ブリジット将軍ー
昼の光がやわらかく差し込む店内は、どこか落ち着いた空気に包まれていた。
木のテーブル。磨かれた床。壁には簡素だが温かみのある装飾。
ベルは目の前の皿を見て、小さく息を吐く。
「……すごいね、これ」
焼き色のついた肉に、香草の香り。添えられた野菜も色鮮やかだ。
ミリィが控えめに頷く。
「はい……見たことのない料理です」
「うん。匂いからしてもうおいしい」
ベルはフォークを手に取り、少しだけ迷ってから一口。
次の瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「……おいしい!」
思わず声が漏れた。
ミリィがくすりと笑う。
「よかったです。ベルさん、食べ物の当たり外れが大きいので」
「そ、そんなことないよ?」
「あります」
即答だった。
ベルは少し頬を膨らませる。
「……だって、旅してると仕方ないじゃん。固いパンとか普通に出てくるし」
「それはそうですが……」
ミリィも少しだけ表情を緩める。
「でも、こういうちゃんとしたお店に入れるのは久しぶりですね」
「うん。ちょっと高かったけど……」
ベルは苦笑しながら、もう一口。
「たまにはいいよね」
「はい」
ミリィも小さく頷き、スープに口をつける。
静かな時間が流れる。
周囲では他の客たちが食事を楽しみ、店員が料理を運び、皿の触れ合う音や談笑が穏やかに重なっていた。
どこにでもある、昼の風景。
ベルはふと、パンをちぎりながら口を開く。
「ねえミリィ」
「はい?」
「東大陸って、どんなところなんだろ」
ミリィは少し考えるように視線を落とした。
「文献でしか知りませんが……中央とはかなり文化が違うそうです」
「へぇ」
「魔術よりも、別の技術が発展しているとか」
「別の?」
「はい。魔道工学、と呼ばれるものです」
ベルは首を傾げる。
「魔術と何が違うの?」
「うまく言えませんが……魔力そのものを扱うというより、装置として扱う、という感じでしょうか」
「装置……」
ベルは自分の手を見た。
指に嵌められた十の指輪。
「なんか……ちょっと似てるかも」
ぽつりと呟く。
ミリィが視線を向ける。
「その指輪、ですか?」
「うん。私もよく分かってないけど……なんか、普通の魔術とは違う感じする」
ベルは苦笑した。
「説明できないんだけどね」
「ベルさんらしいです」
「ひどくない?」
少しだけ頬を膨らませる。
ミリィは小さく笑った。
その時だった。
ベルはふと顔を上げる。
「……あれ?」
ミリィが首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや……なんか、静かだなって」
言いながら、周囲を見回す。
さっきまで聞こえていたはずの音が――ない。
皿の音も。
人の声も。
気づけば。
誰も、いなかった。
テーブルには、食べかけの料理がそのまま残っている。
椅子は引かれたまま。
まるで、ついさっきまでそこに人がいたかのように。
「……っ」
ミリィの表情が強張る。
ベルはゆっくりと立ち上がった。
店の奥を見る。
厨房。
そこにも、人影はない。
代わりに――
静かすぎる。
音が、死んでいる。
「ミリィ、後ろに」
低く言う。
その瞬間。
――カラン。
扉のベルが、遅れて鳴った。
ゆっくりと。
入口の扉が開く。
重たい足音が、床を踏む。
キリキリ、と。
わずかに耳に残る異音。
ベルの視線が、入口へと向く。
軍服。
赤い髪。
片目を覆う眼帯。
そして――冷たい視線。
ブリジット・エルンハイムが、そこに立っていた。
その背後には、整然と並ぶ兵士たち。
逃げ場はない。
すでに、囲まれている。
ブリジットは店内を一瞥し、ゆっくりとベルへ視線を向ける。
そして、淡々と言い放った。
「確認した」
一歩、踏み出す。
キリキリ、と小さな音が鳴る。
「指輪は十。欠損なし」
ベルの指先に、視線が落ちる。
まるで物を見るような目。
そして、わずかに口元を歪めた。
「回収対象ではないが、関係者二名が揃っているな」
空気が、凍りつく。
ミリィが息を呑む。
ベルは一歩、前に出た。
庇うように。
「……何者ですか」
問いかける声は、わずかに硬い。
ブリジットは、視線を逸らさない。
「問答の価値はない」
冷たく言い切る。
「抵抗は無意味だ」
その言葉と同時に。
背後の気配が、さらに濃くなる。
完全な包囲。
ベルはそれを理解する。
逃げ場は――ない。
それでも。
ゆっくりと拳を握った。
その指には、十の指輪が確かに光っていた。
ベルは一歩だけ前に出る。
ミリィを背に庇うように。
「……ミリィ、絶対に離れないで」
「……はい」
小さな返事。
だが、その直後。
「囲め」
ブリジットの一言で、空気が変わった。
兵士たちが一斉に距離を詰める。
逃げ場は、完全に塞がれた。
ベルは歯を食いしばる。
――来る。
踏み込もうとした瞬間、横から腕を掴まれた。
「っ!」
振り払う。
だが、次の瞬間には背後から肩を押さえつけられる。
さらに二人。三人。
一気に自由が奪われた。
「離して!」
必死に抵抗する。
しかし数が違う。
体勢が崩れ、膝が床に触れた。
「ベルさん!」
ミリィの声。
振り向く。
「ミリィ!」
だが、ミリィもまた兵士に取り押さえられていた。
小さな体が持ち上げられ、逃げ場はない。
「やめてください……!」
声が震える。
ベルの胸が締め付けられる。
その前に、ブリジットが歩み寄る。
キリキリ、と。
静かな音を立てながら。
無言のまま、ベルの手を取る。
強引に。
「……これか」
視線は、指輪へ。
一本を掴み――引く。
「……っ」
動かない。
わずかに眉が動く。
もう一度、力を込める。
だが。
びくともしない。
ベルの指に、ぴたりと張り付いたまま。
「……ほう」
低く呟く。
別の指輪へ。
同じように引く。
――外れない。
どれも。
一つも。
兵士の一人が言う。
「閣下、固定式の魔具の可能性が」
「違うな」
即座に否定。
ブリジットはベルの顔を覗き込む。
逃げ場のない距離で。
「意思連動型か」
ベルの瞳が揺れる。
「……なんのことですか」
かすれた声。
ブリジットは答えない。
ただ、口元をわずかに歪めた。
「面倒だな」
手を離す。
ベルの指が解放される。
その代わり――
「連行する」
冷たく言い放つ。
「本体ごと持ち帰れば済む話だ」
「……っ!」
ベルが顔を上げる。
「やめて!ミリィを離して!」
叫ぶ。
ブリジットは視線だけを向ける。
「その小娘も同様だ」
淡々と。
「関係者として確保する」
「そんな……!」
ミリィの顔が青ざめる。
「ベルさん……」
震える声。
ベルは必死に体を捩る。
だが、抑え込む力は緩まない。
むしろ、より強く。
「離して!その子は関係ない!」
「判断するのは貴様ではない」
一蹴。
ブリジットは踵を返す。
「船へ運べ」
「ハ!」
即座に応答が返る。
ベルの腕が引かれる。
無理やり立たされる。
足がもつれる。
それでも、引きずられる。
「やめて……!ミリィ!」
「ベルさん……!」
二人の距離が離れる。
いや、違う。
同じ方向へ引かれているのに、遠く感じる。
抵抗しても、何も変わらない。
指輪は、まだそこにある。
なのに。
何もできない。
ブリジットは一度だけ振り返る。
その目に、わずかな興味。
「……夜が楽しみだ」
ぽつりと呟く。
その意味を、ベルは理解できない。
ただ――
嫌な予感だけが、胸に残った。
「両名、確保」
兵士たちが一斉に動いた。
腕を押さえつけられる。
背中に重い力。
床に押し付けられ、縄で縛られる。
「離して……!」
もがく。
だが意味はない。
ミリィも同じように拘束されていた。
「ベルさん……!」
その声だけが、確かに響く。
――そして。
二人は、そのまま外へと引きずり出された。
昼の光。
だが、通りには誰もいない。
静まり返った街。
用意されていたかのような、空白。
石畳を引かれ、やがて門を抜ける。
外の風が頬を打つ。
遠くに見えるのは――停泊している軍船。
大きく、無機質な影。
逃げ場など、最初からなかったかのように。
そのまま桟橋へ。
足音が木板に響く。
ギシ、と軋む音。
「乗せろ」
短い命令。
ベルとミリィは、ほとんど持ち上げられるようにして船へ運び込まれた。
甲板の空気は重く、油と鉄の匂いが混じっている。
すぐに甲板を横切り、下層へ。
階段を降ろされる。
暗い。
湿った空気。
やがて――
押し込まれた。
狭い船室。
扉が閉まる。
鍵のかかる音。
外界が断たれる。
ベルは床に手をつき、息を整える。
縛られたままの腕が重い。
「……ミリィ、大丈夫?」
「……はい……」
小さな声。
すぐ近くにいる。
それだけが救いだった。
やがて。
扉が、開いた。
ギィ、と重い音。
足音が一つ。
キリキリ、と。
静かな異音。
ブリジットが、そこに立っていた。
船室の中央に置かれた椅子へと進み、そのまま腰を下ろす。
最初からそうするつもりだったかのように。
脚を組み、顎に手を当てる。
視線が、ベルの手へ落ちる。
「さて」
短く息を吐く。
「もう一度試す」
顎で合図。
兵士がベルの腕を固定する。
指を無理やり広げられる。
「やめて……!」
叫びは、無視される。
再び、指輪を掴まれる。
引く。
――外れない。
やはり、動かない。
どれも。
一つも。
ブリジットはしばらくそれを見つめ、やがて手を離した。
「確定だな」
淡々とした声。
「意思連動型」
椅子に深く座り直す。
興味を失ったように視線を外す。
「両名、拘束を維持」
「ハ!」
兵士が一歩下がる。
ブリジットは立ち上がり、扉へ向かう。
その直前、わずかに振り返った。
「……今夜はゆっくり休むといい。明日の朝から尋問を開始する」
「...楽しみだな..,」
ぽつりと呟く。
意味の分からない言葉。
だが――
嫌な予感だけが、胸に残った。
扉が閉まる。
再び、暗闇と静寂。
船は、すでに動き始めていた。




