人と魔の境界
「いやぁ、イレーネの言う通りだったなぁ。親父があんなにあっさり、それもこっちの言い値で出資してくれるだなんて!」
辺境伯との交渉から数日後。
ガストンとイレーネ、ファビアンやマリーといった子爵領家臣団の面々は、また山道を歩いていた。
「私の見立て以上に期待していただけているようで……特に燃料は、思っていた以上に需要があったようですね」
「てことは、ここが宝の山になるかも知れないんだなぁ。一体どれだけあるんだか、楽しみだ!」
そう言いながらガストンが目を向けたのは、地表に露出している黒い土の層。
一見してみればただの土だが、これこそがまさに泥炭の層である。
彼らは今、泥炭の埋蔵量が実際どれ程のものか、改めて調査のために来ていたのだった。
「量は勿論ですが……分布状況も見ておきたいところですね。
どうも場所によって堆積している厚みが違うようですし。
傾向がわかれば、ここ以外にあるものを発見しやすいかも知れません」
「確かに、あればあるだけいいし、見つけやすい方がいいもんな」
納得顔でうんうんと頷いているガストンへと同意を返しながら、イレーネは泥炭の層へと目を向ける。
それから、しばらく沈黙した後、ぽつりと零す。
「その調査のためには、瘴気がかなり濃い場所にも入る必要があるかも知れません。
魔獣が出る可能性もありますから、その時は、申し訳無いですがガストン様、よろしくお願いします」
「おう、任せとけ! 調査じゃ出る幕がないし、護衛としてくらいは役に立たないとな!」
どん、と厚い胸板を叩きながら、ガストンが手にしたハルバード、穂先近くに斧が付いた槍の石突きで地面を突く。
ちなみに、鎧は着ていない。
「……しかし、本当に鎧は着なくていいのですか? 確かに、山道を歩くのには不向きでしょうけれど」
「いやぁ、別に着てても歩くのに問題はあんまないんだけどな、魔獣の力相手だと、鉄の鎧もあんま意味がないんだよなぁ。
むしろ身軽に動けた方がましなくらいだし」
ガストンの説明に、なるほど、と思う部分もなくはない。
暴れる獣は仕留めるのも一苦労、場合に寄っては兵士数人がかりになることもあるほど。
狩人などは、如何に動物に己の存在を悟らせず、一気に仕留めるのかに心血を注ぐともいう。
と、そこまで考えたところでふとイレーネの脳裏に、先日の会話が思い浮かんだ。
「あの。まさか、ヒグマの魔獣を倒した時にも……?」
「ああ、着てなかった! 何せ岩も切り裂くような爪してたからなぁ、鉄の鎧も全く役に立たなかったんじゃないかな!」
「いえ、そんな楽しそうに言うことではないと思うのですが……」
実に朗らかに語るガストンへと、呆れ顔でイレーネが言う。
倒してしまったからこうして笑い話にもなっているが、もしも目の当たりにしたら血の気が引くどころではないだろうことは間違いない。
今更ながら、ガストンが魔獣を退治すること前提に計画を立てたことに、後悔の念が湧いてくる。
「確かにあの時は大変だったけど、多分次に会ったらもうちょい楽に倒せると思うぞ。
どこを攻めればいいかもわかったし」
「そ、そういうものですか……?」
狩りにも戦場に出たことがないイレーネには、ガストンの言う感覚がわからない。
ちらりとファビアンや子爵領家臣団を見れば、皆小さく首を横に振って返してくる。
つまり、精鋭である辺境伯軍出身の彼らであっても理解出来ないらしい。
もうこれは、理解しようとするだけ無駄かな、とイレーネが諦めかけた時だった。
「りょ、領主様! あ、あそこにでかいイノシシが……ありゃぁ……」
突然、先導役として雇っていた地元の狩人が声を上げ、前方を指さす。
そちらを見れば……明らかに、尋常でない大きさのイノシシがいた。
「噂をすれば、だなぁ。ありゃスピアボアだ」
「や、やっぱり!? た、大変だ、皆に知らせねぇと!」
気楽そうな声でガストンが言えば、狩人の顔から血の気が引く。
スピアボア。牙が槍のように鋭く長く伸びたイノシシ型の魔獣である。
普通のイノシシの体重が100kg前後なところ、この魔獣は二倍から三倍もの巨躯となり、その質量に物を言わせた牙による突撃で、人どころか一般的な村に設置されている防御柵すら破壊してしまうような、恐ろしい魔獣だ。
そんな恐ろしい破壊力を持つスピアボアは、通常十人以上の兵士が馬防柵のような道具を用いて何とか仕留めるものだが、人数こそいるものの、今この場にそんな道具はない。
また、街に侵入されてしまえば、さほど武力を持っているわけでもない小さな街だ、被害がどれだけ出るかもわからない。
だから、狩人が顔面蒼白になるのも当然ではあるのだが。
「いやぁ、大丈夫大丈夫。あれくらいなら俺一人で十分だ」
「ええええ!?」
ガストンが気楽に言いながら前に出るものだから、狩人は思わず悲鳴を上げてしまう。
それから、慌てて後ろを振り返って。
「み、皆様、奥方様、領主様をお止めください! スピアボア相手に一人だなんて、無茶だ!」
そう懇願したのも無理からぬことだろう。
まさか目の前でみすみす領主を死なせるわけにはいかないが、彼は平民。
直接領主を止めることなど出来る立場ではないから、そう懇願したのだが。
「あ~、大丈夫大丈夫。ほんとに大将一人で何とかなるから」
「ええええ!?」
従者であるファビアンも気楽そうに言うものだから、狩人はまた悲鳴を上げた。
それも無理からぬことではあるのだが。
イレーネもまた、止めることが出来ないでいた。
何しろガストンに対するファビアンの、ぞんざいなように見せかけた忠義ぶりはよくわかっている。
その彼が止めないということは、本当に出来るのだろう。
また、辺境伯も、魔獣の一体二体はどうにかなると言っていたのだから。
「……大丈夫、なの……?」
それでもまだ、半信半疑だったのだが。
次の瞬間、その疑念は吹き飛んだ。
スピアボアと一緒に。
「……はい?」
イレーネの目の前で、スピアボアが宙に飛んでいた。
先程も言ったが、スピアボアは体重が200kgを越えるものがほとんどである。
そのスピアボアが、宙を飛んでいた。
ガストンの、掬い上げるようなハルバードの一撃で。
「……え? え??」
あまりに意味不明な状況に硬直するイレーネの目の前で、ガストンがもう一度ハルバードを振るう。片手で。
すぱんと小気味のいい音がしたと思えば丈夫な毛皮で守られたスピアボアの首が刎ねられ、その身体が地面に落ちる前にがしっとガストンの左手で掴まれた。
繰り返し言うが、スピアボアの体重は普通のイノシシの二倍から三倍。200kgから300kg程度である。
それを、ガストンは片手で掴み、吊し上げていた。
「は? え、ええ???? な、なんですの、これは??」
流石のイレーネも大混乱、先程まで蒼白な顔をしていた狩人も唖然としているのだが。
「何って、血抜きが必要だろ?」
「違います、そういうことではございません!」
馬防柵で止め、兵士数人がかりで倒すのが基本の相手を、ガストンは一人で仕留めた。
それも、突撃を止めるどころか打ち上げ、落ち際に首を刎ねるという方法で。
イレーネからすれば、意味がわからない。
この場で当たり前のような顔をしているのはガストン一人、狩人は呆然、元辺境伯軍出身の面々もどこか諦めが入ったような、達観した顔である。
「違うって、何が? あ、川の流れに浸けて冷やさないといけないか」
「そうでもございませんけれども! けれども、確かに必要でございますわね!?」
残念なことに、狩った獲物を川の流水に浸して血を抜きながら冷やすことで味の劣化を防ぐことが出来るという知識を、イレーネは持っていた。実際にやったことはもちろんないが。
だからイレーネは混乱してしまったし、もちろん知っている狩人は、新たな領主が知っていたことに感心していたりする。
「うっし、んじゃ川に浸けて、その後捌くか! 今夜は肉祭りだな!」
「肉祭り……? よ、よくはわかりませんが、ありがとうございます領主様!」
現実と受け入れられたのか理解することを諦めたのか、狩人はぺこぺこと頭を下げた。
被害の深刻なスピアボアだが、狩ることが出来さえすれば貴重な食料。
しかも普通のイノシシよりも美味と来ているのだ、きっと領民達も盛り上がることだろう。
「はぁ……もう、何だか色々考えていたのが馬鹿馬鹿しくなってくるわね」
そうぼやくと、イレーネは頭の中で段取りを始めた。
先日のバーベキューの時に、必要そうなものはわかっている。
スピアボアから取れる肉の量は、恐らく精肉で100kg程度、住民が千人と考えると一人当たりで100g。
流石に全員集まることはないだろうが、スピアボア一頭で足りるとは思えない。
「ガストン様、スピアボアはお任せしますから、わたくしは先に戻ってバーベキューやらの手配をしてまいりますね」
「お、わかった、頼んだ!」
イレーネが言えば、ガストンはハルバードを掲げて答える。
反対の手には、未だスピアボアをつり上げたままで。
凄絶であるはずのその光景に、何故かイレーネは笑ってしまう。
「はい、それでは後ほど」
笑いながらそう告げると、マリーや数人の家臣を伴って街へと向かう。
その足取りは、来た時よりも随分と軽くなっていた。




