贅沢な悩み
翌朝。
充実した夜を過ごしたイレーネは、随分とご機嫌な面持ちで朝の身支度をしていた。
「今日もお肌の調子はばっちりですね、奥様!」
朝の湯浴みを手伝い、イレーネのお肌のお手入れをしていたマリーもまた機嫌良さそうにニコニコしているが、それも無理からぬこと。
こちらの生活に慣れてからというもの、イレーネの体調は絶好調、故国であるレーベンバルト王国に居た頃とは比べものにならないほどなのだから。
もちろんそれは、当の本人であるイレーネもよくわかっている。
「ええ、これもマリーがよくしてくれるからよ」
それでも、甲斐甲斐しく仕えてくれるマリーを一度は持ち上げるけれども、気心知れた彼女には通じない。
「またまた、私なんて大したことはしてないですよ~。それもこれも、旦那様や皆さんのおかげですって!」
と、イレーネ第一主義者であるマリーも頷かないくらい、理由はわかりきっているのだから。
こちらに嫁いできてからというもの、イレーネの食生活は大きく改善した。
それだけでなく、領内における重要な案件をいくつも任されたりと仕事も充実している。
その上、夫であるガストンとの関係も良好と、公私ともに満たされているのだから。
ちなみに、そのおかげもあってか最近のマリーは二人きりであってもイレーネのことを奥様と呼ぶようになっている。
気付いたイレーネからすれば、それはガストンと夫婦になったことをマリーが完全に受け入れてくれたように思えて、嬉しかったりもするのだが。
ともあれ、今のイレーネは公私共に充実しており、それはどう考えてもガストンのおかげ。
もちろんトルナーダ子爵家家臣一同の力も大きいのだが、一番はガストンだろう。
「……なんだかわたくし、もらってばかりな気がするわ」
唐突なイレーネの呟きに、マリーが動きを止める。
まじまじと主であるイレーネの顔を見つめること数秒。
ようやっと我に返って言葉を返すことが出来た。
「え。……いえ、どう考えてもそれはないと思いますけど……? 特に旦那様なんか首をもげそうな勢いで振りながら否定すると思いますけど」
「それはほら、ガストン様はお優しいから……」
「……そのガストン様が一番助けてもらってると思うんですけどねぇ……」
珍しく、マリーがイレーネの意見を頑なに受け入れないが、それも仕方がない。
書類仕事を始めとする領主の執務をとことん苦手とするガストンと、逆にそれが得意なイレーネ。
ガストンの不得手を補うことも目的の一つだったこの婚姻は、狙っていた以上にぴたりと嵌まっているのはマリーの目から見ても明らか。
イレーネがいなければ立ち行かなかったであろう場面、案件は数え切れない程であり、そのことは誰よりもガストンがよくわかっているはず。
幸いなことに、彼にはそれが理解出来るだけの知能と分別があるのだから。
と、マリーなどは思う。
ただ、二人は知らない。
ガストンが、イレーネからもらったと思っているものが、それだけではないことを。
こればかりは本人が言わなければわからないことではあるのだが。
それを差し引いても、彼がイレーネから様々な助けをもらっているのは確かなことである。
「わたくしがガストン様を助けるのは、当たり前でしょう? それが仕事なのだし」
「いや、それはそうですけども」
「でも、ガストン様がわたくしにくださったのは、家族の情とか……その、夫婦の情とか? そういったものなわけで」
だが、イレーネはそれが認識出来ていない。
彼女からすれば、書類仕事などはこの国に居るための必要条件でもあるのだから。
そして、ガストンから彼女にもたらされたものは、婚姻上の契約条件だとかを越えたものに思えてならない。
そんなものをもらったイレーネからすれば、どう返せばいいのかわからないものでもある。
「あ~……それは、確かにそうかも知れませんけども」
イレーネの言葉に、彼女の今までをよく知るマリーは、反論出来ない。
家族や兄弟に恵まれず、冷遇されてきたイレーネ。
その彼女がこの地に来てから与えられたものがどれだけ得がたいものだったか、恐らく一番よくわかるのはマリーだ。だから、何も言い返せない。
「……ちなみに、もらったものの中で、何が一番嬉しかったですか?」
「え? そうね……」
言い返す代わりに、マリーは問うた。
思考の迷路にはまり込んでいるように見える主の視線を、別の方向に向けようという試みだったのだが……どうやら、効果はあったようだ。
徐々に思い詰めた顔になっていたイレーネの表情が、切り替わる。
それから、考えることしばし。
「……やっぱり、教会を建てていただいたことかしら……」
返って来たイレーネの答えは、マリーも納得のものだった。
「あれは凄かったですよね~。まさか結婚式をやり直すだけのために教会を建てちゃうなんて!
王侯貴族の溺愛エピソードは色々聞きますけど、教会を建てるのは私も初耳でしたし!」
「あまり、そんな風に囃さないで欲しいのだけれど。……なんだか、照れてしまうわ」
うんうんと幾度も頷きながらマリーが言えば、イレーネは視線を外して頬に手を添える。
その頬や、耳まで薄く染まっているのは、決してマリーの気のせいではないだろう。
「まあでも、そう考えたら奥様が『もらってばかり』だとか思っちゃうのも無理はないかも知れませんねぇ……それだけ愛されてるってことですし」
「だからマリー、あまり言わないでったら。……なんだか、顔から火が出そうだわ……」
『愛されてる』という言葉にドキリと心臓が跳ね、しかし否定する言葉は出てこなかった。
それこそ昨夜、まさにガストンと心も体も交わしたのだから、否定など出来はしない。
不器用なガストンは、だからこそ精一杯気を遣ってくれているのがわかった。
思われているのだと改めて実感した。思い返しても、それが嬉しくて仕方がない。
「はぁ……奥様はすっかり大人になってしまわれたのですねぇ……」
「もう、からかわないの!」
しみじみというマリーに言い返したりもするが、イレーネの顔は緩んでしまっている。
その顔を見ていたマリーの脳裏に、ある閃きが走った。
「……そうやって何かを作る形でもらったのでしたら、何か作ってお返ししたらどうです?」
「何かを、作る?」
「ええ。今の子爵領は必要そうなものはどんどん作りましょうって勢いですし、その中でこっそり、あるいは堂々と作っちゃってもいいんじゃないでしょうか」
「それは……まあ、出来なくもないけれど」
マリーの言葉に、少しだけ考えて。
イレーネは不承不承頷いた。
街道整備も始まり、この街は行き交うであろう人々や物のために様々なものが作られている。
その中で、ガストンのために何か作ること自体は、イレーネの立場なら簡単なことではあるのだが。
「でも、ガストン様の喜びそうなものを、ってことよね? 何がいいのかしら」
「それはもう、旦那様ですから、お肉とか」
「流石に、お肉そのものは作れないわよ。他にも、魔獣の解体所自体は作り始めているし」
指折り数えるイレーネ。
ガストンがこの街に来たことで、近辺に生息する魔獣を定期的に狩ることが出来ていた。
その魔獣は家畜よりも巨大である上に、希少品として価値の高い毛皮などを丁寧に加工する必要があるため、解体する専用の場所を作ることにしたのだ。
そこで既に、ガストンの好物である肉は生産されているといえばされている。
「となると後は……お酒ですかねぇ」
「お酒……ああでも、それはありかも知れないわね」
マリーに言われて、イレーネはふむ、と小さく頷いてみせた。
「今のこの街なら、面白いお酒を作ることが出来るかも知れないわ」
「面白いお酒、ですか? それは一体?」
きょとんとするマリーに、イレーネは微笑みながら言う。
「蒸留酒って知ってるかしら?」
と。
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