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RUN&GUN ― 二人で一人の逃走譚 ―  作者: F94
はじまりの唄ー
205/328

夜の森にてー

月明かりが森の奥まで静かに差し込む。

小高い丘の上、一本の大きな木が村を見下ろして立っていた。


木の枝にぶら下がった少年は、足元に置かれたパンとチーズをぼんやり見つめていた。

風に揺れる枝葉のざわめき、遠くの村のかすかな灯り、それだけが静かに耳に届く。


体は宙に浮き、冷たさが腕を伝う。肩を少し動かすたびに、ぎしりと痛みが走った。

それでも、動くことはできず、ただ月明かりに照らされた森の景色をじっと見つめていた。


夜の空気はひんやりと澄んでいて、枝の間から差す光に少年の影が細く長く伸びる。

世界は静かで、時間もゆっくりと流れているようだった。


少年の腹が鳴った。


「ったく……ちょっといたずらしたくらいで、これはないだろー」


悪びれた様子もなく、少年はひとりつぶやく。

年は十歳、いや十二歳くらいだろうか。

坊主頭で、上半身は裸。下はハーフパンツのようなズボンだけ。裸足だ。


再び腹が鳴る。


「ハラ、減ったー……」


小さく肩をすくめ、少年は足元に置かれたパンを見下ろした。



「晩飯置いとくからって、食えるわけねぇじゃん」


「ぜったい嫌がらせだろ、これ」


金髪の少女の顔を思い浮かべ、


「ったくよー、ちょっとおっぱい触ったくらいでぶちギレやがって」


吐き捨てるように言ってから、少年は小さく息を吐いた。


視線を落とす。

ずっと下、地面の上にパンとチーズが置かれている。


手を伸ばしても、もちろん届かない。

足を伸ばしても、かすりもしない。

その距離は、どうしようもなく遠かった。


ぶら下がった身体が、わずかに揺れる。

高さのせいか、風が少し強い。


落ちればただでは済まない。

そんな高さだった。


少年はしばらく黙って、それを見下ろしていたが、やがて興味をなくしたように視線を外す。


腹の奥がじんわりと重い。

空腹だけが、やけに現実的だった。


枝がきしむ音。

葉の擦れる音。

遠くで、夜の虫が鳴いている。


それだけのはずだった。


少年はふと、視線を止める。


何かがいる。


そう思ったのは、ほんの一瞬の違和感だった。


風とは違う揺れ。

音とも言えない、かすかな気配。


少年は何も言わず、じっと暗がりの奥を見つめる。


動かない。


ただ、見ている。


何かがいる。


そう思った瞬間、頬を汗が伝った。


「なんだよ……狼?……まさかモンスターとかじゃねぇよな?」


喉がひりつく。


ごくり、と唾を飲み込む音が、自分でもはっきりと分かった。


視線は暗がりの一点に縫い付けられたまま、動かない。


少年は動かない。


ただ、暗がりの奥を睨み続けていた。


胸の奥がざわつく。

静かなはずの森が、急に息苦しく感じられた。


「なんだ!?なんかいるなら、出てこい!」


強がるように叫ぶ。


声は思ったよりも響いたが、返ってくるものはない。

その静けさが、かえって不気味だった。


握った手にじわりと汗が滲む。

腕に力を入れたまま、少年は視線を逸らさない。


心の中は、緊張と恐怖でいっぱいだった。


それでも、目だけは逸らさなかった。


やがて、小さな黒い影が現れた。

見た感じは、少年よりも遥かに小さい。


「……人間?」


月明かりの下に出てきたのは、地面につきそうなくらい長いボサボサの黒髪。

薄汚れた手足。

服は着ておらず、たどたどしく歩く、小さな子どものような姿。


影はゆっくりと、ぎこちなく足を運ぶ。

まるで足取りを忘れてしまったかのように、不安定に揺れながら。


顔は髪に隠れてよく見えない。

ただ、わずかに覗く目だけが、じっと一点を見ていた。


それは、地面に置かれたパンだった。


少年はしばらく黙って、その様子を見下ろしていた。


動けば逃げるかもしれない。

そう思い、息を潜める。


小さな影は、何も言わない。


ただ、ゆっくりとパンへ近づいていく。


「お、おい!ちょっと待てよ!」


少年が声をかける。


「それは俺んだぞ!」


小さな影が歩みを止める。


ゆっくりと顔を上げ、木に吊るされた少年を見上げた。

そのまま、ほんの一瞬だけ動きを止める。


そして、また視線をパンへ落とした。


「ダメだ!ダメだってば!」


少年の声が、静かな森に響いた。


小さな影がもう一度、少年を見上げる。


やがてその場にしゃがみ込み、再びパンへ視線を落とした。

ただひたすらに、何かを待つように見つめ続けている。


しばらく、少年はその姿を見ていた。


「あーもうっ、しゃーねぇなぁっ!」


ふいに声を上げる。


その瞬間、何かを思いついたように目を細めた。


「おい!半分やるから、俺をこっから下ろしてくれ!」


少年は身を揺らしながら、下に向かって叫ぶ。


小さな影は動かない。


ただ、じっとパンを見つめたまま、わずかに首を傾げた。


「おーい!なんだよー?言葉わかんねーのか?」


少年は眉を寄せる。


やがて、小さな影がゆっくりと立ち上がった。

そのまま木の根元へ近づくと、迷いもなく幹に手をかける。


そして、するすると器用に登り始めた。


「おぉ!いいぞ!その調子!」


少年は思わず声を上げる。


小さな影は止まらない。

枝から枝へ、軽い足取りで上っていく。


やがて、少年が吊るされている高さまで辿り着いた。

細い枝の上を、綱渡りのようにバランスを取りながら歩いてくる。


そのまま、少年を縛っているロープの結び目に手をかけた。


「いいぞいいぞ!」


少年は期待を込めて叫ぶ。


そのまま解いてくれ。


小さな影は、しばらく結び目と格闘していた。

指先を動かし、引っ張り、ほどこうとする。


だが――ふと、動きが止まる。


次の瞬間。


ぱっと手を離した。


そして、右手の爪を立てる。


躊躇いもなく、そのままロープへ振り下ろした。


「え?」


ぶつり、と音がした。


「えええええー!?」


次の瞬間、少年の体が宙を離れた。


真っ逆さまに、落ちていく。


身体を縛られたまま、少年は受け身も取れずに頭から地面へ落ちた。


鈍い衝撃。


そのまま草の上を、呻き声を上げながらごろごろと転がる。


やがて勢いが止まり、ぐったりと仰向けになった。


小さな影も、枝の上から軽やかに飛び降りる。

音もなく地面に着地した。


少年は顔をしかめ、涙目で呻く。


「いってぇ……っ、頭……っ!」


じたばたと身体を揺らすが、まだ縛られたまま動きは鈍い。


そんな少年のそばへ、小さな影が近づく。


ゆっくりと手を伸ばし、少年の頭に触れた。


ぽん、ぽん、と軽く叩く。


まるで様子を確かめるように。


少年は一瞬きょとんとし、涙をにじませたままその手を見上げた。


少年は涙をにじませたまま、目の前の小さな影をまじまじと見つめた。


頭の先から、つま先まで。


ぼさぼさの髪。

薄汚れた肌。

傷だらけの手足。


「おまえ……きったねぇな?」


遠慮もなく言い放つ。


視線はそのまま下へと移る。


「で、お前……ちんちんついてねぇじゃん」


思わず眉をひそめる。


「...女でもない、のか?」


そこには、男とも女とも分かる特徴はなかった。

ただ、判別できるものが何もないだけだった。小さな影の股は、ただ何もなく、つるりとした肌だけがあった。


少年はしばらく黙り込み、不思議そうに首をかしげる。


目の前の存在が、よく分からなかった。


「まっいっか」


少年は小さな影に背中を向ける。


「これもほどいてくれよ」


小さな影が動く。

先ほどと同じように、爪を立ててロープへ振り下ろした。


ぶつり、と音を立てて縄が裂ける。

はらはらと、切れたロープが地面へ落ちていった。


少年はようやく解放された両手を大きく伸ばし、ぐっと背伸びをする。


「ありがとな!」


肩を回しながら、小さく息を吐いた。


少年は地面のパンを拾い上げる。

それを半分に割ると、振り返った。


「ほら、約束だからな」


差し出されたパンを、小さな影が片手で受け取る。


しばらくそれを見つめていたが――


やがて、遠慮もなくかぶりついた。


ぱくり、と音を立てて食いちぎる。


その瞬間、唇の間から覗いたのは、牙のように尖った歯だった。


少年もパンにかぶりつきながら、小さな影の様子をちらりと見る。


影は足元に置かれたチーズを見つめていた。


「欲しいのか? ほら」


少年はチーズを拾い上げ、そのまま差し出す。


小さな影は迷いもなくそれを受け取った。


そして――一口で食べた。


噛む間もなく、飲み込む。


少年は目を丸くする。


「おまえ、うまそうに食うな」


思わず、そんな言葉がこぼれた。


小さな影は何も答えない。


ただ、手に残った欠片をじっと見つめていた。


「ったく、しゃーないなぁ」


少年は手に残っていたパンのかけらも差し出す。


次の瞬間、小さな影がその手に食いついた。


「うわっ、やめろってー」


少年は思わず声を上げる。


だが、その顔はどこか楽しそうだった。


軽く手を振りながらも、笑い声が漏れる。


小さな影は気にした様子もなく、夢中でかけらを口に運ぶ。


ただひたすらに、食べることだけに集中していた。


少年はしばらくその様子を見ていたが、やがて口を開いた。


自分の名前を名乗る。


それから、小さな影を指さした。


「お前、名前なんて言うんだ?」


小さな影は答えない。


ただ、首をかしげるだけだった。


「話せないのか?」


反応はない。


少年は少し考え、ゆっくりと区切るように言う。


「名前だよ。なーまーえー」


口の形を見せるように、はっきりと発音する。


それでも、小さな影は黙ったままだった。


ただ、じっと少年を見つめ返している。


「なー……なーなーて……」


小さな影が、あやふやな声でつぶやいた。


「お!なんだ、聞こえてるんじゃん」


少年はぱっと顔を明るくする。


腕を組み、少し考え込む。


「ま、いっか」


ひとつ頷いてから、小さな影を見た。


「とりあえず話せないなら、俺が教えてやるよ」


小さな影は、こくりと頷いた。


どうやら、意思の疎通自体は問題ないらしい。


少年はそれを見て、軽く息を吐く。


「とりあえずお前、黒いからカゲって呼ぶことにしよう」


少しだけ笑いながら言う。


「話せるようになったら、ほんとうの名前、教えてくれよな!」


小さな影――カゲは、もう一度こくりと頷いた。


少年は立ち上がり、軽く身体を伸ばす。


「また明日、この時間な」


振り返りもせず、そう言った。


それだけ告げると、丘をゆっくりと下りていく。

月明かりに照らされた背中が、少しずつ森の中へと消えていった。


その後ろ姿を、カゲはじっと見つめていた。


動くこともなく、ただ静かに。


やがて姿が完全に見えなくなっても、しばらくその場に立ち尽くしていた。






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