや。


「逃がさない」


指を向ける。


残った力を絞るように、もう一度。


光線。


最後の魔獣も、森の奥へ逃げ切る前に貫かれた。


静寂。


四体の巨体が地面に横たわる。


ベルはその場に立ったまま、肩で荒く息をした。


「……はっ……」


胸が上下する。


体力が、目に見えて削られている。


アカリを使うたびに、身体の内側から何かが削ぎ落ちる感覚。


それでも――倒れない。


視線を地面へ向ける。


子供たち。


走り寄る。


「……!」


近づいて確認する。


八人。


九人。


十人。


全員――


動かない。


呼吸。


ない。


体温。


冷え始めている。


「……うそ」


ベルの声が、かすれる。


膝をつく。


震える手で、一人の子供の肩に触れる。


揺さぶる。


「ねえ……起きて……!」


返事はない。


森の静寂が、さっきまでの戦闘音の反動のように重く降りる。


ベルの喉が、ひどく乾いた。


子供たちは、みな薄汚れていた。


魔獣に襲われたからというより――元から質素な服を着て、長い旅か、厳しい環境の中で暮らしてきたような痕跡がある。


破れた袖。


擦り切れた靴。


年齢は五歳から十二歳ほど。


男女が入り混じり、互いに身を寄せ合うように倒れている。


そのどれもが――


動かない。


ベルは一人一人の頬に触れ、呼吸を確かめ、脈を探る。


冷たい。


静かすぎる。


「……っ」



震える息が漏れる。


肩が落ちる。


両手が、無意識に地面についた。


指先が土に埋まる。


「……どうして」


誰に向けた言葉でもない。


守れなかった。


間に合わなかった。


目の前で起きた戦いよりも――


この静かな現実の方が、ずっと重い。


唇を噛みしめる。


視界がにじむ。


その背後から、足音が近づいた。


「いやーありがとうありがとう。おかげで助かったよ、本当に」


軽い声。


さっきまで命の危機にあったとは思えない口調。


ベルの肩が、ぴくりと動く。


ゆっくりと振り返る。


そこに立っていたのは商人。


服は破れ、額には擦り傷。


だが――


安堵の色が強く、子供たちの状態を見ている様子はある。


しかしその視線の奥に、深い悲しみは薄い。


「まさかあんな数が出るとは思わなくてさ。ほんと助かったよ」


ベルは、すぐに言葉を返せなかった。


立ち上がらない。


両手はまだ地面についたまま。


目線だけを上げる。


「……子供たち」


声が震えている。


商人は一瞬だけ子供たちへ目を向け――


「いやあ、運が悪かったなぁ。連中も必死だったんだろうけどさ」


軽く肩をすくめる。


その一言が、ベルの胸に深く刺さる。


「……運?」


低い声。


静かな怒りが混じる。


商人はそれに気づかず、荷台の様子を確認しながら続ける。


「まあでも、商品は無事だし、命も助かったし。あとは――」


言いかけて、ようやくベルの表情の異変に気づく。


空気が違う。


ベルは立ち上がる。


目は赤く、しかし涙はまだ零れていない。


「……この子たちは」


一歩、商人へ近づく。


「あなたにとって、“助かったついで”なの?」


静かな問い。


しかしその奥には、抑えきれない感情が渦巻いている。


森の静寂が、さらに重くなる。


ベルの問いに、商人は一瞬だけ眉をひそめた。


だが――


すぐに肩をすくめる。


「……ああ。そうだよ」


あっさりと、認めた。


「その子たちは商品だ」


ベルの瞳が揺れる。


商人は子供たちへ視線を落とし、冷静な声で続けた。


「俺は奴隷商だ。違法な地域もあるが、この国では合法だ。契約もある。書類もある。商売として成立してる」


淡々とした口調。


罪悪感を押し殺すような響きはない。


「俺が森を通ったのは運が悪かった。それだけだ」


倒れている子供の一人を、まるで商品を確認するように見る。


「商品が台無しになったのは痛いが……」


視線がベルへ戻る。


「俺の命より優先する理由はない」


その言葉は、迷いがなかった。


ベルの胸の奥で、何かが静かに壊れる音がした。


「……ただの、商売?」


低い声。


拳が震える。


「この子たちは……物じゃない」


商人は軽く鼻で笑う。


「感情論だな。だが法律の前では意味がない」


「売買契約が成立している。所有権も俺にある」


淡々と、理屈を並べる。


「お前が助けたのは俺の“資産”だ。感謝はする。だが道徳を押し付けられる筋合いはない」


ベルはゆっくりと顔を上げる。


涙はまだ落ちていない。


その代わり――


瞳の奥に、抑えきれない怒りが燃えている。


「……所有?」


一歩、踏み出す。


「命を……所有って言うの?」


商人は肩をすくめる。


「そういう制度だ」


「買った。支払った。だから俺のもの」


静かな断定。


森の空気が張りつめる。


ベルの指先が、再びわずかに光を帯びる。


怒り。


嫌悪。


そして――


壊れそうなほどの悲しみ。


「……最低」


低く、絞り出すような声。


その言葉は、商人の理屈に対する明確な拒絶だった。


また法律。


ベルは商人の言葉を聞きながら、心の奥で小さく呟いた。


――法律。


――契約。


――所有。


言葉だけが、正しさの仮面をかぶって並んでいる。


その瞬間。


ベルの思考がふと引っかかった。


違和感。


子供たちはこれほど無残な状態だ。


だが――


馬車は襲われた直後の損傷に見える。


商人の体には、目立つ傷がない。


服は破れているが、それは逃げ回った際についたもの程度。


おかしい。


これだけ近距離で魔獣に囲まれたのなら、真っ先に狙われるのは人間の大人。


しかもこの男は、最初から馬車の中心にいたはずだ。


音に気づいてから森を抜け、ここへ来るまで――


それなりの時間があった。


なのに、無傷。


ベルの胸の奥で、何かが嫌な形で組み上がる。


まさか。


まさか――


視線が、倒れている子供たちへ落ちる。


小さな体。


震えていた痕跡。


そして――


魔獣の攻撃痕が、明らかに子供たちが集まっていた方向へ集中している。


ベルの喉が乾く。


「……まさか」


声がかすれる。


「……子供たちを……」


息が詰まる。


「子供たちを、盾にしたんじゃ……」


視線を上げる。


その瞬間。


商人は迷いもなく、淡々と答えた。


「あぁ、そうだよ?」


あまりにも自然な肯定。


「当たり前だろ?」


ベルの思考が、一瞬止まる。


商人は肩をすくめながら続ける。


「魔獣が最初に食いついたのは弱い個体だ。なら、その“弱い資産”を前に出す」


「囲まれた時の基本だ」


まるで戦術を語るような口調。


「俺が前に出て死んだら、誰がこの商売を継ぐ?」


「だから優先順位をつけただけだ」


ベルの拳が、ぎり、と音を立てて握り締められる。


「……優先順位?」


声が震える。


怒り。


嫌悪。


そして――


理解したくない現実への拒絶。


商人は悪びれない。


「犠牲を最小限にするのも経営だ」


「商品を守るために、商品を使った。それだけだ」


森の空気が、凍りつく。


ベルの中で何かが決定的に壊れる。


「……最低」


さっきよりも重い。


さっきよりも深い。


その一言は、呪詛のように空間へ落ちた。


商人の言葉が、まだ空気に残っている。


「犠牲を最小限にするのも経営だ」


「商品を守るために、商品を使った。それだけだ」


ベルの胸の奥で、怒りが燃え続けている。


だが――


その怒りよりも早く。


視界の端で、小さな影が動いた。


……ん?


地面に横たわる子供たち。


その中で――


金色の髪の少女。


五歳ほど。


泥にまみれた小さな身体が、かすかに――震えた。


ほんの一瞬。


見逃してしまいそうな、微細な動き。


ベルの呼吸が止まる。


「……っ」


咄嗟に駆け出した。


迷いはなかった。


その少女の前に膝をつく。


小さな胸元に手を当てる。


――脈。


弱い。


しかし、ある。


「……!」


次に喉元へ指を当てる。


呼吸。


――ない。


胸の動きが止まっている。


時間は、少ない。


ベルは一瞬で判断する。


迷わない。


少女の顎をそっと上げ、気道を確保する。


そして――


迷いなく人工呼吸に入った。


息を送り込む。


小さな胸が、わずかに膨らむ。


もう一度。


息を吹き込む。


背後で商人がうめく声がした。


「おい……何を――」


低い声。


「やめろ……それ、俺の商品だぞ……!」


足音。


汚いものを見るような目。


まるで“所有物に勝手に触れるな”と言いたげな視線。


ベルは振り向かない。


気にしない。


聞こえない。


今は――


目の前の命だけに集中する。


再び息を送り込む。


少女の胸が、今度はかすかに動いた。


ベルの指が脈を確かめる。


――ある。


さっきよりも、強くなっている。


「……っ、お願い……」


小さな声。


祈るような呼吸。


もう一度。


息を吹き込む。


少女の体が、ぴくりと反応した。


そして――


かすかな咳。


「……っ、げほ……!」


細い喉から空気が漏れる。


ベルの瞳が大きく見開かれる。


「……よかった……!」


少女の胸がゆっくりと上下し始めた。


微弱だった命が、確かに戻ってくる。


森の空気の中で――


“救われた”という事実だけが、静かに存在していた。


少女の呼吸は、ゆっくりと安定し始めていた。


傷は浅くはない。


だが、致命傷ではなかった。


魔獣に叩き飛ばされた衝撃で一時的なショック状態に陥り、呼吸が止まっていただけだったらしい。


ベルは慎重に少女の状態を確かめる。


脈。


強くなっている。


胸の上下。


確かにある。


「……よかった……」


安堵の息と同時に、そっと少女を抱きしめる。


小さな体。


温もりが戻りつつある。


守れた。


たった一人でも。


その瞬間。


ベルの足元に、背後から何かが投げられた。


乾いた音。


地面に転がる硬貨。


銀貨が数枚。


ベルはゆっくりと視線を落とす。


背後から、商人の声。


「一匹でも助かったなら儲けもんだ」


軽い。


あまりにも軽い声音。


「ありがとよ。それを持ってさっさと消えな」


銀貨を“報酬”のように扱う言い草。


ベルの手が、少女から離れた。


ゆっくりと。


静かに。


少女を地面へそっと横たえる。


立ち上がる。


振り返る。


その動きは、先ほどまでの救命行為の柔らかさとは正反対に――


冷たい。


右手を上げる。


人差し指をまっすぐ商人へ向けた。


「いい加減にしなさい!」


声が森に響く。


商人の肩がびくりと跳ねる。


「動かないで」


ベルの瞳は、冗談ではない色をしていた。


「動くと撃ちます」


光が、指先に微かに収束する。


「そのまま膝をついて。両手を頭の後ろに」


商人は顔を引きつらせながら、言われた通りにゆっくりと膝をつく。


両手を上げる。


ベルは指を向けたまま、一歩、また一歩と近づく。


やがて腰に巻いていた赤いレザーベルトを外した。


それを素早く取り、商人の両手首に巻きつける。


強く締め上げる。


拘束。


「……っ、痛ぇぞ」


「痛くしてるんです」


冷えた声で即答する。


結び目を固定し、簡単には外せない形にする。


ベルは立ち上がり、商人を見下ろした。


「このまま街道警備に連絡して、あなたを引き渡します」


商人は歯を食いしばる。


「俺は何も悪いことはしていない」


即座に反論。


ベルの瞳が、さらに冷たくなる。


「奴隷が例え合法でも」


一歩、距離を詰める。


「子供を盾にしたことには罪があるでしょ」


言葉は静か。


だが否定の余地はない。


商人は一瞬言葉を失う。


森の空気が張りつめる。


魔獣の死骸。


倒れた子供。


拘束された商人。


そして――


怒りを抱えた少女。


対峙は、終わっていない。

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