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第1話「忖度なしで行こう!——の旗の下に集められた被害者たち」

 朝礼の空気は、湯気の消えた味噌汁みたいにぬるかった。

 上司の部長が淡々と「週報は水曜締め」「サーバ更新は本日二十時から」「在宅者は十時半までに在席宣言」を読み上げる。メトロの遅延で出社がずれこんだ社員がそっと席に滑り込み、オフィスの湿度は、観葉植物の葉先だけが元気だと告げていた。


 その静けさを斜め上から切り裂く声が飛ぶ。

 「ねえ、今日の会議、忖度なしで行こう! ガチでいこう!」

 言ったのは同期の安藤さやか。肩までのボブ、真っ白のブラウス、口角は常に三度だけ上がっている。本人談によると「気質は男前」「中身はサバサバ」「根がはっきりしてるタイプ」。会社のIDカードより自己申告のほうが情報量多い人だ。


 部長は一瞬だけ視線を泳がせ、「……うん」と薄い返事をした。

 私の席の周りでは、沈黙という名の共同祈願が始まる。どうか、今日だけは荒れませんように。どうか、パワポだけは無事でありますように。どうか、会議室のドアが内側から外れませんように(実績あり)。


 十時。会議室D。

 プロジェクト“フォルテ”の定例。新商品のWEBランディングページを詰める回。出席は、部長、広報の美園さん、デザインの佐藤くん、開発の寺内さん、そして制作の私と安藤。ホワイトボードの前に、仮コピーが三つ並び、付箋が色分けで貼られている。

 私の役割は進捗の取りまとめと、関係者がケンカしないための小さなクッションになること。つまり、社内版・低反発まくら。


 部長が開口一番、議題を読み上げる。

 「①キャッチの案統一 ②導線のABテスト期間 ③SNS動画の尺……」

 と、そこで安藤が手を挙げ、空気をドリブルして一気にゴールへ持っていくタイプの笑顔を見せた。

 「忖度なしでいきましょう? 今日、決め切る。ガチで。」

 「……ガチで」部長がオウム返しに呟く。視線が自然と私に集まる。いや、ガチって単語、ビジネス会議で聞くと胃がきゅっとなる。


 まず最初のコピー案。「はじめての音、はじめてのわたし。」

 柔らかいが主語がぼやける。私が「ターゲットに一家族層も入っているので、抽象はやや強め……」と言い終わる前に、安藤がパチンと舌打ちレベルの手拍子を入れた。

 「弱い。 もっとズバズバいこうよ。サバサバ目線から言うけどさ、“刺さる”感じがない。私、思ったこと言っちゃうタイプだから遠慮しないけど」

 会議室の半分が“その宣言、何度目?”と心でつぶやいた。残り半分はメモに「思ったこと言っちゃう」ハッシュタグを書いている(それは私)。


 二案目。「音が、暮らしをやさしくする。」

 今度は寺内さんが「技術的ベネフィットが……」と話し始めた瞬間、安藤の無邪気な一撃。

 「よくあるやつ! “暮らし”って便利ワードで逃げてる。忖度なしで言うなら、これじゃ誰も振り向かないって!」

 私の隣で佐藤くんが、ペン先で机を小刻みに叩いた。ドラムロールみたいに不穏だ。

 部長が「まあ、そういう意見もある」と、会議室の湿度をさらに上げる中立コメントを投げる。


 三案目は、昨夜私が残業で絞った案。「聴く時間、いまを良くする。」

 美園さんが「“いま”に黄色の付箋を足して、SNSでハッシュタグ化……」と補足してくれて、私は机の下で小さく拳を握った。すると安藤が、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。

 「ダメ。 “いま”ってさ、みんな言ってる。流行りに乗っかるのはサバサバじゃないのよ。オリジナルで勝負しよ?」

 彼女の“サバサバ審査”は、だいたい「私の美意識に合うかどうか」で合否が決まる。審査員は常に一名、評価軸は流動、フィードバックは笑顔という名の装飾。


 部長が咳払いし、議題②に進めようとした矢先、安藤がスライドの最後に挿れた自作案を映した。

 黒背景に白文字。

 「音、私、進行形。」

 ……会議室の四隅が沈黙の四重奏を奏でた。

 「新鮮じゃない?」彼女は自信満々。「私、言っちゃうタイプだけど、これガチでイケると思う」

 佐藤くんが恐る恐る。「“私”が主語だと、プロダクトより語り手が前に出ちゃう気が……」

 「そこは空気読んで。ニュアンスよ、ニュアンス!」

 ——出た。忖度なしの旗を掲げながら、空気読んでの号令。この矛盾は、もはや社内の四季。


 結局、コピーは持ち帰り。議題②③で時間を食い、会議室を出る頃には私は脳内で「被害者ノート」の新しい見出しを作っていた。

 【本日の被害:忖度なしの旗、空気読めの太鼓。】


 昼休み。女子ロッカールームの前。

 「ランチ行こ〜」と広報の二人が声をかけてくれて、私は財布と社員証だけを持ち、「今日こそは消化によいものを」と誓いながらエレベーターへ向かう。

 その途中、安藤がすっと割り込み、男子フロアの方向へ体を向けて言った。

 「女子の派閥とか無理〜。 私、そういうの縛られるの苦手だし。男友だち多いタイプだから、カフェはあっち行くわ」

 広報の二人が一瞬だけ目を合わせ、何も言わずに笑って見送る。私たちは近くの蕎麦屋へ。

 テーブルについてお冷を飲んだ瞬間、会社の社内SNSから通知が来た。

 **《#社内表彰》**タグ付きで、安藤が満面の笑みで盾を掲げる写真。キャプションは「承認とか別に興味ないタイプなんだけど、撮られたw」。

 ——通知、切ってるって昨日言ってなかった? 

 ——承認いらないって朝の会議で言ってなかった?

 頭の中の“社内あるある判定員”が満点のベルを鳴らす。カーンカーンカーン。


 午後は在宅勤務に切り替えた。チャンネルに在席宣言を入れると、すぐさまDMが飛ぶ。

 安藤「サクッとでいいから、さっきのコピーの骨子をまとめて。3ページくらい? 今日中で!」

 私「“サクッと”=“3ページ”の関係式、未だに証明できません」

 と打ちたい衝動を抑え、「了解です。19時までにドラフト上げます」と送る。

 五分後。

 安藤「既読無視?」

 既読がついた瞬間に飛んできた。時間差ゼロ。あなたの親指は計測装置ですか。


 私は深呼吸を三回して、ToDoリストを再構築する。

 ・コピー案の骨子——“いま”禁止縛り(自主規制)

・訴求ターゲットを**“家族+若手単身”に分けて導線設計

・SNS動画の案——15秒×3種でA/B/C

 タイピングを始めると、斜め上からチャンネル通知。社内全体チャンネルに、安藤がリンクを投下していた。

 「サバサバ系女子ってさ、こういうことじゃない?(外部メディアのコラム)——」

 本文には、“ズケズケ言えるのが長所”**と太字で引用されている。

 ——はい、ブーメランが気持ちよく弧を描きました。


 夕方、ドラフトを提出。

 安藤から返ってきたのは、文末に**「!」と「w」**がたくさん咲いているフィードバックだった。

 「ここ、もっと刺さるように!」

「そこは攻めでw」

「サバサバ感を出して!(※具体はない)」

 私は“攻め”の解像度を上げるため、語尾の音を硬くし、動詞の主語を製品に寄せ、比喩を消して体言止めを増やした。画面の中で日本語の骨格が筋トレを始める。


 十九時半。部長から個別チャットが来た。

 「今日の会議、フォローありがとう。あの“ガチ”は、なかなか体力いるね」

 「低反発まくらの仕事なので」

 と冗談を打ったら、すぐに既読がついて「君の低反発は反発力高いね」と返ってきた。うまい。上司のことを、初めてすこし見直した。


 二十時。サーバ更新のアラート。私はPCの前にペットボトルを置き、コンソールの画面を眺める。ウィンドウの端では、社内SNSの通知がまた弾ける。

 《#今日の自分に拍手》安藤:「自分に拍手とか興味ないけど、今日は頑張ったから一応w」

 ……このタグ、あなたが作ったやつでは?


 まぶたの裏に朝の会議が再生される。忖度なしで行こう!と彼女は言った。

 忖度って、そもそも“相手の立場を推し量る”ことだ。ビジネスの現場では、まるごと捨てるものでも、金庫にしまい込むものでもない。必要なだけ使い、必要でないときは置いておくための工具だ。

 安藤は工具一式を「ダサい」と笑って投げ捨て、素手でネジを締めようとする。そして指を痛くして、誰かが持ってきた工具に「やっぱ必要だった」と言う。翌日にはまた素手に戻って、**“サバサバだからさ!”**と笑うのだ。


 私は被害者ノートに今日のページを足す。

 ——第23日:旗は“忖度なし”、太鼓は“空気読め”、衣装は“承認いらない(表彰写真つき)”。

 そうやって書き残しておくと、少しだけ笑える。笑えると、明日も出社できる。


 そのとき、個人宛に新着メッセージ。

 送信者:総務・人事 柏木

 件名:明日の“職場コミュニケーション研修”の司会お願い

 本文:「急でごめん。司会がインフルでダウン。あなたの“低反発スキル”に期待してます」

 ……ここにも評判が回っていたらしい。会社は広いようで狭い。


 さらに追い打ちの通知。

 安藤「明日の研修、私サブで入るね! 忖度なしで盛り上げよ〜!!」

 ——やめて。サブはサブで火種が二倍。

 私はPCの画面に向かって、カメラがオフなのを確認してから、天井に小さく祈った。「どうか、司会台のネジだけは、工具で締めさせてください」


 翌朝の会議室に、私の“低反発”が通用するかは、まだわからない。

 けれど、一つだけ確かなことがある。

 ——自称サバサバ系女の“ガチ”に、明日も世界は翻弄される。

 そして私は、笑って記録する。被害者ノートに、次の見出しを。


 【予告】

 第2話「承認いらないけど“いいね”は欲しい」

 研修の司会台に立つ私と、拍手を拒否して拍手を求める安藤。拍手の正体がバレるとき、会議室の拍手は——。

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