それは月光の輝きー
「ベル、入るぞ」
マリーナはノックを一度だけして、返事を待たずにドアを開けた。
部屋の中は静かだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
ベッドの上では、ベルが毛布にくるまったまま小さく丸くなっていた。
顔は見えない。けれど、肩がわずかに震えている。
マリーナは何も言わず歩み寄り、そのままベッドの端に腰を下ろした。
しばらく、沈黙。
やがてマリーナが静かに口を開く。
「話は聞いた」
毛布の中の震えが、ぴくりと止まる。
「辛かっただろう」
責める響きはない。
ただ事実を受け止めるような声だった。
「だが、安心しろ」
マリーナは前を向いたまま、短く言う。
「私が来た」
その言葉は、静かな部屋の中で、まっすぐに落ちた。
ミリィに起こされ、ベルはまだぼんやりとしたまま部屋を出ていった。
「少し早いですけど……お風呂、行きましょう」
そう促され、二人は宿の浴場へ向かった。
その頃――。
宿の一階、酒場。
マリーナはカウンター席に一人腰掛け、遅い昼食を取っていた。
この街の大陸警察支部から連絡を受け、出発したのが昨日。
ここへ到着したのが、つい先ほど――昼前。
まともな食事は、それ以来だ。
目の前の皿を淡々と片付けながら、マリーナは小さく息を吐く。
部下たち――マークスを含めた隊員たちもこの街に来ている。
だが今はそれぞれ別行動中だ。
マリーナはフォークを止め、ふと呟いた。
「今夜、か……」
ああ言ってしまったものの。
「……どうしたものか」
腕輪。
陽光師団長。
神殿。
警察の立場で、どこまで踏み込めるのか。
考え込んでいると――
「今夜、なんかあんのか?」
不意に、隣の席から声がかかった。
マリーナはゆっくりと顔を向ける。
いつの間にか、隣のカウンター席に一人の女が座っていた。
マリーナは一瞬だけ相手を観察する。
だがすぐに視線を皿へ戻し、フォークを動かした。
「……独り言だ」
短くそう答える。
女はくくっと小さく笑った。
「そうかい。悪かったな、聞いちまって」
軽い口調だった。
だがどこか、様子を探るような気配がある。
マリーナは構わず食事を続ける。
しばらくして、女がまた口を開いた。
「でもさ」
カウンターに肘をつき、横目でマリーナを見る。
「“今夜”なんて言い方してる時点で、ただ事じゃないだろ?」
マリーナはフォークを止めた。
そしてゆっくりと水を一口飲む。
「……お前には関係ない話だ」
そう言って、ようやく隣の女をまともに見た。
そして――一瞬だけ目を細めた。
背が高い。
女にしてはかなり長身だ。
髪は長いロングヘアー。
だが奇妙だった。
右は黒。
左は金。
左右で色の違う、はっきり分かれた髪。
ぱっつんと切りそろえられた前髪。
女はカウンターに頬杖をつき、面倒そうにマリーナを見ている。
白い法衣。
その隙間から覗くのは――白銀の鎧。
肩から指先まで。
腰から足先まで。
完全なフルプレート。
だが胴体は違う。
首、胸、腰を守る鎧だけで、服はほとんどない。
白いビキニのような布がわずかにあるだけだった。
そしてカウンターの横に立てかけられているのは、一本の槍。
十字の穂先を持つ長槍。
マリーナの視線が、それに止まる。
女はその視線に気づくと、口の端を少しだけ上げた。
「へぇ」
低く笑う。
「今の一瞬でそこまで見るかよ。警察ってのはやっぱ目がいいじゃねぇか」
マリーナの表情は変わらない。
「……」
沈黙が数秒流れる。
やがて女が椅子の背に体を預け、大きく伸びをした。
「まぁ安心しろよ」
そして、気だるそうに言う。
「てめぇの“今夜”を邪魔する気はねぇ」
女は指で自分の胸を軽く叩いた。
「ただの通りすがりだ」
そして、ニヤリと笑う。
「――クレッタルス・ハイランダー」
「クレタって呼ばれてる」
その名を聞いた瞬間。
マリーナの視線が、わずかに鋭くなった。
マリーナは隣の女――クレタをじっと見据えたまま言った。
「聞くまでもなく、神殿か?」
クレタは鼻で笑う。
「そぉだ」
肩をすくめる。
「聞くまでもねぇよな?」
マリーナの視線は鋭いままだ。
「……一体ここで何を――」
そこまで言いかけた時だった。
すっと、クレタの手のひらが差し出される。
言葉を止めるように。
マリーナの言葉はそこで止まった。
クレタは肘をカウンターについたまま、少しだけ首を傾ける。
「それこそ」
口の端が吊り上がった。
「聞くまでもねぇだろうがよ」
短い沈黙。
酒場のざわめきだけが流れる。
クレタはカウンターに立てかけてある槍――月光十字槍アークルベーダをちらりと見た。
そして低く言う。
「てめぇも同じ話を聞いてここに来たんじゃねぇのか?」
金と黒の髪が揺れる。
「――陽光師団長、ルシェルド」
その名を、吐き捨てるように言った。
「クズがまた一人、好き放題やってるってよ」
クレタはマリーナを横目で見て、にやりと笑う。
「違うか?警察さん」
「マリーナだ。
大陸警察地方特別捜査官、警部を拝命している」
淡々と名乗る。
クレタは一瞬だけ眉を上げたあと、すぐにニヤリと笑った。
「へぇー。警部さんかよ」
そう言って肩をすくめる。
「――って、知ってたけどな!」
マリーナの手がわずかに止まった。
クレタは頬杖をついたまま続ける。
「この街に今日、警察の特別捜査官が入った。
しかも部下連れてな」
指でカウンターをトントンと叩く。
「その時点で、もう“匂い”しかしねぇだろ」
ニヤニヤと横目でマリーナを見る。
「で、今日の昼。
宿の酒場で一人飯食ってる女」
肩を揺らして笑う。
「そりゃまぁ――」
少し身を乗り出した。
「当たりだろ?」
マリーナはゆっくりと水を一口飲む。
「……よく見ているな」
クレタは鼻で笑った。
「月光師団長やってりゃ、それくらい出来なきゃ務まんねぇよ」
「狙いは――ベルか」
マリーナが静かに言う。
クレタは肩を揺らして笑った。
「それも聞くまでもねぇだろ」
肘をついたまま、指でカウンターを軽く叩く。
「“魔王殺し”の抹殺」
その声は、さっきまでと同じ軽い口調だった。
「それこそが――」
だが、その瞬間だった。
空気が変わる。
クレタの背筋がすっと伸びた。
先ほどまでの粗暴さが、嘘のように消える。
まるで儀式の場に立つ聖職者のように。
荘厳で、静かで、厳かな気配。
金と黒の髪がわずかに揺れる。
そしてクレタは、澄んだ声で言った。
「――それこそが、神殿国家群」
一拍。
「その教皇様からの勅命であれば――」
まっすぐ前を見据える。
「我々、月光師団は従うのみ」
その瞳には、揺らぎがない。
「世界を、あるべき姿にするために――」
静寂が落ちた。
酒場のざわめきだけが、遠くで流れている。
マリーナは何も言わない。
ただ、クレタを見ていた。
「……」
クレタは肩を回しながら、退屈そうに言った。
「うちらの掴んだ情報によるとな」
カウンターの上の水を指でくるくる回す。
「宣言以降、“魔王殺し”は現れちゃいねぇ」
鼻で笑う。
「どこに隠れてんだか知らねぇが、そうなっちゃよ」
マリーナは黙って聞いている。
クレタはちらりと横目で見て、口の端を上げた。
「関係者である小娘二人を捕まえるしかねぇだろうがよ」
一拍。
マリーナの声が低く落ちる。
「……ベルとミリィのことか」
クレタは肩をすくめた。
「それも聞くまでもねぇ」
酒場の空気が、少しだけ重くなる。
マリーナはゆっくりとカウンターに手を置いた。
その瞳が、まっすぐクレタを射抜く。
「そんなことは――」
声は静かだった。
だが、はっきりと言い切る。
「させんぞ」
クレタは一瞬だけ黙り――
そして、にやりと笑った。
「へぇ」
椅子の背に体を預ける。
「言うじゃねぇか、警部さん」
指で自分の槍を軽く叩いた。
「じゃあ聞くけどよ」
細い目でマリーナを見据える。
「てめぇ一人で――」
口元が歪む。
「月光師団、止められんのか?」
マリーナは視線を外さず、静かに答えた。
「一人では無理であろうな」
その言葉に、別の声が重なる。
「一人では無理でしょうね。いくら警部と言えど」
クレタの背後からだった。
いつの間にか――
そこに一人の男が立っている。
クレタは振り向かない。
だが口の端だけが少し上がった。
マリーナは小さく息を吐く。
「遅いぞ」
男はすぐに姿勢を正した。
「は!」
背筋を伸ばし、右拳を胸に当てる。
「マークス警部補――ただいまから合流します!」
その声は酒場のざわめきの中でも、はっきりと響いた。
クレタはようやくゆっくりと椅子から半身だけ振り返る。
黒と金の髪が揺れた。
「へぇ」
マークスを上から下まで眺める。
「もう一人いたのかよ」
軽く笑う。
「気づかなかったぜ」
そして、退屈そうに頬杖をつく。
「で?」
視線を二人に戻した。
「警察二人で――」
細い目が光る。
「月光師団とやる気か?」
マリーナはわずかに眉をひそめた。
「さっきからなんだ、貴様は」
声は低い。
「月光師団がいなければ――」
視線が鋭くなる。
「何もできないのか?」
酒場の空気が一瞬止まった。
クレタはぽかんとマリーナを見つめ――
次の瞬間、吹き出した。
「ぶはっ……!」
肩を震わせて笑う。
「おいおいおい……マジで言ってんのかよ、警部さん」
椅子の背にもたれながら腹を押さえる。
「勘違いしてんじゃねぇぞ?」
ゆっくり顔を上げる。
その目は、さっきまでの軽さとは違っていた。
「月光師団がいなきゃ何もできねぇ?」
首を小さく鳴らす。
「逆だ」
クレタは立ち上がった。
椅子がギィと鳴る。
「月光師団がいるから――」
槍を肩に担ぐ。
「“まだ”何もしてねぇんだよ」
視線がマリーナを射抜く。
「うち一人で動いたら――」
ニヤリと笑う。
「この街、半日で終わるぜ」
マリーナの声が鋭く響いた。
「マークス!」
「ハ!」
背筋を伸ばしたまま、マークスが即座に応じる。
マリーナはクレタを睨んだまま言った。
「ただいまの発言を――犯行予告と捉えることに問題は?」
一拍の迷いもなく、マークスが答える。
「問題ありません!」
マリーナはうなずいた。
「よし」
ゆっくりと言い放つ。
「ただいまの時刻をもって――」
その視線はクレタから外れない。
「月光師団長、クレッタルス・ハイランダーを」
酒場の空気が凍る。
「テロリストと仮定する」
マークスの声が重なる。
「ハ!」
マリーナは短く命じた。
「本部に報告しておけ!」
「ハ!」
マークスはすぐに踵を返し、酒場の出口へ向かう。
その背中を見送りながら――
クレタは、ぽかんとした顔で数秒黙っていた。
そして。
「……は?」
眉をひそめる。
「おいおい」
額を指で掻きながら笑う。
「うち、ただの例え話しただけなんだけど?」
だがマリーナは一切表情を変えない。
クレタは肩をすくめた。
「警察ってのは――」
ニヤリと笑う。
「ほんと、めんどくせぇ生き物だな」




