近づいたからこその悩み。
「うへ~……つっかれたぁ……」
夕方、自室に戻ってきたガストンは、げっそりとした顔でぼやき声を出した。
朝食時に説明を受けた補助金申請の書類に始まり、各種申請書、企画書などなど様々な書類を読み込み、署名をするだけのお仕事。
それらは言うまでもなく最もガストンが苦手とするところであり、その疲労感は重装備で30km以上を一日で歩ききった行軍訓練よりも上である。
「確かに今日の書類仕事は、久々にたっぷりでしたもんねぇ。いっそ馬車で移動してた日々の方が楽ってくらいで」
「だよなぁ……馬に乗ってるのだったら一日中でも出来るんだけどなぁ」
侍従として部屋に控える……というには随分と気楽そうにしているファビアンが言えば、気にした風もなくガストンも頷いて返す。
いや、書類仕事の量が多かったことは気にしているが。
「まあ、奥様のお話からすれば、街道整備やらの最初に必要な書類ってことでしょうから、しばらくは大丈夫じゃないですかねぇ?
ほら、明日は街道付近で調査やら伐採やらの外仕事ですし」
「うん、それはほんっとに助かる。俺はやっぱり身体動かしてる方が性に合うからなぁ」
ファビアンの言葉に、ほっとしたような顔のガストン。
なお、言うまでも無いかも知れないが、子爵であり領主である彼は直々に街道作業に従事するつもりである。
普通の貴族家であれば考えられないところだが、ガストンだから仕方ない。
イレーネもそこは理解していて、だからこそ彼が外で存分に働けるよう、初日に書類仕事を纏めていたわけだ。
ちなみに、トルナーダ辺境伯家は当主もガストンの兄達も、全員が工兵として動くことが出来るだけの技能を持っている。流石に使う機会は滅多にないが。
「俺の適正や能力を考えて仕事を割り振ってくれてんだよなぁ。
ほんと、あの人が来てくれて良かった。俺達だけだったら、普通に荷物の通り道になるだけで終わってたろうし」
「まったくですよ。いやほんと、あんな方がお嫁に来てくれたなんてめっちゃ幸運ですよ、大将!」
「お、おう……」
しみじみと言っていたところにファビアンが囃し立てれば、ガストンは急に勢いを失ってしまう。
おや、と視線を向ければ、じわじわその頬が赤くなっていくのが見て取れた。
「ちょっ、何今更照れてんすか大将! もう結婚してから何日も経ってんですよ!?」
「そ、そりゃそうだけど、実感する時間なんてなかったじゃないか!?」
「いやいや、そうは言っても……」
その反応に思わずファビアンが笑いながら突っ込みを入れれば、ガストンは顔を真っ赤にして言い返す。
それに動じることなく更に突っ込みを重ねようとしたファビアンが、止まる。
結婚式が終わった後、ゆっくり過ごす時間もなく書類の山との格闘。
苦手なガストンは毎日フラフラで、寝所に行けば即就寝だったことは想像に難くない。
書類が片付いたと思えば直ぐに出立、ここまでの長い道中でイレーネは馬車、ガストンは馬。
「……あんまゆっくり話す時間、なかったっすね?」
「だろぉ!? するとしても仕事の話ばっか、むしろ今じゃそっちの方が気楽に話せるくらいだし!」
「大分重症っすね……貴族の結婚じゃそれなりにあることでしょうけど」
政略結婚の多い貴族の世界では、夫婦であっても割り切った関係であることは少なくない。
そういったケースにおいて婚姻相手とはいわばビジネスパートナーであり、実際に夫婦で事業を運営している貴族もいる。
当然夫婦の会話もビジネスライクになってしまうのは仕方のないところだろう。
「おまけに大将、小粋な社交界ジョークとか苦手ですもんねぇ」
「出来るわけないだろ、俺に! ああもう、戦術の話とか武術の話だったらいくらでも出来るんだけどなぁ……」
「そっち方面は奥様がついてけないでしょ。……いや、案外そうでもないのか……?」
呆れたように言ったファビアンだが、すぐに考えを改め真面目に検討する。
今朝の話しぶりからして、イレーネは戦略、あるいは軍略といった話にも明るいようだ。
であれば、武術はともかく戦術については興味を持っている可能性はゼロではない。
「そういや奥様、戦術については大将の方が知識あるだろうみたいなこと言ってましたし、理解はしてくださりそうな気はしますねぇ」
「お、おう? そういや言ってたけど、なぁ。だからってそういう話を、その、寝所でするってのは、こう……雰囲気ってもんが」
もごもごと口にするガストン。
それを聞いたファビアンは、一瞬目を見開いて。
しかしすぐにニマニマとした顔になった。
「ほう。ほうほう? そっか~、そうですか~、雰囲気を気にしますか、大将が。いやぁ、長生きはするもんですねぇ」
「お前の方が一個下だったよなぁ!?」
「そうっすけど、これはなんていうか、精神的な年齢差っていうか経験的な年齢差っていうか?」
「ぐぅ……そ、そりゃお前の方が経験あるだろうけどよぉ」
悔しそうに唇を噛むも、誰よりも自分がその通りだとわかっているガストンは、言い返すことが出来ない。
女性との交際経験豊富なファビアンとは真逆で、ガストンはほぼ皆無。
そこを言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
「まあでも、真面目な話、なしじゃないと思いますよ?
大将が気の利いたムードのある会話なんて出来るわけないし」
「そりゃ確かに出来ないけどさ、ますますムードから遠ざかるだろ?」
「最初はそれでいいんじゃないですかねぇ。大将のことだから、王都に居たころは書類仕事で疲れて即寝か、ろくに会話出来ないまま寝るだけだったとかでしょ?」
「うぐぐ……そ、その通りだけどさ」
まるで寝所でのあれこれを見てきたかのように言うファビアンに、ガストンは言い返すことが出来ない。
あまりにその通りだったので。
強いて言うならば初夜だけは違ったが、あれは『初夜』扱いしていいものか甚だ疑問だ。
そんなガストンの内心を見透かしたかのような顔でファビアンが続ける。
「だったらまずは会話することっすよ。それも、ちゃんとやり取りが続くやつ。ムードなんて後から付いてきますって」
「そ、そういうもんかぁ……? そりゃ確かに、兵法書の話だとかでもいいってんなら、俺も気が楽だけどさぁ」
「お互い気楽に話せるのが一番っすよ。で、奥様の方が知識はおありなんですから、大将の振る話題にも対応してくださいますよ、きっと」
「それはそれで申し訳ないけど……仕方ないかぁ、俺の頭じゃなぁ」
ぼやきながら、ガストンはがしがしと頭を掻く。
あまり物覚えはよくなく、覚えられるのは興味の持てた軍事関係のことばかり。
女性を口説くのに使えそうな話題なんて、まるで頭に入ってこない。
であれば、今そういった話題しか触れないのは仕方の無いことではある。
「そこは奥様もわかってくださいますって、きっと。
んで、段々打ち解けてきたら今度は身体の距離も近づけてですね」
「だわぁぁぁ!! ま、まて、そういうのはまだ、早すぎる!」
「いや普通はとっくに済ませてないといけないことなんですがね?」
「わ、わかってる、わかってるけど、さぁ……」
呆れたように言うファビアンへと、歯切れ悪く返すガストン。
はふ、と大きな溜息を吐けば、風が巻き起こった。
「俺があの人に触れたら、絶対折れるだろ」
「前も言ってましたね、それ。まあ、心配するのもわかりますけど」
「だろぉ? 多分抱きしめたら背骨がポッキリだ」
力無く言いながら、ガストンは己の手を見つめる。
男性としてもかなり大柄な彼だ、その手も並みの男性より二回りは大きい。
そこに秘めた力にいたっては、二倍にも三倍にもなろうというもの。
そんな手で、女性としてもかなり細身であるイレーネに触れてしまえばどうなるか、想像がついてしまう。
「……大事にしたいんだけどなぁ……あの人の話聞いてると、大事にしなきゃって思っちまう。
なのに俺の手じゃ、大事に出来ないんだよなぁ……」
「……それも、慣れだと思いますよ?」
「慣れる前にどうにかしちまいそうでなぁ。……はぁ、悪いな、折角色々教えてくれてんのに」
「いやいいっすよ、気にしないでください。大将が真面目に悩んでんすから、これくらい大したことないですって」
幾度目かの溜息を吐いたところでガストンが謝れば、ファビアンはひらりと軽く手を振って応える。
不器用で女っ気のなかったガストンが、不器用なりにイレーネに向き合おうとしていることは、彼にとっても嬉しいこと。
ただ、ガストンが後一歩を踏み出せない気持ちもわかるので、どうにも後一歩を押してやることが出来ないでいる。
「とりあえず今日は、兵法書の話でも振ってみるよ」
「ええ、やってみてください。奥様なら多分大丈夫だと思いますよ」
まずは一歩。いや、半歩進む程度のものだろうが、それでも前に進もうとしていることには違いない。
これがガストンにとってもイレーネにとっても良い変化であることを、ファビアンは願わずにはいられなかった。
ちなみに、その夜。
「な、なあ。ニンバハルの兵法書って知ってるか?」
「ええ、もちろん存じております。昔の偉大な兵法家が綴った、今なお読み継がれ参考にされているものでございますよね?」
「お、おお、それなんだけどな、俺も前読んだんだけどな……」
「なるほど、そのように解釈して、実際に使うことも出来たと……」
と、ファビアンの読み通り、イレーネは話しについてきて。
その日は、今までで一番盛り上がる夜となった。会話的な意味で。




