初めての朝
翌朝。
もぞもぞと何かが動く気配にイレーネは目を覚ました。
どうやら、睡眠と呼んでいいものは取れたらしい。
逆に、壁際に丸まっているガストンは、ろくに眠れなかったようだ。
「……おはようございます、ガストン様」
「お、おはよう」
もぞりと身体を起こしたガストンは、いかにも寝不足と言った顔で。
熊のような体格の彼がそんな間の抜けた顔をしているのが何ともおかしくて、イレーネは小さく吹き出してしまった。
「お? な、何かおかしい、か?」
「いえ、その。……まだ眠そうな顔をしてらっしゃいますから、顔を洗ってらしては、と」
「お、そ、そうだな、それはいい、早速洗ってくる」
頷くと、ガストンはがばっとシーツを跳ね上げてベッドを出て、そのまま寝室の隣に設えた洗面所へと向かう。
……動きに澱みがないあたり、徹夜には慣れているのか、単に体力があるのか。
一先ず、体調の心配はなさそうだ。
そんなことを思いながら、イレーネも寝床を抜け出した。
夫婦と言えども男女の朝の身支度はかなり違うため、それぞれの私室で行う。
なので、与えられた自室へと戻ったわけだが……そのイレーネを迎えたのは、憔悴しきった侍女のマリーだった。
「ひ、姫様、昨夜はその、無体なことなどされませんでしたか!?」
必死の形相で縋り付いてくる姿を見るに、イレーネのことが心配で一睡も出来なかったらしい。
「大丈夫よ、マリー。……というか、そういうことがなかったのよね……」
「なんですって!?」
マリーを安心させようと思って言ったのだが、それはそれでマリー的にはよろしくなかったようで、あっという間に表情が変わた。
絵に描いたような憤怒の形相になり、隣の寝室に通じる壁、さらにその向こうにいるであろうガストンを睨み付ける。
「うおっ!?」
壁の向こう、マリーの視線の先には本当にガストンがいて、動物的な勘のある彼は込められた殺気に反応してびくっと背筋を震せながらキョロキョロと周囲を見回した。
「え、どしたんすか大将」
「いや、何か殺気を感じたような……気のせいか?」
「殺気って、屋敷の中でそんなのありえないじゃないっすか」
「それもそうか……そうなのか?」
鋭い感覚はあれど普通の人間の範疇でしかないファビアンは殺気に気付かなかったようで、それに釣られてガストンも気にしないようにした。
辺境伯軍出身者が多いこの屋敷は、規模の割に防諜態勢が整えられており、刺客など入ってくることは出来ない。
だから二人とも気のせいで片付けたのだ。
まさか侍女のマリーが壁の向こうから気配を察知して正確に睨み付けてくるなど……考えつくことが出来るわけもなく。
まして、ガストンに対して怒り狂っているなど想像もしてない。
「ちょ、ちょっとマリー、落ち着きなさい。どうしたの、急に」
「これが落ち着いていられますか! よりにもよって手を出していないですって!?
こんな麗しく魅力的な姫様を前にそんな甲斐性の無い、玉なしですかあの男は!」
「待ちなさいマリー、流石に言い過ぎな上にお下品です、もうちょっと色々抑えなさい」
どうどうとマリーを落ち着かせながら、イレーネはふと思う。
昨夜の自分も似たようなことを言っていたな、と。
「わたくしも最初はそう思ったし、これでもかと言わせてもらったわ。
その後ちゃんと話し合ったし、ないがしろにされているわけじゃないから」
「……そうなのですか? であれば、私が今更物申すなど差し出がましい真似をするわけには参りません。
しかし、であれば一体どうしてです。まさか立たないとか」
「マリー。だから、もうちょっとお上品な言い方を選んでちょうだい」
そう口では窘めながら。
マリーが無条件で自分の味方になってくれることを改めて感じて、イレーネの口元に小さな笑みが浮かぶのだった。
そんな一悶着もあり、イレーネが準備を整えて食堂に姿を現したのはかなり時間が経ってから。
事前にファビアンから「女性の準備は時間がかかるもんですよ」と言われていたガストンだが、そのことを実感として味わうことになった。
そして、待っただけの甲斐はあった、とも思った。
祖国から連れてきたマリー達に身だしなみを整えられたイレーネは、家の中で着る用の簡易なドレス姿だったのだが、それでも見蕩れてしまうくらいに美しい。
この美しい人と昨夜は床を共にしたのだ。
そう思えば、心が浮かれるような心地がした。
本当にただ共に寝ただけだというのに。
そして、イレーネの顔に然程険がないことにも少しばかり安堵する。
どうやら、昨日の同衾は彼女の負担にはならなかったらしい、と。
だが、そのイレーネの表情は、すぐに怪訝なものへと変わった。
「あの、ガストン様。何故先にお食べになってらっしゃらないのです?
まさか、わたくしをお待ちになっていたのですか?」
「うえ? そ、そりゃそうだけど」
問われて、何を当たり前のことを、とガストンは首を傾げる。
彼からしてみれば、待つのは当たり前のことだ。
「だ、だって、夫婦……というか、もう、家族なんだし。
家族は一緒に飯を食うもんだ」
イレーネの気持ちを考えれば、夫面するのも角が立つかと思い言い直したのだが。
それでも何か引っかかったのか、イレーネは何も言わない。
やはり別の言い方をした方がよかったのかとガストンがあわあわし始めたところで、やっとイレーネが口を開いた。
「……家族は、一緒に食事を摂るもの、なのですか?」
「お、おう……あっ! ち、違うところもあるらしい!
けど、俺はそうしたい、んだけど……だめ、か?」
頷きかけたところで、他の家では色々あるらしいと聞いたことを思い出したガストンは、すぐに首をブンブンと横に振った。
例えば彼を気に掛けてくれている国王などは、忙しくてゆっくり食事を摂る暇が無いと言っていた気がする。
であれば、隣国の王族であるイレーネも似たようなものであったかも知れない。
しかし、それは自分には出来ない。
だから、おずおずと問いかけたのだが。
「……いいえ、だめ、ではございません。ご一緒させてくださいませ」
昨夜の舌鋒鋭い彼女はどこへやら、儚げな見た目通りの声でイレーネが答えた。
それを聞いたガストンは、驚いたのか少しばかり目を見開き、問いかけてしまう。
「だ、大丈夫か? やっぱり体調悪いのか?」
「いいえ、そうではございません」
気遣わしげなガストンへと、ゆるり、イレーネが首を振る。
何やら思案している様子の沈黙に、それを察したガストンは言葉を待ち。
数秒か、十数秒か経った後、イレーネが口を開いた。
「わたくしは、家族と食事を共にしたことが、ほとんど記憶にございません。
ですから、少し戸惑ってしまいまして」
「うえ?」
イレーネの口から出た思わぬ言葉に、ガストンは間の抜けた言葉を零してしまう。
親と。家族と。仲間達と。
当たり前のように食事を共にしてきた彼からすれば、イレーネの発言はそれくらいに衝撃的だった。