友達になろうー
翌日の夜。
昨日と同じ、丘の上の大きな木の下。
「よ!約束通りちゃんと来たな!」
少年は嬉しそうに声を上げる。
見上げる先には、小さな影。
その視線の先――
少年は、今夜も木に吊るされていた。
「とりあえずまた、下ろしてくれよ。今度は優しくな!」
カゲはこくりと頷く。
昨日と同じように、木に手をかける。
するすると、迷いなく登っていく。
枝の上に辿り着くと、ロープへと手を伸ばした。
そして――
ためらいもなく、爪を立てる。
ぶつり、と音がした。
「なあああああっ!」
少年の体が宙から外れ、真っ逆さまに落ちていく。
どすん、と鈍い音。
尻から地面に叩きつけられ、そのままごろごろと転がった。
「いってぇぇ……!」
うめき声を上げながら、草の上でのたうつ。
カゲは枝から軽やかに飛び降りると、そのまま少年のそばへ歩み寄る。
残ったロープに手をかけ、爪で切り裂いた。
はらり、と縄がほどける。
ようやく自由になった少年は、痛む尻を押さえながら身体を起こす。
「今度は……優しく頼むぜ……」
二人は並んで座り、パンとチーズを分け合って食べている。
「でさー、昨日姉ちゃんのおっぱいさわってマジギレされてさ」
少年はパンをかじりながら、ぼやくように言う。
「いろいろあって、反省しろって木に吊るされたんだけど」
カゲは黙ったまま、もくもくと食べている。
「カゲに助けてもらったから、普通に帰って寝て、朝になって……」
少年は少し言い淀む。
「朝と昼のことは、ちょっとわかんねぇんだけど」
カゲが首をかしげながら、またパンにかぶりつく。
「で、夜になったら、また吊るされたってわけだ」
肩をすくめ、小さくため息をつく。
「しつこくってやんなっちまうよ」
カゲはこくりと頷きながら、少年の話を聞いている。
しっかりと、少年の目を見つめて。
「お前の目、綺麗な色してんなー。そんな色、初めて見たぜ」
少年は笑いながら、カゲの顔を覗き込む。
月明かりの中で、カゲの目が金色に光っていた。
大きく、ぎょろりとした瞳が、じっとこちらを見返している。
カゲはゆっくりと手を伸ばし、少年の頬に触れた。
「お?なんだ?」
少年は気にした様子もなく、くすりと笑う。
やがてパンとチーズを食べ終えると、立ち上がった。
「今日はさ!池に行こう!」
そう言って、カゲの手を取る。
引き上げるように立たせると、そのまま走り出した。
二人は丘を下り、森の中へと駆けていく。
森の奥には、小さな池があった。
澄んだ水面の向こうに、魚の影がゆらゆらと揺れている。
少年は池に着くと、そのまま走りながらズボンと下着を脱ぎ捨てた。
勢いのまま、水の中へ飛び込む。
ばしゃん、と水音が響いた。
「はーっ、冷てぇ!」
水面から顔を出し、楽しそうに笑う。
カゲは池のふちで立ち止まっていた。
じっと、水を見つめている。
「何してんだ? 来いよ!」
少年が手を振る。
促され、カゲはおそるおそる足を伸ばした。
水面に触れる。
ひやりとした感触に、ぴくりと身体が揺れた。
それでも、ゆっくりと片足を沈めていく。
まるで確かめるように、慎重に。
「ここは俺の秘密の場所だからな」
水面から顔だけ出し、少年が言う。
「誰にも言うなよ? って、しゃべれないか」
カゲは口を動かす。
「うー……あー……」
何かを言おうとしているが、言葉にならない。
少年はその様子を横目で見て、ふっと笑った。
「焦んなって、俺が言葉教えてやっからさ」
そう言いながら水から上がり、脱ぎ捨てたズボンの方へ歩いていく。
「今日はいいもん持って来たんだぜ」
ポケットをまさぐり、取り出した。
「これだ」
得意げに、カゲの目の前へ突き出す。
カゲは首をかしげ、くん、と匂いを嗅いだ。
「これはなー、セッケンでいう高級品らしい。なんでもこれで洗うと、めちゃくちゃきれーになるんだってさ」
「姉ちゃんが言ってた」
少し誇らしげに言う。
「今夜はカゲをきれーにしようと思ってさ」
その言葉に、カゲはわずかに後ずさった。
なんとなく、嫌な予感がしたのかもしれない。
しかし少年はすぐにその手を掴む。
「コラコラ、逃げんなって!」
じたばたと暴れるカゲを、後ろから抱えるようにして押さえ込む。
しばらくもがいていたが――
やがて、観念したのか動きを止めた。
少年はセッケンを水で濡らし、手のひらで泡立てる。
白い泡が、ゆっくりと膨らんでいく。
そのまま、カゲのボサボサの髪へと手を伸ばした。
汚れた髪はなかなか泡立たず、指が引っかかる。
そのたびに、カゲが小さく声をあげた。
それでも少年は手を止めない。
何度も水を含ませ、泡を立てていく。
やがて、少しずつ泡が広がり始めた。
髪の間を滑るように、指が通るようになる。
ごわついていた手触りが、次第にやわらかく変わっていった。
「おー、すげぇ……いいじゃん、いいじゃん!」
少年は楽しそうに声を上げる。
カゲはいつの間にか力を抜き、目を細めていた。
気持ちよさそうに、うとうとと揺れている。
少年は満足げに頷くと、ちょうどいいところで手を止めた。
池の水をすくい、頭からざばっと流す。
泡がゆっくりと落ちていく。
そのまま背中へ手を移し、遠慮なくこすり始めた。
ごしごしと、力強く。
カゲの身体はびくりと揺れたが、抵抗はしない。
むしろ、力が抜けていく。
目はもう半分閉じられ、ほとんど眠りかけていた。
どうやら、気持ちいいらしい。
「ほら、髪と背中はもういいぞ! 前は自分で洗えよな!」
少年はそう言って、セッケンを突き出した。
カゲはそれを受け取る。
少しだけ眺めてから、ぎこちない手つきで身体をこすり始めた。
ごしごしと、見よう見まねで。
少年はその様子を少し離れて見ている。
水に濡れた背中は、もう汚れもなくなっていた。
さっきまでのくすんだ色は消え、すっきりとした肌が見えている。
「なんかカゲって、野生動物みたいだな」
ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。
カゲは振り返らない。
ただ、黙々と身体を洗い続けている。
やがて身体を洗い終えたカゲが立ち上がる。
そのまま、くるりと少年の背後へ回り込んだ。
次の瞬間。
ばしゃっ、と頭から水がかけられる。
「うわっ、ぶっ……ぶっ、俺はいいって!」
少年は顔をしかめるが、カゲは止まらない。
有無を言わさず、頭にセッケンを押しつける。
そのまま、しゃかしゃかと洗い始めた。
坊主頭はすぐに泡立つ。
あっという間に白い泡が広がっていく。
さらにそのまま、背中へ手が回る。
ごしごしと、遠慮なくこすり始めた。
「お、おいって……」
文句を言いかけて、ふっと力が抜ける。
「あー……これはこれで、気持ちいい」
少年はそのままされるがまま、目を細めた。
カゲは無言のまま、丁寧に洗い続けている。
お互いにさっぱりした二人は、池のほとりに転がった。
濡れた身体をそのままに、夜風に当たる。
ひんやりとした空気が、肌をなぞるように通り過ぎていく。
少年は腕を頭の後ろに組み、空を見上げた。
木々の隙間から、星がいくつも覗いている。
「はー……気持ちいいな」
ぽつりとつぶやく。
隣では、カゲも同じように仰向けになっていた。
濡れた髪が地面に広がり、夜風に揺れている。
目は半分閉じられたまま、静かに呼吸していた。
さっきまでの緊張や警戒は、もうどこにもない。
ただ、風と水の心地よさに身を委ねているようだった。
少年はちらりと横を見る。
その姿に、小さく笑った。
何も言わず、また空へ視線を戻す。
静かな時間が、ゆっくりと流れていった。
「なぁ、カゲはどっから来たんだ?」
少年は指を伸ばし、遠くを示す。
「俺はそこの村の教会に住んでるんだ」
カゲはその指先を目で追う。
反応はするが、言葉は返さない。
やがて、ゆっくりと腕を上げた。
森の向こうを指差す。
「んー……森?」
カゲは首を横に振る。
「山?」
また首を振る。
「もっと向こう?」
今度は、こくこくと頷いた。
「そっかー……なんか知らんけど、遠くから来たんだなー」
少年は気の抜けた声でそう言い、空を見上げる。
カゲはその横顔を、じっと見ていた。
「じゃー俺と友達になってくれよ」
カゲは、こくりと頷いた。
その夜も、二人は簡単な約束を交わす。
やがて少年は立ち上がり、いつものように森の奥へと消えていった。
――翌日の夜。
やはり少年は、木に吊るされていた。
どうやら、セッケンを勝手に持ち出した上に失くしてしまい、怒られたらしい。
それでも足元にはパンが置かれている。
完全に見捨てられているわけではないのだろう。
それから先は、同じことの繰り返しだった。
ある日は吊るされ、
ある日は抜け出し、
夜になると、二人はまた会う。
森を走り、池で遊び、言葉を交わす。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
時間を重ねるごとに、距離は縮まっていった。
三ヶ月も経つ頃には、カゲは簡単な言葉なら口にできるようになっていた。
まだたどたどしいが、それでも確かに“会話”になっている。
二人は並んで座り、同じものを食べ、同じ景色を見た。
気づけばそれは、当たり前の時間になっていた。
名前も、過去も知らないまま。
それでも確かに、二人の間には絆が生まれていた。
「もー、カゲとこんな風に会えなくなるかもしんねーんだぞ!」
その言葉に、カゲの身体がびくりと震えた。
「イヤ!」
勢いよく身を乗り出し、少年にしがみつく。
濡れた腕が、そのまま強く絡みついた。
「お、おい……」
一瞬驚いたように目を見開く。
だがすぐに、ふっと力を抜いた。
「そうだろー? 俺だってイヤだからさー、どーすっかなーって」
頭をかきながら、困ったように笑う。
カゲは離れない。
ぎゅっと掴んだまま、顔を押しつけるようにしている。
その様子に、少年は少しだけ目を細めた。
「ダレ?」
カゲが小さく首をかしげる。
「あー、ここたまに迷い込んでくる人いんだよ。水辺だから」
少年は気の抜けた様子で答える。
だが――
男の様子は明らかにおかしかった。
震える手が、ゆっくりと持ち上がる。
指先が向けられているのは――
少年ではない。
カゲだった。
「お、お前……一体何と一緒にいるんだ?」
かすれた声で、そう言った。
その目には、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。
少年は一瞬きょとんとしたあと、隣にいるカゲを見る。
そして、何でもないことのように口を開いた。
「何って、なぁ?」
少年は隣のカゲを見る。
カゲも少年を見上げる。
一瞬の間のあと――
二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「俺たち、友達だ」
少年は当たり前のように言い、カゲの肩に腕を回す。
その言葉に――
男が、小さく悲鳴を上げた。
「な、何言ってるんだ……お前、それは――」
言葉が震える。
目はカゲから逸らせない。
そして、絞り出すように言った。
ーーー化け物だぞ。




