全ての始まりは今
「……本当に、始めてしまっていいのですね?」
ここは──神界の頂き。
緊急時にのみ、限られた者しか足を踏み入れることを許されぬ“聖地”。
静寂が深く、壁一面に刻まれた古の神文字が淡く光を放っていた。
その中心に、二つの影が立っていた。
「ああ、いいから早くしてくれ」
神族の長は、血の気のない顔で答えた。
「じゃあ、はじめます。本当にいいのですね?」
「どうせこっちに拒否権はないのだろう?」
“彼”の口角がゆっくりと上がる。銀糸のような髪が揺れ、深海の底から響くような声がまた言った。
「物分かりが良くて助かりますよ」
「……神界の、それも神一族の始まりを知る者か。
どうやってその情報を手に入れたかは知らんが──脅されたら拒否などできん」
“長”の声は苦々しかった。だが、相手はただ、不思議そうに笑うだけだった。
「それにしては、随分と返事が遅かったですね」
「そりゃそうだ。先代と何度も悩んだんだ。
其方が“三日以内”なんて言わなければ、今も悩み続けていただろうよ」
「それはそれは」
神界には似つかわしくない、黒ずんだフードと漆黒の外套。闇から切り出されたような存在──それが“彼”だった。“彼”は、申し訳ないような声で相づちを打つ。そのくせ、顔はまるで役得にでもあったかのように、誇らしげだ。
……これが本性か。神一族の伝承を知る、得体の知らない奴の。
……とはいえ、全部お前のせいだ。
そう思わずにはいられなかった。
「では、やらせていただきます。了承の言葉は、きちんと魔法で記録していますので」
手の動きが止まることはない。
「……出来ましたよ」
そう言うと同時に、“彼”の姿は魔法陣の光の中に消えた。
神族の長はその跡へ歩み寄り、魔方陣に触れる。
だが、手は弾かれた。
居場所を特定できぬよう、魔法陣が組まれている。
「……これで、最後の望みも絶たれたか」
俯いた唇が震えた。
「風芽……すまない」
神は巡る。人界を渡り、記憶を捨て、また神界へ還る。
そう信じていた。そう、信じていたのに──
その輪から、お前を外してしまったのは……俺だ。
声にならない想いが喉に詰まる。今更謝ったところで、何かが変わるわけでもないのに。
それでも、そう言わずにはいられなかった。
魔法陣がかすかに輝きを残す中、その声はただ、虚空に吸い込まれていた。
魔法陣は、まだ微かに燐光を放っていた。けれど、それもじきに消える。
空気が沈黙を増し、神界の頂に再び静寂が戻ってくる。
まるで今起きたことすら、世界が忘れようとしているように──。
神族の長──レオネイルは、ただその中で立ち尽くしていた。
──それは、神すら忘れた罪。
そして、一人の少女の“目覚め”が、止まっていた運命の歯車を再び動かし始める。
この時、まだ誰も気づいていなかった──。




