普通になりたかっただけなのにー
宿屋の自室。木製の床と簡素な家具の間に、外の騒がしさは届くものの、部屋の中は静かだった。窓から見える通りは、人の気配がほとんどない。時折、街の守備に向かう警官やギルド、教会の人間が慌ただしく駆け抜ける姿がちらりと見えるだけだ。
ベルは窓際の椅子に腰かけ、外の動きをぼんやりと眺めていた。ミリィはテーブルに身を乗り出し、街の様子を窺う。
「ベルさん……人、いなくなったみたいです」ミリィが小さな声で言う。
「うん……みんな、後方に避難したみたいね」ベルも静かに答える。
街は普段の喧騒を失い、戦の前の緊張が漂う。ベルは胸の奥で、微かにざわつく感覚を覚える。ここから先、何が起こるのか――そして自分が何をできるのか。
窓の向こう、遠くに見える丘陵の上で、警察やギルド、教会の精鋭が急ぎ足で移動する。その一歩一歩に、戦いの影が濃く落ちる。ベルは視線をそらし、深く息をついた。
「……でも、私たちにできることはあるのかな...」ベルがつぶやく。
ミリィは小さく頷き、少し遠慮がちに言う。
「……きっと大丈夫です。皆様が協力してくれているから」
部屋の静寂の中、二人は互いの存在に支えられながら、迫りくる戦いを静かに受け止めていた。
「ミリィ……そろそろ避難したほうがいいよ。ここにいたら危ないから」ベルは落ち着いた声で言う。
ミリィは小さな拳を握りしめ、必死に言った。
「でも……ベルさんが残るなら、私も残ります!離れたりできません!」
ベルは優しく首を振る。
「だめだよ、ミリィ。ここはあなたがいる場所じゃない」
ミリィは少し涙ぐみながらも食い下がる。
「でも……ベルさん、一人にはできません!」
ベルは深く息をつき、柔らかく言った。
「うん、でも私が守れるかどうか分からないから……お願い、ここから離れて」
ミリィは唇をかみしめ、小さく頷いた。
「……でも...でも…ベルさん」
ベルはそっと微笑み、ミリィの頭を撫でる。
部屋の静寂の中、二人の間には覚悟と少しの不安が混ざり合った。遠くの街には、神殿軍の影が少しずつ迫りつつある。
「あとでマリーナさんが迎えにくるから、ミリィは避難して」
ミリィは小さな体を震わせながら、必死に首を振る。
「わ、私、嫌です!ここに残ります!」
ベルは少し困ったように眉をひそめ、でも柔らかく声をかけた。
「ミリィ、わがまま言わないで。お願いだから」
ミリィは涙を浮かべ、ベルにしがみつく。
「ベルさん……」
ベルはその小さな頭をそっと抱き寄せ、優しく撫でた。
「……ありがとう。でもミリィには無事でいてほしいの。お願い」
ミリィは少しずつ落ち着きを取り戻し、ベルの胸に顔をうずめながらも、安心したように小さく頷いた。
部屋の静けさの中、二人の間には言葉にならない信頼と覚悟が静かに流れていた。
迎えに来たマリーナの部下に、ミリィを託す。
「ベルさん……いやです……いやです!」ミリィは小さな体を震わせ、泣きながらしがみつく。
「お願いだから、避難して……!」ベルは必死に抱きしめ返す。
だが、警官たちは容赦なく手を差し伸べ、ミリィを引き離す。
「ほら...ここにいたら危ないから...子供は安全な場所へ!」
ミリィは泣き叫び、抵抗する。
「ベルさんを一人にしないで……!」
それでも警官は強引に抱き上げ、街を離れる馬車へと連れて行った。ミリィの小さな声が、遠ざかっていく。
ベルは一人、静かに立ち尽くす。普段の明るさはどこにもなく、街の通りはまるで息を潜めたように静まり返っていた。
歩き始めると、避難した街の人々の顔が浮かぶ。笑顔で手を振る子供たち、慌ただしく荷物を運ぶ家族、助け合う仲間たち。ベルの胸は、申し訳なさでいっぱいだった。
神殿の侵攻が伝わってから、教会やギルド、警察、そしてさまざまな国や街の人々から連絡が来ていた。しかし、誰一人として、ベルを責める者はいなかった。
「……みんな、ありがとう」ベルは小さくつぶやく。
「そして....本当にごめんなさい」
街は静かに、嵐の前の緊張をまとっていた。
街を歩きながら、ベルの胸の奥に重たい感情が渦巻く。
『私は……『魔王殺し』本人じゃないから、誰も何も言えない。姿を見せないから、文句も言えない。』
『あいつがいたら、きっともっと責められたんだろうな。……当然だよね。みんな、大陸中が、私たちのせいで巻き込まれて、大変なことになってるんだから』
『きっと責めたいのに、文句を言いたいのに、言う相手がいないから……』
ベルの足取りは静かだが、胸の中の申し訳なさは消えず、ずしりと重い。
『あいつとは……もう会えないのかな……』
街は静まり返り、遠くに避難した人々の影を思い浮かべながら、ベルは自分にできることがあるのか...?と考えていた。
街の中央広場に来ると、先日のマリーナとクレタの戦いでできたクレーターが目の前に広がっていた。今は厳重に封鎖され、フェンスをくぐって中に入ると、広場の中心に立つベルの目に、かつての景色はもうなかった。
木々もベンチも噴水も、すべて消え失せていた。
「……こんな風になっちゃうの……」
ベルは小さく呟きながら、膝を折り、その場に崩れ落ちる。両手を自分の体に回し、ぎゅっと抱きしめる。悲しい。怖い。申し訳ない。
街だけじゃない、ほかの街や村も、国も、もしかしたら大陸全土が、こうなるかもしれない——その思いが胸を押し潰す。
涙が堪えきれず、静かに頬を伝う。感情が渦巻き、心と頭を支配する。ベルはただ、その場で小さく震えながら、泣き続けた。
「私が……あんな腕輪なんてつけられてなければ……」
ベルの唇から小さくも苦しい吐息が漏れる。
きっと、あいつなら——こんなときでも、なんとかしてくれた。
普段は何もしたがらなくて、だらだらしてるだけの、よくわからないやつだった。でも、やるときはやる。やってきた。
「……どうして……いてくれないの……世界には今、あなたが必要なのに……」
膝の上で震える両手の間から、こぼれ落ちる涙。街の静寂の中、ベルの声は自分の胸の奥にだけ届く。誰も責めない、でも責められない——あいつにだけ、今すぐ来てほしいと、切実に思う。
「……ごめんなさい」
みんなを、たくさんの人たちを巻き込んでしまって、ジット村のみんなも——
「……ごめんなさい」
こんな時に何もできない私で、
「……ごめんなさい」
残ったのがあいつじゃなくて、何もできない私で、
「……ごめんなさい」
こんな私たちが存在していることを、
「……ごめんなさい」
マリーナやアンジュ達、そしてミリィにー
胸が詰まるような痛みに耐えながら、ベルはさらに小さく、もう一度つぶやく。
「……ごめんなさい」
両膝をついたまま空を見上げ、ベルは少し笑った。
「あーあ……こんなことなら、『普通になりたい』なんて思わなければよかった……」
ずっとずっと、あの村で、何もせず、何も思わず、何も考えず、あるがままを受け入れて……静かに、誰にも関わらず、ひとりで生きていればよかったのに。
「みんな……ごめんなさい」
静かな街に、ベルの小さな独白だけが響く。
「あれー?君まーだこんなところにいるんだー?」




