西大陸の姫ー
西大陸
国家の大半が砂漠と深い渓谷によって形作られている大陸。
水は貴重であり、人々は点在するオアシスを中心に都市を築き、そこから小国が生まれていった。
そのため西大陸には、数多くの小国家が存在する。
ルグレシア王国と親交のある国家の一つがカダブランカ王国である。
聖戦の際、この国は避難民の受け入れを承認した数少ない国の一つでもある。
西大陸の文化は独特であり、血統至上主義が強い。
強き血を尊び、優れた血統を持つ者を高く評価する。
また大陸全体が共通の宗教を信仰している。
その宗教の中心にいる存在が、かつてこの地に国を築いた英雄――タブラスカである。
遠い昔、他大陸から一族を率いてこの砂漠へ辿り着き、最初の国家を築いた開祖。
西大陸の人々は彼を英雄として崇め、そして今では神となった存在だと信じている。
人々は誓うとき、こう口にする。
「――英雄タブラスカの名に誓う」
西大陸にはまた、独自の魔術体系と武装武術が存在する。
血統の誇りと、強者への強い憧れが文化の根底にある。
砂漠の夜は、昼とは別の世界になる。
昼間あれほど灼けつくようだった砂は静まり返り、
冷えた風が王宮の石壁を静かに撫でていた。
王の私室。
低い灯火の前で、カダブランカ王は酒杯を傾けていた。
その向かいに、床へあぐらをかくように座っている小さな影がある。
アダラ・カダブランカ。
十三歳の末姫は、顎を机につけるように身を乗り出していた。
「それで?」
黒い瞳が、きらきらと輝いている。
「その神殿ってやつは、ほんとに世界の敵なの?」
王は酒杯を置き、娘をちらりと見た。
「そうらしいな」
あくまで静かな声だった。
だがその言葉の裏にある重みは、アダラにも分かる。
聖戦。
世界中の国が動いているという話は、すでに耳に入っていた。
しかし、アダラが興味を持ったのはそこではなかった。
「それよりさ」
少女は身を乗り出す。
「その話の途中に出てきたやつ」
王はわずかに眉を動かした。
「……どれだ」
アダラは、にやりと笑った。
「魔王殺し」
その名を口にした瞬間、部屋の空気がほんのわずかに変わった。
王はしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「耳が早いな、お前は」
「父様が言ったんじゃん」
アダラはけろりと答えた。
確かに、王は先ほど話の流れでその名を口にしていた。
ほんの一言。
それだけだったのに。
少女は逃さなかった。
王は苦笑する。
「……魔王を討った者だ」
「ほんとに?」
アダラの目がさらに輝いた。
王は肩をすくめる。
「そう聞いている」
「人間が?」
「人間だ」
「ひとりで?」
「……そうだ」
アダラはしばらく黙り込んだ。
そして、ぽつりと呟く。
「すご」
その一言には、純粋な驚きと、
そして強い興味が混ざっていた。
「どんなやつ?」
王は首を横に振る。
「知らん」
「知らないの?」
「世界中が探しているが、姿を見た者はほとんどいない」
アダラは机に頬を乗せたまま、天井を見上げる。
想像しているのだろう。
どんな人物なのか。
どんな戦いをしたのか。
砂漠の王はその顔をしばらく眺めていた。
そして、ぽつりと呟く。
「やめておけ」
「何を?」
「興味を持つのをだ」
アダラはすぐに父を見る。
そして、にっと笑った。
「無理」
即答だった。
王は額を押さえた。
この娘は昔からそうだ。
一度興味を持ったものは、決して手放さない。
アダラは立ち上がり、窓の外の砂漠を眺めた。
星が空いっぱいに散っている。
その向こうの、どこかに。
「魔王殺し、か」
少女は小さく呟いた。
そして、楽しそうに笑う。
「会ってみたいな」
王の私室を出たあと。
アダラは廊下を歩きながら、しばらく考えていた。
星の光が、回廊の窓から差し込んでいる。
砂漠の夜風が、白い髪を揺らした。
「……うん」
やがて、少女は小さく頷く。
決めた顔だった。
アダラはくるりと振り返る。
「ビビ!」
すると、すぐ後ろで慌てた声が上がった。
「は、はいはい〜 ここにいるよ〜 アダラ」
侍女――ビーラン・バーラブ。
通称ビビ。
背中まである黒髪を揺らしながら、小走りで近づいてくる。
胸に巻いた布を押さえながら、やや息を弾ませていた。
「もう〜 急に呼ぶんだもの〜 びっくりしちゃったよ〜」
アダラはそんなこと気にもしていない。
黒い瞳をきらきらさせながら、ビビの前に立つ。
「ねえビビ」
「う〜ん? どうしたの〜?」
「魔王殺しに会いに行こう」
ビビは一瞬、瞬きをした。
そして、にこやかな顔のまま固まる。
「……うん〜?」
聞き間違いだろうか。
「魔王殺し」
アダラはもう一度言った。
「会いたい」
にこにこしている。
完全に本気の顔だった。
ビビは数秒沈黙したあと、ゆっくりと口を開く。
「アダラ〜」
「うん」
「いまのお話ね〜 もう一回聞いてもいいかな〜?」
「魔王殺しに会いたい」
即答だった。
ビビは天井を仰いだ。
深く息を吐く。
「……その人がね〜 どこにいるかって〜 知ってるの〜?」
「知らない」
「じゃあ〜 どうやって会いに行くの〜?」
「探す」
あまりにも当然のように言う。
ビビは額を押さえた。
「アダラ〜」
「なに?」
「それね〜 世界中の人がいま探してる人なんだよ〜?」
「そうなんだ」
「うん〜」
「じゃあ見つかる可能性あるじゃん」
ビビはしばらく黙った。
理屈は、間違っていない。
間違ってはいないのだが――
「う〜ん……まあ〜 そうなんだけどね〜……」
アダラはふっと笑う。
「ビビ」
「なあに〜?」
「強いんでしょ、その人」
黒い瞳が、楽しそうに輝く。
「魔王を倒したんだよ?」
ビビは肩をすくめた。
「うん〜 きっと〜 すごく強いんだろうね〜」
「会いたい」
またそれだ。
アダラは一歩近づく。
「強い人、好き」
ビビは小さくため息をついた。
この顔をしている時の姫は、止まらない。
幼い頃から何度も見てきた。
好奇心の塊。
嵐より止まらない。
ビビは頭を掻いた。
そして、困ったように笑う。
「……もしね〜 ほんとに見つかったら〜 どうするの〜?」
アダラは一瞬も迷わなかった。
「戦う」
ビビは吹き出した。
「ふふ〜 やっぱり〜 そう言うと思ったよ〜」
そして小さく肩をすくめる。
「でもね〜」
ビビはアダラの頭をぽんと軽く叩いた。
「魔王殺しより先にね〜 お父様に見つかったら〜 怒られちゃうよ〜?」
アダラは少しだけ考える。
そして、にっと笑った。
「じゃあ、バレなきゃいい」
ビビは空を見上げた。
砂漠の星空が広がっている。
――また始まった。
そんな顔で、小さく呟く。
「……ほんと〜 困った姫さまだね〜」
少しの沈黙。
やがてビビはしゃがみ込み、アダラの目線に合わせる。
「でもね〜 アダラ〜」
穏やかな声だった。
「魔王殺しってね〜 世界中の人が探してる人なんだよ〜」
アダラは腕を組む。
「うん」
「兵隊さんも〜 冒険者さんも〜 王様たちも〜」
ビビは指を折りながら数える。
「みんな探してるのに〜 見つかってないんだよ〜?」
アダラはじっと聞いていた。
「だからね〜」
ビビはにこりと笑う。
「ちょっと難しいと思うな〜」
その言葉に。
アダラの頬がむくれた。
「やだ」
「アダラ〜」
「行く」
「うーん〜」
「絶対行く」
ビビは困ったように笑う。
「だってね〜 危ないかもしれないし〜」
「行く!」
「お父様にも怒られるし〜」
「行く!!」
ついにアダラは叫んだ。
その勢いのまま、ぐいっとビビの胸元に手を伸ばす。
「え?」
ビビは一瞬きょとんとする。
次の瞬間。
指が、胸に巻かれた布の紐をつまんだ。
「えっ……アダラ?」
ぴん。
紐が引っ張られる。
「あ、あ〜 それは〜 だめだよ〜」
ビビは慌てて紐を押さえる。
「アダラ〜 引っ張っちゃだめだよ〜」
アダラはにやっと笑った。
ぐい。
「わ、わ〜 だめだってば〜」
ビビは両手で胸元を押さえる。
「それほどけちゃうから〜」
「行く」
ぐい。
「アダラ〜〜」
ビビは慌てて後ろに下がる。
だがアダラは離さない。
小さな体で踏ん張る。
「絶対行く!」
「ちょ、ちょっと待って〜」
びよん。
紐が大きく伸びる。
ビビの顔が青くなる。
「あ〜〜〜〜」
そのまま。
するり。
結び目が解けた。
胸布がゆっくりとほどけ、
ぱさっ。
床へ落ちた。
「きゃっ……!」
ビビは慌ててしゃがみ込み、胸を押さえる。
顔は真っ赤だ。
「アダラ〜 だめだよ〜 こういうことしちゃ〜」
急いで胸布を拾い上げ、あたふたと巻き直す。
アダラはそんな様子を見て、けらけら笑った。
「ビビ、ドジ」
「ドジじゃないよ〜!」
ビビは慌てて結び直しながら抗議する。
「アダラが引っ張るからだよ〜!」
アダラは腕を組み、得意げに胸を張った。
「とにかく」
そして、ぴしっと指を立てる。
「魔王殺し、会いに行く」
きっぱり言い切った。
ビビはその顔を見て、しばらく黙る。
そして。
ゆっくりため息をついた。
「……はぁ〜」
空を見上げる。
砂漠の星空が、静かに輝いていた。
「……ほんとに〜 困った姫さまだよ〜」
夜の港は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。
砂漠の風が海へ流れ込み、帆柱の縄をかすかに鳴らしている。
月は高く、銀色の光が水面を細く揺らしていた。
その港の隅。
大きな商船の影に紛れるように、小型の船が一隻停まっている。
その甲板の上に、白い髪の少女が立っていた。
アダラ・カダブランカ。
両手を腰に当て、満足そうに港を見渡す。
「よし」
小さく頷いた。
「出発」
その背後で、ため息がひとつ落ちる。
「……ほんとに来ちゃったね〜」
ビビだった。
胸布をきっちり巻き直しながら、困ったように笑っている。
「アダラ〜 まだ戻れるよ〜?」
「やだ」
即答だった。
「魔王殺し、会いに行く」
ビビは空を見上げる。
「お父様が知ったら怒るよ〜」
「バレなきゃいい」
そのとき。
甲板の向こうから声が上がった。
「おーい姫さま」
男が手を振っている。
浅黒い肌の青年。
背中には曲刀。
その後ろにも、同じような連中がぞろぞろと集まっていた。
十人ほど。
いや、もう少しいる。
どいつもこいつも、兵士というよりは――
町の悪ガキがそのまま大きくなったような連中だ。
アダラはぱっと顔を輝かせる。
「お、いた」
男は笑った。
「ほんとに来たな」
「当たり前」
アダラは胸を張る。
「船、出せる?」
男は親指で後ろを指した。
「もう準備終わってる」
別の男が笑う。
「王宮の警備、今夜は南門に集まってるぜ」
「港の見張りも酒飲んで寝てる」
「この船、朝まで誰も気づかねえ」
ビビはその話を聞いて、またため息をついた。
「……悪い人たちばっかり集めたね〜 アダラ〜」
すると一人が振り向く。
「ひどいな侍女さん」
「俺ら姫さまの部下だぜ?」
「そうそう」
別の男が笑う。
「悪友とも言うけどな」
船の上に笑いが広がった。
アダラは満足そうにうなずく。
「いいじゃん」
そして腕を広げた。
「みんな強い」
それが理由だった。
ビビは頭を抱える。
「はぁ〜……」
そのとき。
船の綱が外される。
帆がゆっくりと風を受けた。
船体が、静かに港から離れていく。
岸壁の灯りが少しずつ遠ざかる。
カダブランカの街が、夜の向こうに沈んでいった。
アダラは船首に立ち、海を見つめる。
黒い水面の向こう。
まだ見ぬ世界。
そして――
「魔王殺し」
小さく呟く。
青い目が、楽しそうに輝いた。
「絶対見つける」
背後で、ビビがまたため息をついた。
「……ほんと〜 困った姫さまだよ〜」




