熱の後の朝
「す、すごかった……」
呆然とした顔で、ガストンは呟いた。
時刻はまだ明け方、冬も近くなってきた今となっては肌寒く感じるはずだというのに、汗をかくほど身体は熱を発している。
とっくに眠る時間は過ぎている、むしろ起きるべき時間が近づいているというのにガストンの目は冴えきっていて、むしろ今から走り回りたいほど。
身体を突き動かす衝動のピークは過ぎたが、今も尚、彼の身体の芯では生命の熱が暴れている。
その原因は、言うまでもない。
「ん……ガストン、さまぁ……」
すぐ近くで、甘えたような声がする。
びくっと身体を震わせそうになって、即座にその反射的な動きを意思の力で抑え込む。
一流の戦士だからこそ出来る、反射を凌駕する意思の力をこんなところで発揮してしまうくらいに、今のガストンは研ぎ澄まされてしまっていた。
声の主は、そして、ここまでガストンを研ぎ澄ませてしまったのは、もちろんイレーネ。
枷が外れて肉食獣かのごとく振る舞っていた彼女は、流石に体力が尽きたのか、今は穏やかに眠っている。
色々と、あられもない格好で。
目のやり場に困ったガストンは、慌てて天井を見上げた。
昨夜ですっかり見慣れてしまった天井を。
「模様を数えてる間に終わるとか、嘘じゃないか……」
ぼそり呟くも、聞きとがめる者は誰もいない。
いや、誰かが聞いたとしても、微笑ましいものを見るような生暖かい笑みを向けられるだけではあるのだろうが。
だが当の本人であるガストンはとてもそんなことは思えず、呆然と天井を見上げるだけ。
確かに、昨夜は凄かった。
人生で初めてであり、きっと二度とこんな凄まじい夜はないだろうと思える程に。
「イレーネが、まさかあんなに何度も、とはなぁ……」
昨夜何度も言わされた結果、口に馴染んでしまった、イレーネという名前。
そんなことにも気がついて、ガストンは顔を赤らめる。
昨夜、何度彼女の名を呼んだか、最早覚えていない。
そして、何度呼ばれたかも。
それだけ求めて、求められた。
その熱の名残は己の身体の中にも残っているし、今も感じさせられている。
分厚い胸板の上、最上の布団で寝ているかのごとく満ち足りた顔を見せているイレーネ。
すっかりと寝入って脱力しきった彼女の身体は、極上の羽毛布団かのように軽く柔らかく、温かい。
いや、熱い。
少なくとも触れあった肌は火傷するかのごとく熱いし、ガストンの身体の芯は今も尚滾っている。
それでいてその熱は、今までに感じたことのない安心感を与えてくれていた。
「……これが、幸せってことなのか……?」
呟きながら思い出すのは、長兄が言っていた夫婦生活のあれこれ。
あーだこーだと言っていたが、結局のところ、ちゃんと言葉にしろ、きちんと抱きしめろ、ということだったように思う。
残念ながら、抱きしめたくともガストンの左腕は動かない。
がっちりとイレーネが抱え込んでいるから。
「こ、これも、抱きしめろってことになるのか……?」
抱きしめろと言われたが、その時相手は抱きしめられているわけで。
今こうしているのは、逆の格好。それでも、イレーネから見れば抱きしめている。
そして、抱きしめられているガストンは。
「……むぅ……」
言葉に、出来ない。
恥ずかしいとも思うし、嬉しいとも思うし、他にも様々な感情が沸き立っていく。
ただ一つ言えるのは、満たされている、ということ。
ありとあらゆるプラスの感情が満たされているような全能感に、ガストンは戸惑っていた。
何しろ物理的には無敵とも言える彼だ、そういう意味での全能感を感じたことはある。
成長するにつれて、その全能感に身を任せてはいけないと学び、今では振り回されることもなくなったが。
だから、ある意味で普通の人間よりも全能感との付き合いに慣れてはいるはずだ。
だというのに、今こうしてイレーネと触れあって感じている全能感はそれとは全く違い、それ故に制御出来ない。
もっと戸惑うのが、多分制御しなくていいと本能的に思っている、ということ。
己の膂力を全能感のままに振るえば悲惨なことになることは、とっくにわかっている。
だから彼は、それらを抑え込むノウハウを持っている。
その彼が振り回されているこの感覚は、一体何なのか。
恐らくそれが、先程彼が呟いた、幸せというものなのだろう。
「まさか、なぁ……俺が、こんな気持ちになるだなんて……」
はぁ……と大きく息を吐き出す。
ずっと、異質な存在として生きてきた。
ファビアンを始め、多くの人達が親しく絡んできてはくれる。
だが、どこかで引かれた線を感じていた。
辺境伯子息という身分、比類無き武力。
それらは、ガストンを特別な存在として持ち上げ……孤立させていた。
例えばファビアンだって、幼なじみで気安いが、大将と呼び敬語を使う。
家族以外では一番近い彼でそれなのだ、他の人間は、辺境伯軍出身者と言えどもそれ以上近い人間はいない。
いなかった。
だがそれは、昨日までのこと。
誰よりも近いところに、踏み込まれた。
自分が踏み込まなければいけない、しかし、と躊躇っていたところに、猛烈な勢いで。
きっと、勢い任せではあったのだろう。
理性が緩んでいたが故の行動ではあったのだろう。
普段の彼女であれば、きっとこんなことはしなかった。
けれども。
「……そういうつもりがあったから、飛び込んできたんだよなぁ……」
元々、貴族王族の婚姻だからと、そういう覚悟があることは最初の夜に聞いてはいた。
だが、その後そういった会話がされることはなかった。
お互い忙しかったということもある。疲れていたということもある。
だがそれ以上に。
「あのまんまの方が、気楽でいいと思ってたんだけどなぁ……」
そう、気楽だった。
理性的で自制心の強い、それでいて程よく女性的なイレーネの隣で眠るのは、何とも言えない安心感があった。
このまま過ごすのもありかも知れないと思ったこともある。
それではいけないとも、もちろん思った。
だが、一歩踏み出すには、己の身が枷となっていた。
そんなことは、イレーネにはお見通しだった。
「まさか、あんな……なぁ……」
昨夜。
イレーネは、肉食獣のごとく求めてきた。
だが、確かに初めてでもあった。
それでも彼女は、踏み越えてきてくれた。
ガストンの葛藤を知って、それを越えるために。
そう思えば、一層胸が熱くなる。
「大事にするどころか、俺が大事にされてるじゃないか……」
そう呟けば、目頭が熱くなる。
人並み外れて丈夫なだけに、粗略に扱われることもあった。
強いことが当たり前でもあった。
だがイレーネは、そんなガストンの強さを知ってなお、弱いところに寄り添ってくれた。
彼が手を伸ばすことが出来ないところに、自分から来てくれた。
それを愛と言わずに、何と言おう。
「そっか。これが、愛か」
すとんと、胸の奥に何かが落ちてきたような感覚。
言葉がその感情に形を与えてくれれば、理解も出来る。
ガストンの胸の内にもまた、イレーネへの愛があるのだと。
初めて出会った頃よりも、彼女の強さも弱さもずっとよく知った。
そして、その弱さすらも大事にしたいと思っている。
愛しいと、思っている。
これが、愛と呼ばれる感情なのだと、やっと理解出来た。
そしてイレーネは行動で示してくれた。
だからガストンも、行動で示したい。
そう思った時、彼の口を衝く言葉があった。
「そうだ。ここに教会を建てよう」
それが簡単なことではないとはわかってはいるが。
それでもガストンは、そう口にして、うん、と力強く頷いた。




