まだ見ぬ領地へと向けて
こうして強力な助っ人を得たガストンは、書類仕事に敢然と立ち向かうようになった。
覚悟を決めたガストンの集中力は凄まじく、処理は一気に加速。
大量の書類は見る間に減っていき、三日後には王都ですべき書類処理が全て終わっていた。
「お、終わった……奥様は女神様だ……」
とファビアンなどはイレーネに縋り付きそうになったところをマリーに引き剥がされたりなんて一幕があったりしつつ。
いよいよガストン達は、領地へと向かうことになった。
「……出立の準備が粗方終わってるのは、一体」
「はい、一昨日に奥様から、今日くらいに終わるだろうから準備しておくようにご指示いただきまして」
不思議そうなガストンに答えるのは、メイド長のマーサ。
彼女はこの数日ですっかりイレーネに心服したらしく、実に誇らしげな顔。
もちろんガストンも、自分が書類仕事に必死になっている間にそんな指示を出していたイレーネに感謝と感服の視線を向ける。
「確かに指示はいたしましたけれど、予想よりも随分と早く終わっております。
流石は辺境伯軍におられた皆様、必要な荷物の選別と荷造りは手慣れてらっしゃいますね」
視線を向けられたイレーネが小さく微笑みながら言えば、マーサやメイドのアデラなど使用人達は一様に嬉しそうな照れ笑いを見せた。
そんな様子を見ているマリーは『流石イレーネ様』とイレーネの後ろでドヤ顔になりそうなのを堪えている。
ここで自分が偉そうにして、折角イレーネが高めた彼女への支持を損なうわけにはいかない。
それくらいの判断力と自制心はあるのだ。
そんな様子を見ていて、ガストンもどこか満足げだ。
自分が言うまでもなく準備が整っていたことに対して……ではない。
イレーネが自発的に動けていること、その結果、トルナーダ家の使用人達に受け入れられていることに対して、である。
国王から聞いていた話によれば、イレーネは随分と抑圧された環境で育ったらしいし、出会った当初、恐らくそうなのだろうと言動の端々から伺えた。
だから初夜においても随分と張り詰めていたわけだが……それが、かなり薄れてきているように見える。
それは、とても喜ばしいことに思えた。
この分ならば、また新しい環境に移っても、きっと大丈夫だろう。
「よぉし、じゃあ出発は明日にして、今日の晩は壮行会にしようか! 肉と酒を用意しないとな!」
「何かあると大将はすぐそれだ。まあ、今日ばっかりは良いアイディアだと思いますけども!
……あ、奥様はどう思われます?」
ガストンが言えば、同調しかけたファビアンが我に返ってイレーネへとお伺いを立てる。
このトルナーダ子爵家の当主はガストンで、その彼が言っているにも関わらず。
もっとも、そのガストンも、はっとした顔になったと思えばイレーネの方を伺っているのだが。
二人の、いや、この場にいる全員の視線を受けたイレーネは、ぱちくりと一度瞬きをして、それから。
「ガストン様がそうおっしゃるのならば、よろしいのではないでしょうか。ただし、明日に残るほど羽目を外さないよう気をつけてくだされば、ですけれど」
若干苦笑気味になりながらも条件付きで承諾すれば、わぁ! と使用人達もガストンも湧き上がる。
すぐに彼ら彼女らは動き出し、酒の手配やご馳走の手配まであっという間。
……その手慣れ具合を見るに、しょっちゅうこういうことはあるんだろうな、とイレーネが呆れ半分感心半分で見ている内に、準備は進んでいった。
その夜は、上も下も無いどんちゃん騒ぎ。
イレーネやマリーからすれば初めて体験するその空気に、最初はとまどい。
やがて、『こういうものなのだろう』と段々受け入れ、アデラやマーサなど普段仕事で絡むことが多い使用人達を中心にある程度会話することも出来た、はずである。
だからか、翌朝の出立の際、年齢のため王都のタウンハウスを維持する組として残ることになったマーサなどは涙ぐみながらイレーネに「どうかガストン坊ちゃんをよろしくお願いいたします」とまで言い出す始末。
ガストンが「だから坊ちゃんはやめてくれと」と抗議するのをよそに、その涙に心打たれたイレーネはマーサの手を取って「わたくしの出来る限りでもって支えます」と答え、互いに固い信頼の絆が結ばれたことを実感したのだった。
こうして暖かく送り出されたイレーネは、トルナーダ子爵領となった土地へと向かう馬車に乗っていた。
侍女であるマリーと二人で。
それも、外見こそシンプルなものの、乗ってみれば振動の少ない、かなり高級、というか高性能と思われる馬車で。
ちなみに、同乗していてもおかしくないガストンは、馬車の室内が狭くなるからと馬に乗って馬車の横に護衛か何かのようについている。
「……今更だけれど、おかしいわね。わたくし、半ば人質のようなもののはずなのに、全くそんな感覚がないわ」
「そうですねぇ……むしろレーベンバルトの王宮よりも呼吸がしやすいくらいですし」
おもむろに呟いたイレーネへと、マリーも頷いて返す。
何しろ王太子から目を付けられている王女イレーネとその侍女だ、王宮での扱いは悪く、針のむしろに座っているような気持ちで過ごしていたものだ。
そこから敵国へと送り込まれたのだ、同じかそれ以上に息苦しいもの、何なら身体の自由すら大幅に制限されるものと思っていたのだが、蓋を開けてみればこれである。
あれこれと意見を出し、指図しても疎まれず、むしろ喜ばれている。
食事に至っては、今までと天と地ほどの違いと言って良い。
「姫様、こちらに来てから血色もよくなりましたし、健康的な雰囲気になってきましたものね」
「そう? 確かに、身体が軽くなった気はするのよね……動きやすくなったというか。食べ物の影響って、やっぱり大きいのね」
マリーがイレーネの顔を見ながら言えば、微笑みながら返すイレーネ。
書物などで読んだ知識として、その影響が大きいことは知っていた。
ただ、この時代はまだまだ学問として研究されたわけでもなく、データの蓄積などもない。
そのため、経験則としてのそれでしかなく、イレーネとしても『そんなものなのかな』程度の認識でしかなかったのだが……それが、自身の経験として改められた。
「食べ物の影響、纏めておくのも面白いかも知れないわね。ちょうどここに、都合の良い実験体がいるのだし」
「私ですか? 姫様のためならいくらでも身体を差し出しますけれども」
「違うわよ、わかって言ってるわね? ああ、でも、マリーの記録もあると心強いわね」
冗談めかして言うマリーへと、苦笑しながら返して。それからイレーネは若干真面目な顔になる。
食べ物と身体の関係性は、確かにあるようだ。
では、それが具体的にどう関係するのか。恐らくそれは、まだ解き明かされていない。
「……領民の食事情を改善して、その効果を検証する、とかだったら非道ではないわよね……?」
「姫様、それは私程度の頭では理解しきれませんし、お答えも出来ないのですが……食事情の改善だけを前に出せば、非難はされないかとは思います」
「まあ、そうなるわよね。そもそも、改善が必要な食事情なのかもわからないわけだし」
「数字を見る分には、改善の余地は多そうですけども」
王都で処理していた書類を思い出しながら、マリーは答える。
向かっている領地は、辺境伯領に隣接する地域。つまり、国境近くの辺境だ。
元々大した産業もなく発展していないところに先だっての戦争、二人の故国であるレーベンバルト王国との争いにより治安も悪化している様子。
更には魔獣が時折出没するらしく、その被害の影響も馬鹿に出来ないくらい出ている。
それらの情報を元にすれば、恐らく子爵領となる地域は決して裕福では無いだろう。
「いずれにせよ、現地を見てから……何より、ガストン様の許可をいただけるかも大事だしね」
「それはそうですね。……姫様のおっしゃることなら大体許可しそうな気もしますけど」
思案げなイレーネに対して、マリーは若干投げやりだ。
王都での書類仕事を経て、ファビアンのような激しい反応こそなかったものの、ガストンもかなりイレーネに対して信頼を置きだしている。というか、依存しかけている。
であれば、イレーネが言うことに対して拒否される可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
「そうならいいのだけど。まあ、それもこれもまずは向こうに着いて現地を見てから、ね」
イレーネとて、信頼され始めていることは感じているものの。
慎重な意見を述べるに留め、まだ見ぬ領地がある方向へと視線を向けるのだった。
※しばらくは日曜にお休みをいただいて、こちらは月水金に更新出来ればと考えております。
こちらの事情によりお待たせすることもあるかと思いますが、その際はご容赦いただければと思います。