ー王女様が来たー
柔らかな夕陽が、いつの間にか夜の色へと沈んでいた。
静かな部屋。
ベッドの上で、身体がゆっくりと動く。
瞼が開く。
映る世界が、昼とは違う。
天井。
壁。
窓の位置。
一瞬だけ視線が巡る。
「……なんだここ?」
低い声。
身体を起こす。
短く整えられた銀髪が、さらりと揺れる。
額にかかる前髪をかき上げ、軽く首を鳴らす。
身体の重さはない。
むしろ、よく眠った後の軽さ。
「宿屋か?」
室内を見渡す。
整った寝具。
小さな机。
椅子。
壁際に置かれた荷物。
荒らされた形跡はない。
「珍しくベッドで昼寝しちまったのか、あいつ」
鼻で笑う。
昼の自分が何をしていたのかは知らない。
だが、野宿でないなら文句はない。
立ち上がる。
床に足をつける感触。
窓の外はもう暗い。
王都らしき街灯の明かりが、かすかに揺れている。
「……王都か?」
小さく呟く。
記憶はないが、空気でわかる。
人の多い街の匂い。
規律の匂い。
剣を腰に収め、軽く重さを確かめる。
異常なし。
「ま、静かな夜なら歓迎だ」
そう言った瞬間。
――コン、コン。
扉を叩く音。
少年の視線が、ゆっくりと扉へ向く。
静まり返った室内に、はっきりと響く。
間を置かず、もう一度。
――コン。
今度は少しだけ強く。
少年は無言で立ち上がる。
足音は忍び足ではない。
だが無駄もない。
扉の前に立つ。
気配を探る。
一人。
呼吸は落ち着いている。
敵意は——
今のところ、感じない。
「誰だ」
低く問う。
扉越しに、落ち着いた声が返る。
「夜分に失礼いたします。こちらはベル・ジット様のご宿泊先でお間違えないでしょうか」
初老の男の声。
よく通るが、押しつけがましさはない。
礼節と、品のある響き。
少年は片眉を上げる。
「……ああ。そうだが」
「私は、さる方の使いで参りました」
「さる?」
眉が寄る。
「猿が何の用だ?」
一瞬、沈黙。
「……“ある方”にございます」
淡々と訂正。
少年は鼻で笑う。
「で?」
「先日の街道における襲撃事件の件です」
その一言で、空気がわずかに変わる。
少年の目が細くなる。
「最後まで無傷で残っていた馬車を覚えておいででしょうか」
覚えている。
騒ぎの最中、やけに静かだった一台。
誰が乗っているのか分からなかった。
「そのご乗客が、ぜひ直接礼を申し上げたいと」
「礼?」
少年は短く吐き捨てる。
「いらねぇよ、そんなもん」
視線を逸らす。
(戦ったのは俺じゃねぇし)
口には出さない。
だが本音だ。
「ご厚意はありがたいのですが」
使いの男は言葉を崩さない。
「お断りされますと、私の立場が少々……」
淡々としている。
だが、わずかに困りが滲む。
「何とか、お目通りだけでも願えませんでしょうか」
しつこくはない。
だが退かない。
少年は天井を仰ぐ。
「あー……」
面倒だ。
だが、騒ぎになるのも面倒。
「……会うだけなら構わねぇよ」
ぶっきらぼうに言う。
「でも、すぐ帰ってくれよな?」
間。
扉の向こうで、安堵の気配。
「承知いたしました」
きちんとした一礼が、気配でわかる。
「すぐにお連れいたします」
足音が遠ざかる。
廊下が静かになる。
少年は軽く肩を回す。
「王都ってのは、面倒が向こうから来る街だな」
数刻。
部屋の空気が少し冷える。
そして——
――コン、コン。
再び、扉が叩かれた。
今度は、先ほどよりもわずかに慎重な音。
少年は扉を見据える
「入れ」
短い声。
扉が静かに開く。
先に入ってきたのは、先ほど声をかけてきた初老の男。
白髪を整え、背筋は伸び、片眼鏡が淡く光を反射する。
無駄のない一礼。
「改めまして」
落ち着いた声が部屋に響く。
「ルグレシア王国宮廷侍従長、アイザック・オランと申します」
名乗りは簡潔。
だが重みがある。
少年は壁に寄りかかったまま、軽く顎を引いた。
「で?」
無愛想。
アイザックは動じない。
「本日は、街道襲撃の件にてご助力いただいた御礼のため——」
そこで、扉の外へわずかに視線を向ける。
「殿下、お入りくださいませ」
一拍。
白い衣装の裾が、そっと部屋へと差し込む。
小柄な少女。
長い金髪が背中に流れ、紫の瞳が室内を見渡す。
そして——
その視線が、銀髪の少年を捉えた瞬間。
ほんのわずかに、動揺が走る。
紫の瞳が一瞬だけ揺れた。
助けてくれたのは“少女”だと報告を受けていた。
目の前にいるのは、明らかに少年。
沈黙が落ちる。
だが、崩れない。
アルティシアは呼吸を整え、優雅に裾を摘まんだ。
完璧な一礼。
「夜分に失礼いたします」
声は柔らかい。
揺らぎは、ほとんど残っていない。
アイザックが続ける。
「こちら、ルグレシア王国第二王女」
わずかに間を置き、
「アルティシア・ヴァン・ルグレシア殿下にございます」
紫の瞳が、改めて少年を見る。
動揺は抑え込まれている。
だが、ほんの少しだけ戸惑いの色が残る。
「……アルティシアと申します」
丁寧な敬語。
気品ある所作。
だが内心では、
(女性の方……では、ありませんの……?)
小さな疑問が渦巻いている。
少年は腕を組んだまま、じっと見返す。
「王女が直々に来るほどのことか?」
ぶっきらぼう。
遠慮がない。
アイザックの視線が、静かに少年を測る。
アルティシアは一瞬だけ言葉を選び、
それでも微笑みを崩さない。
「はい。どうしても、直接お礼を申し上げたくて」
その声は本物だ。
だが、視線はわずかに揺れている。
少年は気づいている。
(なんか思ってんな)
だが追及はしない。
「礼なら聞いた」
短く返す。
「それで終わりでいいだろ」
アルティシアの瞳が、ほんの少しだけ強くなる。
「いいえ」
小さな否定。
「私は、きちんとお顔を見て申し上げたかったのです」
その言葉に、アイザックの片眼鏡が静かに光る。
少年は肩をすくめる。
「好きにしろ」
無遠慮。
だが拒絶ではない。
アルティシアはもう一度、深く頭を下げた。
「命を救っていただき、ありがとうございました」
静かな部屋に、澄んだ声が落ちる。
動揺は、もうほとんど見えない。
だが胸の奥では、
“報告との違い”が、確かに引っかかっている。
アルティシアは、もう一度ゆっくりと頭を下げた。
「この度は、わたくしの軽率な外出によりご迷惑をおかけいたしました。にもかかわらず、お救いくださったこと——心より感謝申し上げます」
白い袖が揺れる。
その動き一つにも、育ちの良さが滲む。
隣でアイザックも、静かに一礼した。
「本来であれば、王城へお招きし正式な謝意を表すべきところ。しかし今回はお忍びの件ゆえ、まずはこうして非公式に」
「……堅いな」
銀髪の少年は、椅子の背に体を預けたまま答える。
「たまたま居合わせただけだ。気にすんな」
素っ気ない。
視線も合わせない。
だが、拒絶ではない。
ただ本気で“どうでもいい”と言っているだけだ。
アイザックは一瞬だけ少年を見つめる。
値踏みではない。
観察。
そして結論を出す。
——敵意なし。虚飾なし。
アルティシアもまた、同じことを感じ取っていた。
報告では、助けてくれたのは黒髪の少女。
だが目の前にいるのは銀髪の少年。
体格も声も、まるで違う。
けれど。
(……悪意が、ない)
空気が澄んでいる。
媚びない。
怯えない。
王族を前にして取り繕う気配もない。
それでいて、無礼というほどの棘もない。
ただ自然体。
(不思議な方……)
本で読んだ物語が、ふと脳裏をよぎる。
偶然の出会い。
身分を超えた邂逅。
運命の糸は、時に少しだけ形を変えて現れるのだと。
(もしや——)
胸が、小さく高鳴る。
報告との差異。
性別の齟齬。
そんなことは、物語の導入にすぎないのではないか。
運命とは、時に姿を偽るもの。
だとしたら。
(わたくしは今、その頁を開いたのでは……?)
紫の瞳が、わずかに熱を帯びる。
少年は気づかない。
腕を組み、壁に寄りかかりながら欠伸を噛み殺している。
興味なさそう。
けれど。
だからこそ。
(関心が、ある)
立場も、形式も、報告書の整合性も。
今はどうでもいい。
この出会いが何なのか。
それを確かめたい。
アルティシアは、ほんの少しだけ前へ踏み出した。
「改めて貴方様のお名前を、伺ってもよろしいでしょうか?」
声音が、先ほどより柔らかい。
礼儀ではない。
純粋な興味。
少年は一瞬だけ視線を上げる。
紫と銀が交差する。
「……ベルだ」
短い名乗り。
それだけ。
だがアルティシアの胸の奥で、何かが弾けた。
(ベル……)
物語に出てきてもおかしくない響き。
偶然とは思えない。
運命の出会い。
もしそれが本当なら——
多少の違いなど、問題ではない。
今、わたくしが心を動かされた。
それがすべて。
アルティシアは、誰にも気づかれぬほど小さく微笑んだ。
物語は、きっとここから始まるのだと信じて。
「ベル様」
アルティシアは、すっと一歩前に出た。
「もしよろしければ……少しだけ、お話のお時間をいただけませんか?」
「姫様」
間髪入れず、アイザックが静かに制する。
「本日は既にお時間を過ぎております。これ以上は——」
「存じております」
柔らかい声音。
だが、引かない。
紫の瞳は真っ直ぐにベルを見ている。
「すぐに戻るよう言われていることも承知しております。それでも……この機会を逃すわけにはまいりません」
きっぱり。
小柄な身体に似合わぬ、芯の強さ。
ベルは腕を組んだまま、ふたりを見比べる。
「……あんた、意外と押すな」
「よく言われます」
即答だった。
アイザックが深く、深く溜め息をつく。
「やれやれ……」
その横顔は、長年仕えてきた者だけが見せる諦観に満ちている。
「ベル殿。誠に勝手なお願いではございますが……少々だけ、お時間を頂戴できませんでしょうか」
一礼。
今度は、純粋な頼みだ。
ベルは後頭部をかいた。
「なんか、あんたも大変そうだな」
「慣れております」
間髪入れず返ってくる。
ベルは小さく笑った。
「……ちょっとだけならいいけど」
ぱっと、アルティシアの表情が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「姫様」
「アイザック。下でお待ちください」
「扉の外で控えます」
「下で」
にこり。
だが有無を言わせぬ笑顔。
「……承知いたしました」
渋々、といった様子でアイザックは扉へ向かう。
最後に一度だけベルへ視線を送る。
——何かあれば、すぐに。
無言の圧。
ベルは肩をすくめた。
扉が閉まり、足音が廊下を遠ざかる。
階段を下りる音。
やがて完全に気配が消える。
ベルは天井を見上げ、ぼそりと呟いた。
「……ほんと大変そうだな」
その瞬間。
「ベル様」
声が近い。
さっきまで数歩離れていたはずの距離が、一瞬で詰まっている。
アルティシアが、目の前にいた。
紫の瞳が至近距離で見上げている。
「なっ……」
一歩、後ずさる。
だが背後は壁。
逃げ場なし。
アルティシアはさらに一歩踏み込んだ。
白い衣が揺れ、ほのかな香りが漂う。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
声が小さい。
けれど熱を帯びている。
「報告では、わたくしを助けてくださったのは“黒髪の少女”と伺いました」
じっと見つめる。
逸らさない。
「ですが、今ここにいらっしゃるのは——あなた」
銀髪に指先が触れそうな距離。
「これは、どういうことなのでしょう?」
逃がさない。
問いというより、確かめる視線。
ベルの背に、冷たい壁。
目の前には、期待に満ちた瞳。
そして。
「それとも……」
アルティシアは、ほんのわずかに頬を染める。
「これは物語の導入、なのでしょうか?」
距離、さらに数センチ。
息が触れそうなほど近い。
ベルは眉をひそめた。
「……は?」
至近距離。
紫の瞳が、じっと銀髪を映している。
そして。
「時に——ベル様は、恋人などいらっしゃいますか?」
唐突だった。
「……は?」
間の抜けた声が出る。
「恋人です」
「……いねぇけど」
即答。
迷いなし。
アルティシアは一瞬だけ目を瞬かせ、次にわずかに身を乗り出す。
「では——想いを寄せる方は?」
「いやー、いねぇよ」
ベルはあっさりと肩をすくめた。
「興味もったことねぇ」
本心からの声音。
飾りも含みもない。
沈黙が落ちる。
アルティシアは数秒、ベルの瞳を観察するように見つめ——
ふっと、目を細めた。
「それはそれは」
柔らかな声。
けれどその奥に、確信の光。
報告との差異。
黒髪の少女。
銀髪の少年。
不可解な齟齬。
だが——
目の前の彼から、悪意は感じない。
打算も、色気も、下心も。
恋を知らぬという、あまりにも無垢な反応。
(つまり)
胸の奥が、静かに高鳴る。
(やはりこれは——)
本で幾度も読んだ展開。
偶然の出会い。
常識外れの人物。
報告との食い違い。
そして、恋を知らぬ少年。
(運命の出会い)
そう自覚した瞬間。
アルティシアの中で、何かがすとんと腑に落ちた。
多少の齟齬や差異など、問題ではない。
物語は、時に不可解な形で幕を開けるもの。
ならば。
今はただ——
この出会いを、掴むだけ。
アルティシアは一歩だけ距離を取る。
品位を保った所作。
だが瞳の熱は消えていない。
「ベル様」
にこりと微笑む。
「本日は、改めて——素晴らしいご縁に感謝いたします」
ベルは眉を寄せたまま。
「……さっきも聞いたぞ、それ」
「ええ。ですがこれは“別の意味”でございます」
意味がわからない、という顔。
アルティシアはそれを見て、満足げに微笑んだ。
(恋を知らぬ方)
(ならば——最初に心を射止めるのは、わたくし)
静かに。
だが確固たる決意。
物語は、始まったのだと。
彼女は疑っていなかった。
アルティシアは、ほんの少しだけ視線を落とした。
先ほどまでの勢いとは違う、静かな声。
「わたくしの周りにおりますのは……王族、貴族、騎士。そのような“お堅い方々”ばかりでございます」
ゆっくりと顔を上げる。
「もちろん、立場を鑑みれば当然のこと。ゆえに、わたくしも常に“相応しく”あるよう心掛けております」
背筋は真っ直ぐ。
指先の角度ひとつまで美しい。
それが、彼女の“日常”。
「ですが」
わずかに、声が弾む。
「侍女から聞く恋物語や、本で読む冒険譚……ああいうものに、わたくしはとても強い興味を抱いておりました」
紫の瞳が、きらりと光る。
「自分も良い年齢。そろそろ——恋のひとつも、してみたいと」
ベルは壁にもたれたまま、腕を組む。
「王女様なら、出会いなんてたくさんありそーなもんだけどな」
素朴な疑問。
アルティシアは、ふっと微笑む。
「王女としての“出会い”など……政治や政略のためのものばかり」
静かに首を横に振る。
「家と家。国と国。そのための縁談」
一瞬だけ、目が遠くを見る。
「そのようなものは——本当の恋ではございません」
一歩、近づく。
「物語のように。突然の襲撃に偶然通りかかった隣国の王子に助けられる」
さらに一歩。
「あるいは、龍に攫われ、命懸けで騎士が救い出す」
両手を胸の前で組む。
「そのような——運命の出会い」
熱がこもる。
「わたくしは、ずっと……待ち望んでおりました」
ベルは、じり、とわずかに体を引く。
(うわ、目が本気だ)
少し引いている。
けれど。
(……なんか、面白そうだな)
そう思ってしまう自分もいる。
アルティシアは小さく息を吐いた。
「ですが」
ほんの少し、寂しげに笑う。
「十五歳の今日まで、そのような出会いはございませんでした」
視線が、真っ直ぐベルへ戻る。
「半ば、諦めておりました」
沈黙。
そして。
「——ですが」
声が、震えるほど真剣になる。
「今日。それが、ございました」
ベルの心臓が一拍、遅れる。
「は?」
次の瞬間。
温かな感触。
アルティシアの両手が、ベルの手を包み込んでいた。
ぎゅ、と。
逃がさぬように。
紫の瞳が、至近距離で射抜く。
「突然の襲撃」
「偶然通りかかった、正体不明の少年」
「報告と食い違う謎」
ひとつひとつ、指折り数えるように。
「そして——恋を知らぬと仰るあなた」
にこり。
確信に満ちた笑み。
「これを運命と言わず、何と申しましょう」
ベルは固まったまま。
「いや、ちょっと待て」
手、握られてる。
距離、近い。
目、怖いくらい輝いてる。
だがアルティシアは止まらない。
「わたくしは信じます」
握る力が、ほんの少し強くなる。
「これは、物語の始まりです」
ベルはしばらく黙り込んで——
「……あんた、思ったよりだいぶヤバいな」
ぽつり。
だが。
その口元は、ほんの少しだけ楽しそうに緩んでいた。
「お歳はおいくつですの?」
「18」
「ご趣味は?」
「特にねぇな。強いて言うなら体動かすこと」
「最近ご興味のあるものは?」
「飯。あと寝ること」
「まあ!」
きゃ、と本当に黄色い声を上げる。
「質実剛健……!」
「どこがだよ」
「好きな食べ物は?」
「肉」
「嫌いなものは?」
「面倒ごと」
「まあ!」
いちいち目を輝かせ、いちいち感嘆する。
ベルは律儀に一つひとつ答えているが、内心では少し呆れていた。
(なんでこんなテンション上がってんだ)
だが、その反応が妙に新鮮で。
悪い気は、していない。
やがて。
「……では」
アルティシアの声が、少しだけ落ち着く。
「実際にわたくしたちを助けてくださった、あの女性とは——どのようなご関係でしょう?」
一瞬。
ベルの脳裏に、黒髪の少女の姿がよぎる。
「あー……うん」
頭をかく。
「なんつーか。一緒に育った、家族みてぇなもん?」
素直な声音。
「俺、孤児院育ちだから」
アルティシアは、はっとしたように目を見開き——
そして、静かに頷いた。
「……なるほど」
腑に落ちたという表情。
「そうでしたのね」
その瞳に浮かぶのは、同情ではない。
理解と、納得。
「わたくしも話には聞いておりますが……そのような経験は皆無」
小さく息を吸う。
「何から始めれば良いのか、分かりません」
一瞬、迷うような間。
そして——
「ですが、物語ではこのような時……」
両手を、胸の前で組む。
一歩。
さらに一歩。
ベルとの距離が、ほとんどなくなる。
(……おい)
アルティシアは、そっと目を閉じた。
長い睫毛が影を落とす。
唇が、わずかに突き出される。
静かな、覚悟。
(——ついに)
鼓動が高鳴る。
(わたくしが、物語の主人公になる時が)
ベルは一瞬、虚を突かれた。
止めるべきか?
避けるべきか?
だが。
(まー……減るもんじゃねぇし、いっか)
軽い。
あまりにも軽い判断。
ベルは両肩を掴み、そっと引き寄せる。
顔が近づく。
吐息が混じる距離。
あと、わずか。
その瞬間——
バンッ!!
扉が勢いよく開いた。
「いけません!!」
雷鳴のような声。
アイザック。
驚愕と焦燥をその顔に浮かべ、一直線に駆け寄る。
「姫様!!」
ひょい、と。
まるで子どもを扱うかのように、アルティシアをはがいじめにする。
「な、なにを——!?」
「なりません!!」
じたばたする姫を軽々と抱え上げる。
ベルはぽかんと立ち尽くしたまま。
「……」
数秒の沈黙。
アイザックは姿勢を正し、片手で姫を押さえつけたまま深々と一礼する。
「大変失礼いたしました」
冷静を装っているが、額にはうっすら汗。
「本日はこれにて失礼いたします」
「ちょ、アイザック! まだ——!」
「なりません」
きっぱり。
そのまま半ば強引に、部屋の外へ。
扉が閉まる直前。
アルティシアの声だけが響いた。
「ベル様! これは始まりですからね——!!」
ばたん。
静寂。
ベルはしばらく扉を見つめ。
やがて、ぼそり。
「……嵐みてぇなやつだったな」
だが。
わずかに残る、唇に触れなかった距離。
妙に意識してしまう自分に、舌打ちする。
「面倒ごと……増えそうだな」
そう言いながらも。
ほんの少しだけ、退屈は紛れていた。




