アカリ顕現するー
影が揺らめき、ざわめくような気配がベルの周囲を包む。
黒く深い闇の中から、ゆっくりと――まるで夜そのものが形を取るように――細身の女性が現れた。長く艶やかな黒髪が足元まで垂れ、白い肌が月明かりのように淡く光る。静かに、しかし確かな存在感で、影の中から抜け出したその姿は、言葉を発しなくとも世界の空気を変えるほどだった。
ベルは息を呑む。そこに立つのは――闇の姫神、ミカゲ。目を細めると、気だるげな瞳がこちらを見据えている。抑揚のないその視線の奥に、ベルの願いを受け止める強さが秘められていた。
ベルの目から涙が溢れた。久しぶりに流れる、嬉しい涙だった。
「ミカゲ…出てきて…くれたのね。ありがとう」
ミカゲは静かに、気だるげな声で応える。
「貴女のためではありません。ただ、我が愛しの主様のためならば――」
その言葉に、影の姫神らしい冷たさと、どこか重く深い愛情が滲んでいた。ベルは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
ミカゲはゆるやかに首を傾げ、気だるげに声を落とす。
「貴女は知らないでしょうけど…主様は眠っている間、ずっと私の元にいるのです。だからそう、今までも、ずっと私の胸の中で眠っていた。私にとって、それはそれはとても幸せな時間――幸せの極み。だから私は、今のままで良いのです」
ベルは目を丸くし、ぽつりと漏らす。
「なにそれ…私も眠っている時は、そうなの…?」
ミカゲは少し間を置き、淡々と答えた。
「貴女は…その辺りに転がってるんじゃありませんか?知りませんけど」
ベルは思わず吹き出しそうになり、涙と笑いが交じったような表情でミカゲを見る。
ベルの胸に、久しぶりの熱い希望が戻る。
「彼は――ちゃんと、いるんだ」
小さく息をつき、ベルは願いを紡ぐ。
「ミカゲ、なんとかあいつ…彼と話がしたいの、なんとかできない?」
ミカゲは気だるげに首を傾げ、ゆっくりとした口調で答える。
「…それは、誰のためですか?」
ベルは迷わず答えた。
「私とみんなのため、そしてもちろん、彼のためだから」
その言葉には、抑えきれない熱が籠められていた。ミカゲは一瞬、目を伏せて逡巡する。やがて顕現した身体をゆっくりと影の中へ引き戻す。
ベル「あ、あれ…?ミカゲ…ミカゲさん…?」
その瞬間、顕現していたはずのミカゲが、するすると影の中へ滑り込むように戻った。ベルは慌てて手を伸ばすが、もう届かない。胸の奥でざわりとした不安が膨らむ。
影の奥から、あの気だるげな声が響いた。
「慌てずとも、その願い。私が応えてさしあげましょう」
その声は、冷たくもあり、優しくもあり、ベルの胸に静かな安堵を落とす。肩の力が少し抜ける。息が、少しだけ、落ち着いた。
だが、その影の中からさらに声が続く。低く、確信に満ちた響き。
「アカリ…あの子に声をかけて。同じ様に願いなさい。話はついてます」
ベルは影の中の存在を見つめながら、小さく息をつき、心の中で決意を固めた。
「わかった…やってみる…」
影の気配が、静かに、そして確かに、ベルを包む。
ベルは再び両手の指輪に視線を落とす。
その指先には、淡く光を帯びる10の指輪。
「アカリ…お願い。彼と話がしたいの。私と、みんなと、彼のために…」
声に力を込め、心の底から願う。
すると、わずかに指輪が震えた。
小さな振動が手のひらを伝い、ベルの胸に温かく広がる。
「…うん、わかってくれたんだ」
ベルの唇から、小さく、しかし確かな笑みがこぼれた。
心の奥で、希望の火がゆっくりと灯り始める。
ベルの手のひらの指輪が、かすかに震えた。
淡い光が指先から漏れ出し、ゆっくりと形を帯びる。
「……あ、アカリ……?」
目の前に立っていたのは、光の姫神――アカリ。
全身が半透明の水晶のように輝き、腰まで届くストレートの髪を静かに揺らしている。柔らかく、澄んだ光が周囲をほんのりと照らす。
「初めまして……アカリと申します」
少女は小さくぺこりと頭を下げる。おっとりとした声には、初めて会う相手への礼儀と、控えめな緊張が混ざっていた。
ベルは言葉を失い、ただその光景を見つめる。
「…いてくれたんだね」
胸の奥で久しぶりに、静かに安心が広がる。
影の中で静かに佇んでいた不安が、アカリの光に少しずつ溶かされていくのを感じた。
ベルは息を整え、少し震える手をそっとアカリの前に差し出した。
「アカリ……お願い。彼と話がしたいの。私と、みんなと、彼のために」
アカリは微笑んだまま、ゆっくりと頷く。
「承知いたしました、ベルさん。お力になれるよう、最善を尽くします」
光の粒子がベルの周囲で淡く震え、指輪もまた強く振動した。
まるで小さな心臓が跳ねるかのように。
「……ありがとう、アカリ」
ベルの声に熱がこもる。絶望の淵で芽生えた、ほんのわずかな希望の光。
その瞬間、アカリの体から放たれた光が指輪に吸い込まれるように流れ込み、十の指輪が一斉に震えた。
影の中で眠っていた力が、目覚める――ベルの胸に、確かな手応えとして伝わってきた。
「……よし、これなら」
ベルの心は固く決意に満ち、未来への小さな希望が胸の奥で灯った。
彼がそこにいてくれる、姫神たちの力がある、そして自分にはまだ、できることがある――そう信じられた。
アカリの腰まで届く髪が、光を帯びてふわりと宙に浮いた。
その一筋一筋の光の中に、ベルの姿が映し出される――まるで水晶のスクリーンのように。
映るのは、銀髪の少年ベル。寝起きのせいか、髪はぐしゃぐしゃで、半分寝ぼけたような目をしている。
「……ん……あれ……ここは……?」
小さく伸びをしながら、彼はまだ完全には目を覚ましていない。
ベルはその光景を見て、胸がじんと熱くなる。
「あ……あいつ……」
確かにここにいる、無事で――ほんの少し呆れたような寝ぼけ顔のまま、そこにいる。
アカリは静かに微笑む。
「主様、目覚めておいでですわ。話を、聞いていただけますか?」
少年ベルはぼんやりと光の中のベル――自分自身の姿――を見つめ、そして、少しずつ目を開いた。
少年ベルの寝ぼけた目が、光の中の少女ベルに向けられる。
「……お前か」
寝起きのぼんやりした声に、少女ベルの胸はじんと熱くなる。
「そう……私よ、無事でよかった」
少女ベルは心の奥で、ようやく少し安心した気持ちを抱く。
少年ベルはまだ眠そうに身を起こし、光の中のベルを見つめる。
「……お前も大変だったみたいたな」
その声に少女ベルは軽く息をつき、目に力を込める。
「ええ、でももう……諦めない。私のために、みんなのために、そしてあなたのために」
少年ベルの目が微かに光る。
「……わかった。ありがとうな」
少女ベルは小さく頷き、指輪の震えを手のひらで感じながら、確信をもって言う。
「ありがとう……ミカゲも、アカリも、みんな信じる」
影と光が二人をつなぎ、長い絶望の先に、ようやく希望の火が灯った。
少女ベルは光の中で少年ベルを見つめ、少し俯いて言った。
「今回は私のせいで、こんなことになって本当にごめんなさい」
少年ベルは寝ぼけたような目を細め、肩をすくめる。
「いいって、気にすんな。なんかよくわかんねぇけど」
その一言に、少女ベルは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
心の奥で、ずっと抱えていた後悔と不安が、ほんの少しだけ和らいだ。
少年ベルはまだぼんやりしながらも、柔らかく微笑む。
「……でも、もう大丈夫だろ?俺たち、これから一緒にやるんだから」
少女ベルは静かに頷き、指輪に手をやった。
「うん……信じて、進もう」
光と影に包まれた二人は、長い絶望の後で、やっと少しだけ未来を見つめることができた。
少年ベルはまだ少し眠そうに目をこすりながら言った。
「そんじゃさっそく、今の状況教えてくれよ。俺は森の湖でミリィから話聞いたとこまでしかわかんねぇから」
少女ベルはこくりと頷く。
「うん、わかった。まとめて話すね」
それからベルは、ここまでの出来事をできるだけ簡潔に話した。
神殿国家の聖戦宣言。
各勢力の集結。
そして想定をはるかに超えた敵軍。
話し終えると、光の向こうで少年ベルが腕を組む。
「んー……つまり今、十万の大軍が攻めてきてるってことだな?」
「うん、そう」
「で、それをなんとかしたいんだな?」
少女ベルの顔がぱっと上がる。
「そう!なんとかしたいの!」
少年ベルは小さく息を吐く。
「なるほどなぁー」
その間の抜けた声に、少女ベルは思わず身を乗り出した。
「なんとか、しなくちゃいけないの!お願い」
少年ベルは頭をかきながら、少しだけ顔をしかめる。
「俺はその腕輪をなんとかしないと出れねぇし、どっちみち夜じゃねぇとだしなぁ」
少女ベルは一瞬言葉に詰まり、指輪を見つめる。
「……わ、私が姫神全員の力を引き出して戦ったりは、無理?」
恐る恐る尋ねる。
少年ベルは少しだけ考え、肩をすくめた。
「できるかもしんねぇけど」
そして、さらっと言った。
「アカリ一人でヒィヒィ言ってんだから、たぶん死ぬぞ。お前」
少年ベルは頬をかきながら、少し言いにくそうに続けた。
「お前が姫神の力をうまく扱えねぇのは、まあ……お前にも問題あるのは確かなんだけど」
少女ベルは身構える。
少年ベルは遠慮なく言った。
「お前、あんまり好かれてねぇし」
「あぅっ……」
胸の真ん中に、ぐさりと刺さった。
思わず肩が落ちる。
少年ベルはそんな様子を見て、ふっと小さく息を吐いた。
「でもな」
少しだけ声の調子が変わる。
「単純に、お前の身体に負担かけねぇ様に気遣われてるのもあるんだぜ?」
少女ベルが顔を上げる。
少年ベルは肩をすくめた。
「あいつら、なんだかんだ優しいから」
少年ベルはあっさりと言った。
「だから今回、俺はなんもできねぇし、お前もなんもできねぇよ」
その言葉を聞いた瞬間、少女ベルの胸の奥で何かが弾けた。
「諦めろって言うの!?」
思わず声が強くなる。
「そんなこと、絶対、絶対にできないよ!」
拳を握りしめる。
「みんな今、戦おうとしてるんだよ!世界を守ろうって……命をかけて!」
声が震える。けれど、目だけはまっすぐだった。
「私のせいで始まったことなのに……私だけ何もしないなんて、そんなの……!」
言葉が詰まり、唇を噛む。
光の向こうで、少年ベルは黙ってその様子を見ていた。
少年ベルは少女ベルの剣幕を、どこか呆れたように眺めていた。
そしてぽりぽりと頭をかきながら言う。
「お前、人の話最後まで聞かないとこ、変わんねぇよなー」
少女ベルの眉がぴくりと跳ねた。
「あ、あんたには言われたくないわよ!」
すぐに言い返す。
少年ベルは軽く手を振った。
「いいからいいから」
まるで子どもをなだめるような調子で続ける。
「ちょっとこのまま俺を、作戦会議室?に連れてってくれよ」
少女ベルはきょとんとする。
「え?」
少年ベルはあくびを一つ噛み殺しながら言った。
「ちょっと俺に、いいアイデアがあるんだ」
廊下を急ぐベルの影から、淡い光が揺れていた。
その光をまとったまま、ベルは臨時作戦会議室の扉を開く。
中にいた面々の視線が、一斉に入口へ向いた。
次の瞬間――
「……な、なんだあれは」
「光……?」
「人……なのか……?」
どよめきが広がる。
ベルの隣に立っていたのは、半透明の身体をした少女だった。
水晶のように透き通る肌。腰まで伸びた髪が、淡く光をまとってふわりと揺れている。
少女はにこにこと穏やかに微笑むと、
ぺこり。
丁寧に頭を下げた。
そのあまりに自然な挨拶に、会議室の空気が一瞬止まる。
そして――
つられるように、その場にいた全員が思わず頭を下げた。
バロムも、リックも、マークスも。
アンジュですら、反射的にぺこりと頭を下げてしまう。
静まり返った部屋の中で、ベルが慌てて両手を振った。
「ま、まぁまぁ!説明はあとで!あとでしますから!」
強引に流す。
そのとき――
アカリの髪が、ふわりと浮かび上がった。
広がった光の髪の中に、水面のような光の膜が現れる。
そこに映し出されたのは――
銀髪の少年。
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
「……っ」
マリーナの目が見開かれる。
信じられないものを見るように、光の中の少年を見つめる。
そして。
「……生きて……」
声が震えた。
「生きて……いたのか……」
その場で膝が崩れ落ちる。
「ばか……っ……」
ぼろぼろと涙があふれる。
「ばか……ばか者……!」
怒っているのか、安堵しているのか、自分でもわからない声で叫びながら。
マリーナはその場で、まるで女の子のように泣き崩れた。




