涙の朝ー
朝の光が窓から差し込む宿屋の部屋。ベッドの中で、ベルは小さな体を抱え、静かに泣いていた。まぶたをぎゅっと閉じても、涙は止まらない。昨夜の出来事が頭を離れず、心が震えている。
一晩中、隣で慰めていたミリィも、そっと階段を下り、一人で宿屋の一階に降り立った。カウンターに腰を下ろすと、モーニングメニューを手に取るものの、視線は遠く、目は真っ赤に腫れていた。
店の主人はその様子を察したのか、何も言わずそっとミルクの入ったカップを彼女の前に置く。
「ありがとう……ございます」
小さな声がカウンターに響く。ミリィはカップを両手で包み込み、温かさを胸に感じながらも、心の奥ではまだベルのこと、昨夜の出来事のことを思い、息を整えることしかできなかった。
ミリィはカップを両手で包み込み、ゆっくりとミルクを口に運ぶ。
温かいはずなのに、その味はどこか遠く感じられた。
(私……こんな時、何ができるんだろう……)
ぼんやりとカウンターを見つめながら、胸の奥で言葉が渦を巻く。
最初に助けられてから、ずっとそうだった。
家族と再会できるまで、ベルに守られて、助けてもらって――。
けれど、自分は。
(私は……何も……)
小さく息を吐く。
結局、自分はベルの後ろに隠れているだけだった。
何かしてあげたいと思うのに、どうすればいいのか分からない。
「はぁ……」
気づけば、またため息がこぼれていた。
カウンターの上で、ミリィはぎゅっとカップを握りしめる。
その温かさだけが、今の自分をかろうじて現実に引き留めていた。
そしてふと、頭に浮かぶ。
――今も、あの部屋で泣いているであろうベルの姿が。
ミリィはカウンターに肘をつき、まるで酔い潰れたようにぐったりと崩れていた。
まだ朝だというのに、体から力が抜けている。
その背中に、ふと声がかかった。
「朝から浮かない顔だな」
聞き覚えのある声だった。
ミリィははっとして振り返る。
そこに立っていたのは、見慣れた金髪。
「マ……マリーナさん!」
思わず声が弾む。
マリーナは肩をすくめながらカウンターの隣に腰を下ろした。
ちらりとミリィの赤い目を見て、ふっと息をつく。
「……泣いた顔だな」
ミリィは慌てて目元をこすった。
「ち、違います……その……」
言葉が続かない。
マリーナは何も追及せず、カウンターに肘をついて店主の方へ手を軽く上げた。
「同じの、もらえるか」
やがてミルクの入ったカップが置かれる。
マリーナはそれを一口飲み、横目でミリィを見る。
「で?」
短く、それだけ言った。
「何があった」
「それがー……」
ミリィは言葉を探しながら、これまでのことをぽつぽつと話し始めた。
神殿の教皇による宣言以降のこと、神殿騎士から逃げて逃げて、アンジュ達に助けられて、この街に来たこと。
そして――昨夜の出来事。
ルーシェの言葉。
腕輪のこと。
ベルがどんな顔をしていたのか。
途中で何度も声が詰まり、言葉はたどたどしく途切れた。
それでもミリィは、最後まで話した。
マリーナはその間、一度も口を挟まず、ただ黙って聞いていた。
やがてミリィの話が終わると、マリーナは小さく息を吐く。
「陽光師団長――ム・ルシェルド・アルガドべガル、か」
静かにその名を口にする。
「我々警察は、教会ほど神殿に詳しくはない。が――その男のことは聞いたことがある」
マリーナは視線を少し遠くに向けた。
「それと双璧をなす、月光師団長についてもな」
マリーナはそっとミリィの頭に手を乗せ
「ミリィ、よく頑張った。辛かっただろう」
その言葉にミリィの出し切ったと思った目に涙が浮かぶ。
「マリーナ.,さん、私、、何も出来なくて」
ミリィの頭を優しく撫でていたマリーナが、カウンターの上のミルクを手に取り、残り半分ほどを一気に飲み干す。
コップを静かに置き、立ち上がった。
「まずは――」
ミリィの方を見ず、しかしどこか優しい声で言う。
「二階で泣いている、我が未来の妹を……なんとかしてやらなくてはなるまい」
「ベル、入るぞ」
マリーナはノックを一度だけして、返事を待たずにドアを開けた。
部屋の中は静かだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
ベッドの上では、ベルが毛布にくるまったまま小さく丸くなっていた。
顔は見えない。けれど、肩がわずかに震えている。
マリーナは何も言わず歩み寄り、そのままベッドの端に腰を下ろした。
しばらく、沈黙。
やがてマリーナが静かに口を開く。
「話は聞いた」
毛布の中の震えが、ぴくりと止まる。
「辛かっただろう」
責める響きはない。
ただ事実を受け止めるような声だった。
「だが、安心しろ」
マリーナは前を向いたまま、短く言う。
「私が来た」
その言葉は、静かな部屋の中で、まっすぐに落ちた。
マリーナはベッドに腰掛けたまま、静かに言った。
「先に話させてほしい。あの三馬鹿達のことだが」
毛布がぴくりと揺れる。
「安心しろ。今、警察の救出部隊が向かっている。数日中には片が付くだろう」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
やがて、もぞりと毛布が動く。
毛布の奥から、掠れた声が漏れた。
「マリーナさん……私……今夜……」
マリーナはすぐに遮った。
「何も言うな」
声は穏やかだったが、はっきりとしていた。
「話はミリィから聞いた。私に任せておけ。全て解決するつもりで来たのだから」
毛布の中で、ベルの息が震える。
「マリーナ……さん……」
次の瞬間、もぞもぞと毛布が動いた。
そして小さな体がするりと抜け出すと、ベルはそのままマリーナの腰にしがみついた。
細い腕が、ぎゅっと抱きつく。
マリーナは一瞬だけ目を伏せ、それからベルの頭にそっと手を置いた。
「腕輪についても、きっとその陽光師団長を捕まえて――なんとかしてやるさ」
静かな声でそう言うと、ベルの髪をゆっくり撫でた。
「だから今は、少し休め」
マリーナに抱きついたまま、ベルの体から少しずつ力が抜けていった。
やがて、かすかな寝息が聞こえ始める。
泣き疲れてしまったのだろう。
マリーナは何も言わず、ベルの頭を撫で続けた。
細い黒髪を指でそっと梳くように、ゆっくりと。
そのまま、静かに目を閉じる。
「……そのルシェルドとかいう男」
低く、誰に向けるでもなく呟いた。
「許せんな」
言葉は短い。
「人としても、男としても――まさにクズと言える」
マリーナはゆっくりと目を開け、窓の外へ視線を向けた。
朝の光が街を照らしている。
「……彼とは大違いだ」
そう言うと、再びベルの頭を静かに撫でた。
眠る少女を起こさぬように、ただ優しく。




