月光雫ー
クレタの槍先から、淡い光が零れ落ちる。
ぽたり、と。
まるで月の雫のように。
それは石畳へ落ちる寸前、ふっと霧のように広がった。
マリーナの靴先が、そこに触れる。
その瞬間――
クレタが笑った。
「月光雫――」
槍を肩に担ぎ、ゆっくりと告げる。
「月の光は、この世の穢れを照らし出す」
穂先が、マリーナへ向いた。
「この雫に触れたものは――」
クレタの口元が歪む。
「これまでに受けた傷が」
一拍。
「――開く!」
その瞬間。
ズキンッ!!
マリーナの身体が震えた。
胸。
肩。
腹。
脚。
全身に、鋭い痛みが走る。
「……っ!」
マリーナの息が詰まる。
理解した瞬間、背筋が凍った。
(まさか――)
ルーファスとの戦い。
全身を――百一箇所。
貫かれた。
魔術で回復はした。
傷跡も残っていない。
だが。
この身体に。
傷のない場所などない。
警察時代。
そして――軍にいた頃。
戦場で受けた傷は、数えきれない。
癒えても。
消えても。
それは確かに存在していた。
そのすべてが――
「ぐ……っ!」
マリーナの膝が、わずかに揺れた。
身体のあちこちで、裂けるような痛みが走る。
まるで。
昔の傷が、今この瞬間に開いたかのように。
クレタはその様子を見て、楽しそうに笑う。
「おいおい」
槍を軽く回す。
「派手にやられてんじゃねぇか」
目を細めた。
「てめぇ、結構な修羅場くぐってんな」
マリーナは歯を食いしばる。
呼吸を整える。
痛みはある。
だが。
倒れるほどではない。
クレタが肩をすくめた。
「安心しろよ」
槍を構える。
「まだ全部は開いてねぇ」
口角が上がる。
「月の雫はな」
穂先が、ゆっくりと持ち上がる。
「触れれば触れるほど――」
月光が、また一滴落ちた。
「どんどん開くんだよ」
その瞬間。
クレタが踏み込んだ。
槍が閃く。
(あの光に触れるのはマズイ!)
マリーナの身体が雷をまとった。
バチッ――!
足元の石畳が焦げる。
次の瞬間、彼女の姿が横へ弾けた。
クレタの槍が空を切る。
「逃げんのかよ!」
クレタが笑う。
槍を回転させる。
月光が散る。
ぽたり。
また一滴、月光雫が落ちる。
マリーナはそれを避けながら動き続ける。
雷装による高速移動。
同時に――
詠唱。
(高速詠唱、維持)
思考は止めない。
戦いながら、分析する。
(ベルの能力で傷は治療された)
あの戦い。
ルーファス。
全身を――百一箇所。
貫かれた。
急所は外されていたとはいえ。
本来なら。
(あの場で死んでいた)
ベルの能力がなければ。
今こうして立っていること自体が奇跡だ。
だが。
クレタの言葉。
「これまでに受けた傷が開く」
そのはずなのに――
「おらぁ!」
槍が薙ぐ。
マリーナが跳ぶ。
トンファーで弾く。
ガンッ!!
火花。
その衝撃の中で。
マリーナの思考が止まる。
(……違う)
痛みはある。
古傷が疼く。
だが。
あの傷は違う。
(ルーファス戦の傷は――)
身体を走査する。
胸。
腹。
肩。
背。
マリーナの目が、わずかに細くなる。
(なぜ?)
その瞬間。
クレタが槍を振り上げた。
月光雫が、また一滴落ちる。
「どうした警部さん!」
クレタが楽しそうに笑う。
「顔色悪いじゃねぇか!」
槍が突き出される。
マリーナはそれを弾きながら――
考え続けていた。
雷光が弾ける。
マリーナは走る。
クレタの槍を受け、逸らし、踏み込み、跳ぶ。
戦いながら――考える。
(なぜだ)
月光雫に触れた者は、これまで受けた傷が開く。
それがこの槍の能力。
ならば。
ルーファスに刻まれた――
百一箇所の刺し傷。
それが開かないはずがない。
だが。
(開いていない)
胸も。
腹も。
肩も。
背も。
確かに刻まれていたはずの致命傷が――
一つも、開いていない。
雷装の加速の中で、思考が研ぎ澄まされる。
槍を弾く。
踏み込む。
避ける。
そして――
マリーナの脳裏に、一つの答えが浮かぶ。
(なるほど……)
確信。
完全な理解。
(そういうことだな、ベル)
あれは――
治療ではない。
回復でもない。
マリーナは理解する。
ベルが行ったこと。
それは――
『再生』
違う。
もっと正確に言うなら。
傷を治したのではない。
傷という出来事そのものを、消した。
存在しなかったことにした。
だから。
開くはずがない。
最初から存在していないのだから。
マリーナの口元が、ゆっくりと歪む。
「……そういうことか」
雷光の中で。
静かな笑み。
「味な真似をしてくれるではないか」
クレタが眉をひそめた。
「てめぇ……何笑ってやがんだよ」
マリーナは槍を弾きながら答える。
その声は――
どこか誇らしげだった。
「これが笑わずにいられるか」
雷が走る。
マリーナの身体が、さらに加速する。
「私は今――」
一瞬。
槍を踏み台に跳び上がる。
空中で回転し、着地。
雷が爆ぜた。
「愛しき者の愛により、立っているのだから!」
クレタが顔をしかめる。
「……はぁ〜?」
肩を回し、槍を担ぐ。
「何言ってんだ、てめぇ」
クレタは舌打ちした。
「戦いの最中に惚気かよ」
槍が、月光を吸う。
「気色悪ぃな」
次の瞬間――
地面を蹴った。
「だったらよ!」
槍が閃く。
「その愛ごと、ぶっ壊してやるよ!!」
月光雫が、弾け散った。
その間にも。
月光雫が落ちる。
触れるたび。
古傷が開く。
胸。
腹。
腕。
脚。
マリーナは、自分の身体を思い出す。
(怪我をしていない場所など)
(思い出せないな)
戦い。
戦い。
また戦い。
それが彼女の人生だった。
だが。
マリーナは小さく笑う。
(だが、それこそが――)
トンファーを回す。
雷が走る。
(私の戦いの歴史)
(私が正義のために生きた証)
そして今。
マリーナの目が、真っ直ぐクレタを見た。
「そして今――」
一歩、前へ出る。
「私は」
静かに言う。
「『愛』を手に入れた」
クレタが顔をしかめた。
「……なんだこいつ」
槍を回す。
「やべーな」
マリーナが一歩止まる。
そして。
ゆっくりと。
顔に手をかけた。
眼鏡を外す。
カチッ。
それは――
封印具。
外れた瞬間。
ドンッッッッ!!!
空気が震えた。
魔力が。
爆発する。
雷が暴風のように吹き荒れる。
石畳が砕ける。
クレタの目が見開かれた。
「……なんだてめぇ」
歯を剥く。
「まだそんなもん隠してやがったのかよ」
マリーナは静かに眼鏡を握る。
そして言った。
まるで宣言のように。
「愛を知った」
雷が渦巻く。
「この私こそが――」
トンファーを構える。
「愛と正義の戦士であると!」
その言葉と同時。
マリーナの足が、消えた。
地面が爆ぜる。
「――っ!」
クレタの槍が反射的に動く。
だが。
「遅い」
マリーナの拳が、すでにそこにあった。
轟音。
槍の柄に叩き込まれた拳が、衝撃波を撒き散らす。
クレタの身体が十数メートル吹き飛び、地面を滑る。
「……はは」
クレタは土煙の中で立ち上がった。
口の端から血が垂れている。
「いいじゃねぇか」
槍を回す。
月光が、再び刃に宿る。
「その顔」
クレタが笑った。
「うち、そういうやべぇ奴、嫌いじゃねぇ」
槍が横薙ぎに振るわれる。
「月光雫――!」
無数の光の粒が弾け飛ぶ。
月の雫。
触れたものの傷を開く呪いの光。
だが。
マリーナは、止まらない。
一歩。
二歩。
雫が触れる。
肩の古傷が裂ける。
脇腹の裂傷が開く。
太腿の傷が血を吹く。
それでも。
彼女は歩く。
「……狂ってんのか、てめぇ」
クレタが呟く。
マリーナは、笑った。
「違う」
血を流しながら。
堂々と。
「これが愛だ!」
次の瞬間。
マリーナの姿が消えた。
そして――
クレタの背後。
「なっ」
振り返るより早く。
マリーナの掌が、クレタの背へ叩き込まれる。
「正義掌撃ッ!」
衝撃。
爆音。
クレタの身体が、砲弾のように地面へ叩きつけられた。
地面が陥没する。
砂煙が舞い上がる。
静寂。
その中で。
クレタの声が、聞こえた。
「……はは」
ゆっくりと、立ち上がる。
血を吐きながら。
それでも、笑っている。
「面白ぇ」
槍を構える。
月光が、さらに濃くなる。
「いいぜ」
クレタが言った。
「本気で殺り合おうじゃねぇか、正義の戦士さんよ」
月光が爆発する。
そして。
二人は同時に――
地面を蹴った。




